5-37 破棄
結局のところ。レイと少年の間の距離は途方も無く遠く、地平線の彼方よりも遠い。
この距離とは物質的な距離では無く、単なる戦闘力での距離だ。いや、ある意味物質的な側面もあるかもしれない。レイにとって、少年までの僅か十メートルを踏破する事は不可能に近かった。
それはそのまま、レイと少年の実力差を表している。
白い少年は一回も、一歩たりとも動こうとしていない。後退はおろか、身を反らす事もせず、淡々と指揮棒代わりの指を振るう。悪魔的な指揮によって、レイは物言わぬ躯と化して血に落ちた。
最初の数回は手も足も出なかった。《生死ノ境》を発動させてもなお、黒い矢を防ぎきる事は出来ない。なにしろ、レイの行動を見てから、矢の軌道を途中で変える事ができるのだ。レイは自らの行動に対する相手の反応すら先読みして防ぐ必要があった。
それでも数をこなすうちにある程度慣れていく。
矢の速度に目が慣れたというのもあるが、なにより少年の癖というか、攻撃に対する偏りが見えてきたのだ。矢を壊す為に真上からの振り下ろしをした場合、矢はどちらの方向にどのタイミングで曲がるのか。あるいは振り上げた時にはどうなるのか。左から薙いだ場合は。右から薙いだ場合は。
手動の攻撃というのは、ランダム性が強くなるのと同時に、攻撃する人間の意思が必ず介在する。レイが知るべきなのは、黒の矢のタイミングや速度では無く、白い少年の癖だった。
それに気づいてからの数十回は、ひたすらに少年の思考を読むのに費やした。お蔭で指の振りがそのまま攻撃の向きや速さ、角度や射出するポイントに関係しているのだと理解できた。
百を超える頃には、何とか一メートルの壁を超えられるようになった。
そこで次の関門が待ち構える。
繰り出される矢の速度は変わらず、しかし、レイの動体視力はどうにか追いつける程度に慣れた。黒い残光のような矢をコウエンで撃ち落していくが、じり貧といえた。
《生死ノ境》は初手で使わされてしまう。受動的技能のため、使用条件が揃ってしまえば勝手に発動してしまう技能。こればかりはレイの意思で任意に発動は出来ない。
初手で防御の最大の切り札を失う以上、残りの距離を詰めるにはレイは小細工を弄するしかなかった。
レイの手持ちの道具はそれほど多くは無い。龍刀コウエンにファルシオン。バジリスクの魔短刀に青い鉱石が少しばかり。あとはポーションが数種類。技能は《心ノ誘導》のみだ。戦技を使うほど回復はしておらず、そもそもレイの持つ戦技はどれも近距離系。この距離では発動するだけ無駄といえた。
両腕が矢を撃ち落すたびに痺れ、指先から感覚が無くなっていく。気が遠くなるような単純作業を繰り返す事でやっと次の一メートルを突破した。
それまでに死した自身の屍が積みあげて、背中を押したような物だ。
「へえ。やるな。でも、これならどうだい?」
二メートルを突破したレイを歓迎するように、矢の攻撃は苛烈さを増す。速度が上がっていくのだ。再び点にしか見えない矢がレイの体を円柱に削り取っていく。
避けるという選択肢はない。
第一に避けられるほどレイの反射神経は良くはなく、少年もレイを逃がすまいと矢の向きを九十度以上変えてくるのだ。一度は、背中から穿たれて死んだ。第二に下手に避けるとナリンザを狙われてしまうのだ。動けないナリンザは一撃一撃が小型の爆弾に近い矢をまともにくらってしまい、肉塊を撒き散らしてしまう。
だから、レイは全ての攻撃を防ぐ必要があった。
しかし、それは不可能だ。一つギアを上げただけの攻撃にレイは対処できないのだ。
土台、無理な話なのだ。ナリンザはレイの倍以上のレベルを持ちながら、白い少年に蹂躙され敗北した。右手を無くし、足を折られ、地面に蹲っている姿がその証拠。いくら疲弊していて、全力じゃなかったとしても、その状態でもレイよりも強いナリンザですら正面切っての戦闘で負けたのだ。
レイが正攻法で少年に勝てる道理はない。
―――だったら、奇策を練ればいい。
レイは少年がギアを上げる直前に攻撃を放つ。
当然の話だが、レイに魔法は無いし、遠距離系の戦技も無い。ダガーの紫電ぐらいしか飛ばすものは無い。だけど、レイが飛ばしたのは紫電では無い。
左手にコウエンを握りしめたまま、ファルシオンを引き抜いて、投げた。まるで円盤投げの選手の様にスナップを効かせた投擲は、刃を回転させて少年を襲う。
「こざかしい真似を」
侮蔑の言葉をレイに浴びせると、少年は背後の壁から矢を射出させる。狙いはレイでは無く襲いかかるファルシオンだ。
上下左右から放たれた黒い矢はファルシオンの分厚い刃ですら、粉々にしてしまう。成程、あの威力なら、即死も当然だとレイは暢気に思ってしまう。
しかし、これで少年の意識は刹那の間だがレイから逸れた。これでまた一メートル距離を縮められた。
ファルシオンを正確に、それも確実に少年に当てられるようになるまで、これまでの試行回数の倍を費やす羽目になった。コントロールだけでなくタイミングも重要だ。早すぎても対処されてしまうし、遅すぎるとファルシオンを素通りして矢がレイを襲う。これを見出すのも苦労した。
その苦労のかいもあって残りの距離は七メートルだ。
白い少年は意識をレイに戻し、改めてギアの上げた矢を放とうとする。しかし、レイは既に行動を終えていた。ここに来て、初めて後手に回らされた少年は困惑と共に目を細める。
何故なら、少年に向かって投げられたのは朱色の鞘なのだ。
それはコウエンの鞘だ。
溶かした赤龍の鱗と伝説級の金属を混ぜて生み出された鞘が、どういう訳か宙を舞って少年を襲おうとしているのだ。
いやどういう訳もなく、単にレイが投げたに過ぎない。ファルシオンを砕かれている間に、レイはコウエンの鞘を先程のリプレイをするかのように投げた。ファルシオンより軽い鞘は高速で回転して、少年に迫った。まるで紅い円盤のようだ。
もっとも白い少年の動体視力は、鞘の回転もコマ送りの様にはっきりと見えており、迫って来るのが鞘だというのは直ぐに分かった。
一瞬、防ぐべきかそれとも無視するべきか迷うものの、少年はすぐさま決断した。
壁に波紋がいくつも生まれ、矢が鞘を目がけて放たれたのだ。
長髪の下で少年の残忍な笑みが浮かんでいた。レイのなけなしの抵抗を全て粉砕した上で、絶望させてやろうと思ったのだ。
しかし、その笑みが凍り付いた。
合計六本の矢が全て打ち砕かれてしまったのだ。ガラス細工の様に自分の眼前で砕けた矢が影へと戻っていき唖然としてしまう。黒い矢は、耐久力よりも速度に重きを置いている攻撃ではあるが、それでもそれなりの耐久力を有していたはず。それなのに、単なる鞘すら砕けずに、逆に砕け散ったのは予想外といえた。
だが、少年が呆然としていたのは一秒にも満たない短い時間だ。直ぐに思考を平静へと戻した少年は自分の右腕に影を纏わりつかせた。
強度は最強。
黒い手甲を振るい、コウエンの鞘を弾いた。ガキン、と金属製の音が広間に響き、鞘はあらぬ方向へと飛んでいく。この強度でも砕くに至らない鞘に困惑しつつも、攻撃を防ぐことに成功した。
代償に、相対するレイに対して二メートルの接近を許すことになった。
これで五メートル。当初の半分だ。
四百近い死を繰り返してやっと、ここまで来れた。すでにイタミを感じる余裕すらなく、自分が正常なのかどうか、レイ自身判断がつかない。
それでも白い少年を倒すという信念に支えられて、彼は走る。
対峙していた白い少年はここに来てようやく、レイに対する警戒心を上げた。
コウエンが途方もない逸品だというのは一目見た時から気が付いていた。かつての仇敵が持っていたニホントウと呼ばれる形状。その波紋は魂すら引きずり込みそうなほど美しく、それでいて刃の鋭さは形無き物すら斬れそうなほど鋭い。おそらく現代の名工の物だと白い少年は睨んでいた。使われている材料も不明ながら、伝説級の何か。
それなのに使い手が二流半の冒険者だった事が少年の警戒を緩めていた。戯れ程度に力を振るおうと考えていた。しかし、いまは違った。十メートルあった距離が半分まで削られた事で、少年への認識を改めたのだ。
黒い壁に無数の波紋が揺れる。これから射出される矢の数は百。白い少年が指一本で操れる最大本数だった。
―――これは敬意だ。
白い少年は自らの内で呟く。レイの努力に対する敬意として、今出せる全力を持ってレイを倒そうとする。指がゆるゆると持ち上がり、レイに向く寸前、白い少年は再び困惑してしまった。
なぜなら、三度。少年に向けて投擲された物があったのだ。
それはまたしても鞘だった。
ファルシオンの鞘だ。幅広の剣を収めていた鞘は、それに見合った幅を持つ。白い少年が全力を放とうと決めた時には鞘が投げられていた。
「くどいぞ。悪あがきにしても、他にやりようがあるだろう!」
白い少年にしては珍しく、語気を荒げていた。
彼にしてみると、レイの努力にある種の敬意を持ち、それに報いるべく全力を放とうとしていただけに、このような悪あがきで邪魔をされるのが不愉快だった。悪あがきにしても同じことを繰り返すというのが少年にとって気に入らなかった。
彼は左手でファルシオンの鞘を受け止めた。矢を使って防ぐまでも無く、手甲を纏う必要すらないと判断したのだ。自分に向けて走るレイに向けて、怒りを示すようにファルシオンの鞘を握りつぶした。
次にこうなるのは君だと言わんばかりに。
だから気が付かなかった。
半ばから折れた鞘の中から零れ落ちた……赤い鉱石の存在に。
轟音と共に、鉱石が爆発した。爆風と爆炎が白い少年の傍を中心に吹き溢れる中、レイは走るのを止めなかった。煙に包まれた少年に向けて距離を縮めていく。あの程度で死んだとは到底思えない。なにより、少年の背後に広がる壁にいささかの揺らぎも無い。
レイの本命の作戦は最初から青い鉱石による爆発だった。レイの持つ攻撃手段の中で、一番火力があるのはコウエンの吐き出す炎だが、代償にレイの両腕が炭化してしまう。かと言って鉱石だけで倒せる見込みも無い。だから、鉱石は目くらましとして使用する事にした。
あとは、鉱石をいかにして効果的に使うかが問題だった。普通に投げたとしても、矢の攻撃をくらって粉々に砕かれるのが目に見えていたし、下手に遠くから投げても、レイが少年の元に着くころには態勢を立て直されている可能性があった。
ギリギリまで近づいてこそ、目くらましは意味を成す。
そこで思いついたのが鞘に入れての投擲だった。ファルシオンを投げて距離を詰めるという作戦を思いついたのもこの時だった。
こうしてリトライ数四百二十一回目にして、遂に十メートルの距離を埋めきった。
四百二十の屍を積み上げて、天高くを飛んでいる怪物に刃が届く。
「うおおおお!!」
レイはあらん限りの力を籠めて、黒煙の中に居るであろう影に向けて振りかざし、
斬ッ、と。
背中から斬られてしまう。
「……な、なんでだよ」
レイは混乱の極地にあった。背後の傷は深く、とめどなく血が流れていくのを感じていた。
しかし、振り返った所で背後に闇は影も形も無かった。自分を攻撃した敵の姿は無く、どうして攻撃されたかすら理解できなかった。レイの手には血に染まるコウエンが握られていた。
すると、黒煙が吸い込まれるように消えていく。レイが少年の姿を捉えようとするも、それは叶わなかった。
なぜなら、少年の居た場所には、黒い繭のような物が置かれていたのだ。レイが繭に向けてコウエンを薙ぐも、刃先は繭に沈み手応えすらなかった。
「どういう……ことだ。僕は。この手に、何かを切った手ごたえを感じた。血だって付いているのに」
動揺と共に、レイの体に限界が訪れる。背中を斜めに裂いた傷口は深く、レイはその場に跪きそうになる。咄嗟にコウエンを杖として突きさした。
「答えは簡単さ。君は君を切ったのさ」
繭の中から声が響くと、繭の頂点から闇が溶けるように消えていく。溶けていく繭の中には白い少年が悠然と立っていた。至近距離で鉱石の爆発浴びたはずなのに、火傷どころか、焦げ跡すらない。
「……化け物かよ」
「よく言われてきたよ。……さて、君の努力に敬意を評して、何が起きたのか教えてあげよう」
まるで先生が生徒に答えを教えるかのように白い少年は闇を手元に呼び寄せた。漆黒よりも黒い闇は二つ存在した。
「僕の力は影を様々な用途に変化させる事さ。質量を持った闇に変化させたり、空間を捻じ曲げる事すら出来るのさ」
言うなり、少年は手を闇の中に突き刺した。その手は別の闇から突き出てレイに向けて振られる。
「空間を捻じ曲げる。……まさか、さっきの繭も」
「御明察。君の一撃を捻じ曲げて、君の背後に出現させた。その血は君の血ってことさ」
ようやく、ここまで来たというのに、レイの刃は自分を傷つける結果に終わってしまった。痛みとイタミで朦朧とする頭はそれでも今見た光景を刻もうとする。
次に繋げるために。
次こそは勝つ為に。
レイは諦めようとはしなかった。視線は地面を向かず、真っ直ぐに少年を見据えていた。
「まさか、繭を出す羽目になるとは思わなかったよ。だから、これは御褒美だ。ボクの本気さ。御霊への餞としよう」
長髪の下で穏やかな笑みを浮かべた少年は、先程の攻撃を再び展開する。いまの自分が出せる最大火力を持ってしてレイを撃つ。
最後にレイが見た光景は黒い矢の濁流が襲い掛かった所だった。
★
レイは愚直なまでに前進する。
死を積み重ねて前へと倒れていく。次なら成功すると信じてバトンを繋げていく。それしかできないから、それ以外を知らないから。
今度こそ倒せると信じて。この刃が届くと信じて。
―――その幻想は死に塗りつぶされる。
幾百のレイが死んだ。白い少年に向けて、一太刀も浴びせる事もできずに、成すすべなくその身を露と散らして死ぬ。
圧倒的な力量差。ゲオルギウスや赤龍、サファの時ですら感じたことのない恐怖をレイは死ぬたびに感じていた。
死への恐怖では無い。自分が無力だと思い知る恐怖。
死を繰り返し、思いつく限りの奇策を講じ、奇跡を信じて挑む。しかし、全ての奇策を打ち砕かれ、奇跡は起こらない。
赤龍を引きずり下ろし、サファとの遭遇も乗り切った事で知らずの内に慢心していたのかもしれない。《トライ&エラー》が有れば何だってできる、と。
そんなことは無い。
蓋を開ければ、現実はこうだった。
終わりのない螺旋を一段ずつ降りていく。ゴールなんて見えない。一段進むたびに、引き返す階段は消えていき、そもそも何のために降りているのかすら記憶から消えていく。
自分が死んでいるのか、それとも生きているのか。
ここが死に戻りの最中なのか、違うのか。
境界線は曖昧になり、自分の意識すら保てなくなる。
リトライ数■■■回。
数えるのもとうの昔に止め、レイは倒れていた。
起き上がろうとするも手足に力が入らない。前回の戦いすら記憶になく、今度はどんな策をしようとしていたのか曖昧になっていた。いや、打てる手は全て打ち尽くした。
コウエンの炎も、なけなしの精神力を使った戦技も、ナリンザの槍も、何もかも使った。
何もかも使ったうえで全てが失敗した。
迷宮の一番深い階層に頼れる仲間達はおらず、たった一人、暗闇に燻っていた。
見えているのかどうかすら分からないほど瞳は淀み、肌は土気色をしており、とてもじゃないが、正気の姿とは言えなかった。
だからなのだろう。
この選択肢は間違っているかもしれない。
それでも、心が折れたレイに選べる選択肢はない。
「《奴隷契約書・オープン》」
ひび割れた言葉が紡がれると、右手の甲から一枚の羊皮紙が取り出された。ひらひらと舞う羊皮紙は滑るようにレイの手の中に納まった。
そこに刻まれているのは三人の少女の名前だ。エリザベート、レティシア、シアラ。対等契約を結んだ少女たちの名がそこに刻まれていた。
レイはぼんやりと羊皮紙を眺めた。エルドラド共通言語を力なく眺め、そして、これしかないと思い、彼は呟く。
―――彼女たちを道連れにしてはならない。諦めてしまった自分に道連れはいてはならない。
「……《奴隷契約書・デストラクション》」
かつて、奴隷商人の元で出会った老婆に教えてもらった、契約破棄を唱えた。
読んで下さって、ありがとうございます。




