5-38 影法師
―――瞬間。世界が切り替わった。
赤灼けた空が広がり、乾いた大地が無限に続く世界。心の内側へとレイは引きずられていた。
「―――はっはっ! 諦めるのか。ざまあねえな」
嘲りの声がレイの背後から投げかけられた。振り返れば、『黒い影』が胡坐をかいていた。
「……お前、何で……それにここは。僕の心の中?」
凍り付いたように思考が上手く回らない。数えるのも諦めたやり直しによる疲弊は重く、レイの頭は靄がかかる森の中を彷徨う迷子のように右往左往してしまう。
鏡写しの様に、互いに胡坐を組んで向き合うレイと『黒い影』。先に言葉を発したのは『黒い影』の方だった。
「はっ。相変わらず、おめでたい頭しやがって。俺はお前の足元に伸びる影だぜ。ここ以外のどこに居ると思ってたんだよ」
と、レイの頭を覗きこんだように吐き捨てた。レイはこの場にコウエンが居ないのか、視線だけ横に滑らして確認した。
「あの怖いのには退席願ったぞ。俺とお前、二人っきりにしてほしいと頼んだら、ブツクサ文句を言いながらふて寝しやがった」
ぎくり、と。レイは硬直してしまう。再び自分の考えを読まれてしまい、態度に出ていたのかと顔に手を当てた。
(……いや、違うな。おそらく―――)
「そういうことだ。お前の考えている事なんて、お見通しなんだぜ。隠し事が出来ない親しい間柄って奴だ。ぎゃははは!」
レイは表情を歪めて、あからさまに嫌悪感を露わにしてしまう。自分の思考は読まれているのに、向うの思考は一切流れて来ない。一方通行に考えを読まれてしまうのが腹立たしい。
「怒るなって。俺はお前から生まれたけど、お前は俺から生まれてない。お前の考えていることは勝手に流れてくるけど、俺から流れるのは無理に決まってんだろ。川が逆流したら、一大事ってもんだ」
「随分とお前に都合がいいな、『黒い影』。それで、こんな所に呼んで僕に何の用なんだよ」
嫌悪感を露わにしたまま、レイは先を急がせた。手元を見れば、奴隷契約書は影も形も無くなっている。おそらく、契約破棄をする寸前に目の前の存在に呼び出されたのだろう。
時の流れが違うとはいえ、悠長にしていられる余裕はレイに無い。一刻も早く現実に戻り、リザ達との契約を解除したかった。
しかし、『黒い影』は手を前に伸ばし、話の流れを止めようとする。
「ちょい待ち。その『黒い影』ってのは止めようぜ。つまんねえだろ。知性が無いっつうか、ストレートすぎてひねりが無い。もっとましな名前を付けてくれよ、おとーさん」
「……お前に父親呼ばわりされる筋合いなんかないぞ。だいたい名前を付ける必要だってない。……お前はただの影だ」
「あ? だって、俺はお前から生まれたんだぜ、御厨玲。それに、名を付けるには意味がある。あの女も言っていただろう。名を付ければ縁が生まれるって。俺とお前の間にある細いつながりを強くしたいんだよ」
蓮っ葉で明け透けな物言いの『黒い影』はレイに名前を付けるように要求する。レイは真面目な性分が災いし、自分の記憶から使えそうな単語を引っ張り出す。
「シャドウとかゴーストとかは」
「却下。ネーミングセンスねぇーな」
腕を交差して大きくバツを作る『黒い影』。レイは青筋を作りながらも幾つもの単語を口に出したが、『黒い影』はどれも気に入らないとばかりに却下した。
記憶の単語帳も枚数を減らし、いい加減焦れたくなったレイは叩きつけるように言った。
「じゃあ、影法師だ。これ以上は考えるのも面倒だ! はい、決定!」
「はぁ!? そのまんまじゃねえか。『黒い影』となんも変わんないぞ!」
「うるさい! お前が僕から生まれたんなら、僕の言う事に少しは従え!」
横暴だー、と四肢を振り回して騒ぐ『黒い影』、いや影法師に対してレイはふんぞり返る。もう、これ以上意見は出さないし、文句があるなら自分で決めろと目線だけで伝えた。どうせ、心を読んでいるのだから、口に出す必要はなかった。
未だ文句があるのか影法師はブツブツと呟いていたが、最終的には諦めたように新しい名を受け入れた。
そして、レイは影法師に向けて口を開いた。
「それでだ。お前、まさか名前を決めるために僕を呼んだんじゃないだろうな」
「ん? ああ、違う違う。名前を付けて貰ったのは単に冥途の土産的なあれだよ」
影法師の口にした冥途の土産という言葉に込められた意味にレイの表情が強張った。顔のない影法師があざ笑うかのように、
「だって、お前。諦めたんだろ。アイツを倒すのを。あの白い餓鬼を倒すのを諦めて、死ぬ覚悟を決めちまったんだろ。お前が死んだら、俺も消えちまうからな。墓前に刻む名前が欲しかったんだよ」
自分以外、誰も気が付いてないはずの事を指摘されて、レイは押し黙る。だが、影法師には関係なかった。容赦なく、レイの心をナイフで抉るように言葉を重ねた。
「恥じるなよ。お前は頑張った。やれるだけの事をし、やれるだけの手を尽くし、やれるだけの命を捨てた。語るのも難しく、聞くのも憚られるような死に方をした。矢で貫かれるのなんて序の口も序の口。数多の形状に変化する影によって、脳を溶かされ、串刺しにされ、寸切りにされ、押しつぶされ、絞られ、折りたたまれ、潰され、縫われ、抉られ、毟られ、ありとあらゆる殺され方をされ尽くしたよな」
影法師が指折りで数える度に、脳裏を白い少年が齎した悍ましき所業が蘇る。人を蝋燭の火を消すようにあっという間に殺し尽くせるだけの実力を持ちながら、白い少年はレイに向けて様々な殺し方を行う。
十メートルを踏破した褒美だと言わんばかりに。
まるで虫を甚振る子供の如き無邪気さで。
矢で殺されたのがまだマシだと幾度も思い知らされた。
死に戻りのイタミすら上回る死の苦痛。
イタミの度合いはレイとレイを殺す相手との実力差に比例する。その理屈からいえば、あの白い少年は赤龍やゲオルギウスよりかは弱いはずだ。だけど、残忍さは比べようも無い。レイは戦っているつもりでも、向うは遊んでいるに過ぎないのだ。
「あれだよな。もう心は廃人寸前で、本気で死のうと思って、奴隷契約を破棄しようと思ったんだよな」
自分の心を読む相手に虚言は通じない。レイは自分の弱い心を吐露する。
「……ああ、そうだ。今の僕じゃ、どうやってもアイツに勝つ事は出来ない。……だったらせめて、リザ達を守らなくちゃ、もがっ」
奴隷契約を解除する事は三人との別れを意味している。しかし、解除をしなければ三人はレイの死に引きずられてしまう。生きて帰るという覚悟を諦めたレイは三人を自分の死に巻き込むまいと決断した。その重大な決断を遮るのは影法師が伸ばした手だった。
レイの頬を両側から押さえつけた影法師は笑う。
「はっはっはっ! お前は本当にバカだよな。あの場を生きて帰れる手段なんて、始めから一つしかないだろ。そんな事も気づかないほど馬鹿なのか、お前は」
影法師がレイを嘲笑する。しかし、レイは怒るどころか悲しそうな表情を浮かべて、嘲りを受け止めていた。その達観した姿に唾を吐くかの如く、影法師は告げた。
「通路を塞いでいたスライムは死んだ。もう壁は無い。手前の通路前で白い餓鬼が居るなら、奥側の通路を行っちまえばいいんだよ。そうすりゃ、惨劇の舞台を降りる事なんてわけない」
影法師は正しい。通路は二つあり、片方が使えなければ、もう片方を使えばいいのだ。
その代りナリンザを見捨てる必要がある。
「あの女。ナリンザとかを見捨てな。そうすりゃ、お前は生き残れる」
「……そんな事、出来るはずがないだろ」
顔を挟む黒い手を握りつぶしそうな勢いで掴むと、瞳に炎を宿しながらレイは言う。怒りを露わにしたレイを前に影法師は愉快げに言葉を続ける。
「へぇ。リザ達を見捨てる事は出来るのに、あの女は出来ないってのか。なんだ? 惚れたのか。抱きたいのか。確かにありゃいい躰をしてる。ちと年上だが、それもまたよ―――っと」
影法師の言葉が途中で遮られたのは、レイが拳を振るったからだ。闇を固めたような影法師の頭にレイは拳を叩きこむ。しかし、手応えは無く、拳は闇をすり抜けてしまう。頭部を貫いたままレイは否定した。
「そうじゃない。そんな下世話な感情が理由じゃない」
「なら、なんだよ。仲間に一方的な三下り半を突きつけてまで、あの女と心中するのはどんな理由があるんですか」
自分の頭が貫かれていることもお構いなしに影法師はレイに問いかける。
どうせ自分の心を読んでいるはずなのに、尋ねてくるのが影法師の憎たらしい所だ。遠まわしに突きつけているのだ。自分の気持ちを言葉にしろ、と。
「あの人は僕を助けようとして、魔法陣に踏み込んでしまった。いわば被害者だ。だから、僕にはあの人を生かして返さなくちゃいけない責任があるんだ」
「せーきーにーん? 違う、違う、違う! そんなのは後からの理由づけだろ。自分を納得させるだけのただの装飾。それじゃなく、お前の中にある願望を。業をさらけ出せって言ってんだよ!」
僕の業、とレイは繰り返した。
頭を貫いていた腕はだらりと下がり、視線はぼやけてしまう。
(僕の業。……どうして助けたいと思ったのか。……どうしてなんだ)
果物の皮を剥くかのようにレイは自分の内面を見つめる。どうして、ナリンザを助けたいと思ったのか。ナリンザだけじゃない。これまでに助けようとした人々と倒したいと思った敵の顔が思い出されていく。ファルナ、アイナ、リザ、レティ、シアラ、エトネ。どうして彼女らを助けようと思い、バジリスク亜種や、ゲオルギウスや、ハーピーの群れや、赤龍や、グリーンボアと戦った。
理由はいくらでも作れる。命を助けてもらったから、助けられる命だと思ったから、見捨てることが出来なかったから。でもそれは全て影法師の言う、自分を納得させるだけの理由に過ぎない。
どうして自分は助けたいと思うのか。
―――そんなの知るか。
「……助けたいからに決まっているだろ」
レイは自分の中にマグマのような熱い感情が渦を巻いているのを感じていた。それが後押しするかのようにレイの口から言葉が溢れる。
「ああ、そうだよ。僕はそうしたいんだ。神様の不条理に巻き込まれて、訳も分からずこの世界に来た無力な僕に唯一手に入れた力。屍を積み重ねるような事しかできないけど、それでも僕は助けたい! 助けたいという、自分の気持ちから目を逸らせないんだよ!!」
叫ぶたびに、レイの中で何かの歯車がかみ合う音がする。それは次第に幾つもの歯車とかみ合い、大きな力へと変化していく。
「そうだ、そうだ、そうだ! 助けたいって言う感情も突き詰めれば、立派な業となる。お前の中にある業の名前は『強欲』だ! 忘れるなよ、御厨玲。お前は誰よりも欲しているんだよ! 人を助けたいという思いが因果を重ねちまう。それが回り回って地獄を引き寄せる事になるのに、誰も見捨てられないお前の業がお前を縛る。だけどな、それが力になるんだよ!!」
影法師が叫ぶと、レイの体に変化が起きた。光の粒となって消えようとしていく。
「おっと、時間切れだ。ま、いまはこれぐらいで十分だろうな。種ぐらいは撒けたはずさ」
「待てよ影法師。お前、僕に何をしたんだ。いや、僕に何が起きているんだ!?」
レイは自分の中で未知のナニカが完成しつつあるのを感じていた。それは自分の根幹に関わる重要なナニカだ。自分が開けてはならないパンドラの箱を開けてしまったかのような、引き返せない道を選んでしまったような感覚に陥っていた。
「俺? 俺がしている訳じゃねえよ。お前が勝手に気づいて、勝手に変化してんだ。俺がやったことは種をまいた程度。ま、どんな変化するのかは俺の知った事じゃないし、責任は取らないぞ」
悪びれない影法師の言い方にレイは閉口してしまう。その間も、自分の体が透けていくのは止まらない。このまま行けば、自分の意識は浮上するのだろう。あの深層の広間に。
白い少年の元へと戻るのだ。
しかし、その事を思い出してもなお、レイの瞳に宿る光は陰らなかった。戦う意思を無くし、生きて帰ると決めた覚悟を捨てたレイはどこにも居なかった。
そんなレイに向けて影法師が拳を突きだした。レイも同じように拳を突きだす。決してぶつからないが二人の拳が触れ合った。
「勝てよ、レイ。どうせ、お前に出来るのは死を積み重ねる事だ。だから、勝機はそこにしかないぞ」
「分かってるよ。相も変わらず綱渡りの泥仕合を挑んでみせる」
そして、レイの姿は風に掻き消されたように、どこにも見当たらなくなった。ひび割れた大地に影法師が一人、残された。
その影法師の背後に、天から一本の刀が落ちた。轟音と共に吹きあがる粉塵が晴れると、ひび割れた大地にクレーターが生まれていた。中央にはクレーターを生み出したコウエンが突き刺さっている。その柄に向けて、一人の少女が降り立つ。燃えるような赤い髪をなびかせた、コウエンだ。
「呵々。随分とまあ、お優しい事で」
からかう様な物言いに、背を向けたまま影法師は答えた。
「はぁ? 俺のどこが優しんですかー。眼球腐ってんじゃねえの、お前」
「不遜な口の利き方も今は小僧の強がりにしか見えんぞ。たしか、御厨玲の記憶に其方のような奴を表す善き表現があったな。たしか……そう……ツンドラ?」
それでは不毛な大地になってしまうのだが、訂正できる者が居ないため、間違った知識が根付いてしまう。
影法師は不満そうに、
「俺はマジで何もしてねえっつうの。アイツの《トライ&エラー》が今回のと赤龍の時を合わせて大量に使われたんで、普通に進化する所を捻じ曲げたんだぞ。むしろ、邪魔しまくりさ」
技能にも経験値のような物が存在する。それは表立って確認できず、冒険王が便宜的に熟練度と呼んでいる。一定回数使用したことでレベルアップをすることが出来る。もちろん特殊技能である《トライ&エラー》も条件を満たせばレベルアップは起きる。
「ぬかせ。より戦闘用になるように誘導しておったくせに……それも随分とまあ、ピーキーな仕上がりになりおって。これではある意味、今のよりも酷いと言えようぞ」
コウエンはいつの間にか、一冊の本を手に持っていた。古めかしい装丁のそれはレイのステータスが記されている本だった。
この世界がレイの内面世界である以上、この本を読むことはレイの中にいる彼らには自由自在だった。特殊技能の欄を開いたコウエンは大哄笑を上げた。
「呵々呵々呵々!! こりゃ酷い! 効果と代償が釣り合っておらんじゃないか」
コウエンは刀の柄の上で器用に腹を捩じると、本を下に落としてしまう。それは地面に追突する寸前、パッと姿を消した。
次の瞬間には影法師の手の中に納まっていた。
パラパラとページを捲った影法師はコウエンが折り目を付けた場所を開き、面白げにつぶやいた。
「はっ。随分とおかしな具合に進化したな。まあ、あれだ。『私は新たな力を得るために、新たな地獄の門を開いた』。先達の言葉だ。重く受け止めろよ、レイ」
視界が切り替わる。
薄暗い青の鉱石が輝くシアトラの迷宮に戻ってきた。手には出した奴隷契約書が握られていた。書面にはまだ、リザ達の名前が刻まれたままだった。契約破棄は成立していない。
レイは数秒、その羊皮紙を眺めると呟いた。
「《奴隷契約書・クローズ》」
すると、羊皮紙は溶けるようにレイの甲に飲み込まれ姿を無くした。
それと入れ替わるようにレイの頭の中でファンファーレが鳴り響く。喧しい音楽で痛む頭を手で押さえながら、目をつぶったレイはある一文を見つけた。
強制的に開かれたステータス画面。ポップアップされた一文は、
『特殊技能に新機能が追加されました』
と、無機質に告げていた。
レイは先程までの影法師との会話が疲弊しきった体と心が見せた夢では無かったと理解し、ページを開き、新しく追加された機能に絶句した。
一つの力を得るために、一つの力を失った。
それは確かに比類なき力だが、使い方を誤れば死しか残らない。
―――だから、どうした。いつだって、自分が持っているのは命と死だけだ。
レイは己が体に鞭を打ち、立ち上がる気力を振り絞った。これが最後の挑戦だと理解しつつ、それでも惨劇の舞台へ上る。
今度こそ幕を下ろす為に、立ち上がった。
読んで下さって、ありがとうございます。




