5-3 見捨てる覚悟
血まみれの馬。
重量に屈したかのように曲線を描く獣特有の膨らんだ腹から、赤黒い血がちょっとした水たまりができるほど流れ出ている。裂けた傷口からは中が見える。
ぜいぜい、と。弱々しく乱れた呼吸に、黒い瞳は焦点が定まらないように小刻みに震えている。おそらく、長くは持たない。
頭上で喧しく鳴いているカラスたちは、死に瀕しているこの馬から立ち上る死臭に導かれて集まった。警戒心の強い彼らは、瀕死の獲物が放つ最後の余力を甘く見ず、冷静に距離を保っている。
そんな死にかけの馬に人が付けたと思しき血まみれの手綱と蹄が、何を意味するのか。レイは直ぐに理解した。
馬の状態を調べたエトネが断言するように告げた。
「この子。かいぬしがいるよ」
レイも同意見だった。
どういう経緯を経てここで死にかけているのかは不明だが、少なくとも、この馬は野生の馬では無い。ちゃんと人の手が入っている家畜である。
だとすると、気になるのは此処に居ない存在である。
「その飼い主がどこに居て、どうなったのか。それが重要なんだよな」
レイは周囲をもう一度見回した。森や岩など無い、多少起伏に富んだ平原。視界を遮るものが無いこの場所で人の隠れられる場所は無い。
つまり、この付近に馬の持ち主は居ない。
「これが、牧場から逃げ出したのが事故に遭ったり、モンスターや野獣に襲われて怪我したとかならいいんだけど。……持ち主共々、何かのトラブルに巻き込まれて、ここまで逃げて来たのかもしれないよな」
レイは口に出しつつも、むしろその可能性が高いと考えていた。理由は手綱や蹄が付いているからでは無い。馬の血だ。
全身の汗腺から流れているかのような大量の血は、馬の地肌を赤く染めていた。遠目からでは赤黒い何かにしか見えなかったほどだ。
腹部から流れた血だけではこうはならない。他の何かの血を浴びたと考えるのが妥当だ。現に、レイが馬の体に触れると、指先に乾いた血が付着している。いまだに流れている腹部の血とは別の血だ。
すると。馬が最後の気力を振り絞って体を動かす。
横たわる体に力が入らないのか、首だけを懸命に動かして、体に触れたレイへと頭を寄せる。
レイは死に逝く馬に対して、何をしてやればいいのか分からなかった。ただ、身を固くして縮こまる。
代わりに、エトネがレイと馬の間に割り込んだ。幼女は小さな手を馬の前に差し出した。馬は鼻を寄せると手の匂いを嗅いで、舌を伸ばすとエトネの掌を舐めた。
そして、最後に振り絞った力が尽きたようにばたりと倒れた。荒い呼吸も、瞳から光も無くなり、ただの物へとなってしまった。
ようやく、レイは馬が最後に何を望んでいたのか、分かった。
きっと安心したかったのだ。死に瀕し、冷たくなっていく体。暗闇の中で刻々と自分の中にある生命が尽きかけていくのに恐怖し、傍に誰かが居るのに気付いてそれが何なのか確かめたのだ。最後に残った力を使い、鼻と舌を使って、危険かどうかを知りたかったのだ。
エトネの匂いと体温を知って、馬は安心して死ねた。でなければ、こんな穏やかな死に顔は浮かべない。
エトネは開きっぱなしの瞼を閉じて、頭を撫でた。
「……がんばったね、エライよ」
その横顔は七歳とは思えない程慈愛に満ちていた。
レイは自分を恥じつつ、しかし、立ち止まっている場合では無いと考えを切り替えた。遠くで待たせているリザ達に向けて合図を送った。
少し遅れてキュイは馬車を引っ張り、レイ達の傍で止まる。
「ご主人様、一体何が起きて……これは、馬ですか?」
「うん。馬だ。それも、人に育てられた馬だ。……レティ、御者台に置いてある地図をこっちに」
武器を抜いて馬車を降りるなり、周囲を警戒するリザとシアラ。一方で、いつでも馬車を出せるように残ったレティに対してレイは地図を渡すように頼んだ。
御者台の周りにはこの辺りの地図が置かれていた。残念ながら、闇市では方位磁石のような物は手に入らなかったが、太陽の位置と経過した時間からある程度の方角と位置は分かる。
レイは地図上に現在地だと思われる場所を記すと、草原に点々と続く赤い染みの方角を割り出した。馬の流した血だ。血の道は南南東の方向に伸びている。
地図上の現在地から、南南東の方角に線を伸ばして、レイは線の周囲に牧場らしきものが無いかどうか探す。牧場が無くとも村や街が無いか探す。
馬の傷の具合や、血の乾き方から、少なくとも馬がトラブルにあったのは自分たちが居る場所から遠く無いはず。しかし、レイが記した線の付近には牧場は愚か村や町も無い。
(これは、確定だな。……最悪の予想が的中したな)
レイはため息を吐くと、地図をレティに返して馬の方を見ながら全員に告げた。
「この馬は近くで何らかの事故か、あるいは攻撃を受けた。その際、付近にはコイツの飼い主が居たはずだ。だけど、見ての通り、この辺りには誰も居ない。つまり―――」
「―――この血の先に飼い主が居て、危険な状況かもしれないって話ね」
シアラがレイの言葉を先んじて尋ねた。その通りのため、レイは黙って頷いた。
もっともシアラの言葉に付け足すとしたら、この先に飼い主が居たとしたらそれは複数人の可能性が高い。理由はこの馬に鞍が付いてないからだ。
騎乗中に攻撃を受けたのなら、高確率で鞍が付いたままになるはず。しかし、現実として鞍が無い以上、可能性は二つ。途中で鞍が外れたか、鞍が最初から付いていなかったか。
後者なら、この馬は荷車をひくための馬となる。そうなれば、御者以外にも誰か乗っている可能性は十分ある。
「……主様。如何するの?」
シアラが押し黙ったレイに囁くように尋ねた。リザはエトネの傍に付いており、レティも周囲を警戒しているため、二人に注意を払う者は居ない。
「……出来る事なら、見なかった事にしたいな」
「それで主様が後悔しない類の人間なら、そうすればいいわよ」
「冷たい言い方だな。……でも、まったくもってそうだよな」
明るい日差しとは裏腹に、状況は闇に包まれたかのように先が見えない。この馬の飼い主がどんな奴らなのか、仮に攻撃を受けたとしてその敵の規模も、そもそもまだ生きているのかどうかも何一つ分かっていない。
下手に藪を突っついて、とんでもない怪物が出てくることはこの世界、往々にしてよくある。
レイは余計なトラブルに首を突っ込んでいいかどうか逡巡していた。
『紅蓮の旅団』団長、オルドなら即座に見捨てているだろう。彼にとってクランと引き受けた依頼の方が重要だ。
だけど、レイにその選択肢は重すぎた。
それでも、彼が《ミクリヤ》のリーダーなのだ。彼が決めたことに全員が従う。
レイは覚悟を決め、全員に伝えようとして―――エトネを見てしまった。
母親を亡くして、独りぼっちになってしまった少女を。
『お前は、あの寂しい子を増やすんだな』
ぞわり、と。背筋を氷のナイフが撫でるかのような悍ましい感触を味わう。レイは自分の背後に『黒い影』が忍び寄っているのを感じ取っていた。
スタンピードの被害を目の当たりして、レイの弱い心が生み出した罪悪感。
アマツマラを離れてなお、影は残っていた。
『仲間を助けるために、他人を見捨てる。それは正しい判断だ。誰だってそうする。あの、オルドですらそうしたんだ。オルドよりも弱いお前がそれを選んでも、誰も責めやしない』
(黙れ)
『何処のどなたか存じませんが、僕は見捨てます。貴方の顔も知りません。貴方の家族なんて知りません。貴方の境遇なんて知りません。だから見捨てます。ほら、彼女らにそう言いなよ』
(黙れ)
『君たちを危険から遠ざけるために、僕は人を見捨てますってさ!!』
「黙れって、言ってんだろ!!」
レイは背後に向けて拳を振るった。
しかし、そこには何もなかった。当たり前である。『黒い影』はレイの心の中に潜む罪悪感だ。実体を持たない、幻聴にすぎない。リザ達はレイが大声を出したことに驚いて言葉を無くしていた。
レイは突きだした拳を自分の顔に当てる。その横顔は苦渋に満ちており、少女らはますます声を掛けられない。
そして。
長い時間が経ったかのように誰もが感じていた。実際はほんの数秒足らずかもしれないが、体感では恐ろしく長い時間に感じた。
レイは全員に向けて改めて告げた。
「僕はこの馬の飼い主を助けに行きたい。皆はどうする?」
悩んだ末の結論は危険を顧みずに助けに行くという選択だった。レイはつくづく自分にリーダーとしての冷徹さが無い事を自嘲する。
「被害を受けているのが何人なのか。敵はモンスターなのか、あるいは野獣なのか、それとも盗賊なのか。そもそも、今も生きているのかどうかすら、分からない。それでも僕は行こうと思う。……みんなはどうしたい?」
再度、問いかけると、リザ達は無言で視線を交わすと、口を開いた。
「分かりました。それでは行きましょうか」
「……へぇ?」
レイが素っ頓狂な声を出すのもお構いなしに、リザとシアラは出発の準備を始める。
「血の跡を追いかければ、目的地に着くかしら」
「それよりも、エトネの鼻と耳の方が優れています。エトネ、御者台に来てください」
「うん、わかった」
「運転はあたしがするよ。シアラおねーちゃんはいつでも魔法を使えるように、集中していて」
「そうさせてもらうわよ」
てきぱきと、主が動けないまま準備は進む。少女たちはあっという間に馬車の中へと戻っていく。いつまでも外に居るレイに向けてリザが声を掛けた。
「ご主人様? 急がないと、助けられる者も助けられませんよ」
「……あ、ああ。分かった」
未だ呆けたかのようにしているレイが馬車に乗ると、レティが手綱を握りしめた。キュイは掛け声一つ上げて、馬の作った血の道を逆走する。
少女たちは全員、御者台に集まり、前方を睨んでいた。何か一つでも多くの手がかりを見つけようと真剣だった。
そんな彼女らを見て、レイはポツリと尋ねた。
「なんで、みんな。そんなに乗り気なんだ?」
「……はい?」
「いや、だって。危険だよ。もしかしたら、超級モンスターが居るかもしれないし」
「その時は、さっさと見捨てて逃げればいいじゃない。……主様。アマツマラで言われた事、もう忘れちゃったの?」
シアラが呆れたかのように肩をすくめる。レイは記憶を遡り、彼女の言う事を思い出そうとした。だけど、先んじる形でレティが言った。
「『皆が手を伸ばせば、それだけ多くの物を守れる』。カザネ亭の旦那さんが言ってた事だよ」
「……ああ。言われたな」
レイはようやく思い出した。建物が半壊したカザネ亭の前で、守れなかった事を悔いるレイに対して、女将の夫はレイに向けて諭した。
―――自分の手を伸ばした範囲しか守れない。
レイにとって、手を伸ばした範囲にいるのは他ならない彼女たちだ。
「おにいちゃんが、エトネたちをしんぱいしたのはすぐにわかったよ」
エトネが舌っ足らずな口調で言う。
「でもね。エトネだっておにいちゃんやおねいちゃんたちを、まもりたいと手をのばすんだよ」
「ええ。その通りです。私達は全員が全員を守ろうと手を伸ばします。そうすれば、きっと、私たち以外の人を守る事もできるはずです。……それでも、助けられないかもしれません。その時は……見捨てましょう。見捨てる覚悟を持って、行くべきなんです」
リザは非情ともいえる事を口にした。だが、彼女は微塵も揺るがない。一見、冷たいかもしれない。けど。それは正しい判断だ。
何より。
(それこそ、僕が皆に示すべき判断基準だよ)
レイは自分の口から言うべきことを言えなかった未熟さを恥じた。そして、深呼吸をすると、告げた。
「……《ミクリヤ》のリーダーとして皆に命じる。この血の先で何が起きているのか偵察。仮にモンスターなどに襲われている人物が居て、なおかつ助けられそうなら速やかに救出。……不可能なら残念だけど見捨てる。以上だ」
「「「了解」よ」です」「……りょうかい」
少女たちは前を向いたまま、異口同音に返事をした。レイはそんな彼女らの背中を頼もしそうに見つめつつ、しかし、苦渋に満ちた表情で呟く。
「ああ、でも。……悔しいな。助けられない時を考えて行動しないといけないなんて」
呟きが聞こえたリザは前を向いたまま、振り返りもせず、呟いた。
「それを悔やむなら、強くなるしかないんです。それこそ、オルド殿やテオドール陛下。そして、サファ殿のように。……常識の理を超えて、絶対の力を手に入れるしかありません」
それはレイに向けて言ったというよりもむしろ自分に言い聞かせているかのようだった。隣に居たシアラだけが彼女の切実な本心を聞く。
そっと、金色黒色の瞳がリザの横顔を見つめた。少女の横顔には悲痛なまでの覚悟が宿っていた。だけど、どこか壊れそうな脆さも同時に存在した。それがいつか、取り返しのつかない事になりそうだと、そんな戯言めいた感想を抱いてしまう。
読んで下さって、ありがとうございます。




