導き
……頭が重い。
身体がだるい。
関節がきしきしと痛む。
なんだろう、これ。
……。
少し考えて、思い至る。
うん。
……。
風邪だこれ。
「……なんで……?」
目を覚ますと私はベッドの上にいた。
ゆっくり身体を起こすと同時、頭の上から袋入りの氷水がぼとっと落ちる。
身体は熱いような寒いような変な感じ。
空はすでに明るかった。
一体どれくらい寝ていたんだろう、と窓の外を眺めながら思う。
「……ぁ」
その次に目についたのは、ベッド脇の椅子に腰掛けているアシュレイさんの姿。
お酒の臭いは全くせず、座って腕を組んだままこくりこくりと船を漕いでいる。
――――看病、してくれてたのかな。
あの後、私に何があったのかを想像してみる。
すっかり泣き疲れた私はアシュレイさんに抱かれたまま眠りにつき、部屋まで背負われて帰ってきた。
次に疲れのせいか、はたまた人混みに揉まれたせいか熱を出し、一晩ほどこんこんと眠り続ける。
その間、アシュレイさんは寝ずに私を看病してくれていた――と、こんなところだろうか。
当たっているかはわからないけれど、それほど外していない気もする。
「……うぅん……」
考えるだに子どもか私はと言いたくなるような振る舞いだった。
けれど、気になることは他にいくつもある。
「……夢、じゃない、ですよね」
夢だとすれば間違いなく悪夢とされる光景。
アシュレイさんは、私を狙っていた人たちを――間違いなく、殺した。
それも、あっという間に。一方的に。虐殺、と言っても決して言い過ぎではないほどに。
今さら見なかったことにはできない。
私は深く考えなかったけれど、アシュレイさんは私の奴隷印を消したのだ。あれくらいやってのける力を持っていて全くおかしくはなかった。
アシュレイさんはこう言っていた――『俺が嫌になったか』、と。
私は相変わらず船を漕いでいるアシュレイさんをじっと見つめている。
……いや、ではない。
アシュレイさんがどんなに強い力を持っていたとして、その目も、優しく背中を撫でてくれた手も、決して嘘ではないと思う。
その時だった。
「アシュレイさん、お邪魔いたします。様子をうかがわせていただきますね――あら」
軽いノックの音のあと、大家さんが部屋に入ってくる。
大家さんは私の姿を見てにこやかに微笑んだ。
「もう起きていたのね。調子はどう?」
「……少し、身体がだるいです……でも、そんなにしんどくはないです」
「それなら良かった。アシュレイさんは……あら、寝ちゃってる」
大家さんはちいさく笑って暖炉の方に目を向ける。
「これは、麦粥……かしら。クラリッサさん、何か知ってる?」
「……い、いえ。昨日はずっと寝てた……と、思いますので……」
「あら、そう? ということは……アシュレイさんが料理を……?」
大家さんは大真面目な顔をして「……これは大雪が降りそうね」などと言う。
なかなかひどい言い草だった。
「で、クラリッサさんに生姜湯作ってきたんですけど、どう?」
「……い、いただきます。ちょっと、ご飯は喉を通るか……」
「そうね、お粥はもうちょっと元気になってから食べるといいわ」
大家さんはにこやかに言って、暖炉の火で鍋を温め始める。
私はふと思ったことを口にする。
「……大家さんは……どうして、そんなに気にかけてくれるんです……?」
「住民が元気でいてくれるに越したことは無いでしょう? ……っていうのは、建前ですけれど」
大家さんは鍋を火のそばに固定し、ベッドの端っこにそっと腰掛けた。
「昨日、何かあったのね?」
「…………わかる、ものなんでしょうか」
「あれだけ元気に出ていったのに、ずいぶん暗い顔で帰ってきたんだもの」
「……アシュレイさんは演技が下手です」
「そうね。……あなたを住まわせるって聞いた時も、向いてないことを始めた、と思ったわ」
大家さんは船を漕ぐアシュレイさんをちらっと見る。
それは、しっかり者の姉がだらしない弟を見守るような眼差しだと思った。
「クラリッサさんも、アシュレイさんのことは聞いてないのね?」
「……大家さんも、なんですか……?」
「ええ、何も。どこかで冒険家でもしてたんじゃないか、ってうちの人とは良く言ってるけれど」
「……そう、なんですか……」
何か話を聞けるだろうか、と思っていたので見事に当てが外れてしまった。
「悩みがあるなら聞くわ。聞かれていないうちに、どう?」
「……話していいことなのか、わからないんですが……」
話したと知ったらアシュレイさんは嫌がるだろうか。
きっと嫌がるような気がする。
でも、昨日の出来事を私の中だけで処理するのはちょっと無理だ。
「……ちょっと、荒っぽい話なんですが……」
「いいわよ。アシュレイさんと知り合ったのもそういう経緯だから」
「っ……じゃあ……お願い、します」
「ええ。聞かせてちょうだい」
私は――相変わらず眠りこけているアシュレイさんをちらっと見て、昨日のことを話し始める。
*
――全てを話し終えた後、大家さんはゆっくりと頷いた。
「……私も一度、危ない目に遭いかけたことがあってね。その時に助けてくれたのがアシュレイさんだった」
「……そ、そうだったんですか……」
「今の話ほど荒っぽくは無かったけれど……アシュレイさんは、多分この辺りの生まれではないわ。どこか、私が知らないところ……さっき言ったような冒険家か、それとも軍人か……想像も付かないような、暴力が支配する世界で生きてきたんだと思う」
大家さんの推察には納得がいった。
そして、おそらくは――そういう世界から離れるためにこの町にいるんだ、とも。
それは以前、アシュレイさんが自ら語った内容とも整合する。
「アシュレイさんはそこから逃れようとしている。けれど自分を偽り切るなんてそう簡単にできることじゃないわ。だから――彼を受け入れるかどうかはあなた次第ね、クラリッサさん」
「……私、次第……」
「どうしてもアシュレイさんから離れて暮らしたいなら、きっと彼は叶えてくれる。……あなたから聞いた限り、それくらいの力はあると思う」
「……それは……」
可能かどうかだけで言えば確かに可能かもしれない。
でも、それは決して望ましいとはいえない選択だった。
「アシュレイさんのことが、怖い?」
「……わからない、です」
少しは怖い、かもしれない。でも、怖いだけでは絶対にない。
どんな人でも、全く怖くない人なんてまず存在しないのだから。
「……『離れなさい』なんて無責任に言えないし、ましてや『受け入れてあげて』とも言えない。……あなたが『そうしたい』と思う選択をなさいな、クラリッサさん。他の些細なことは、みんな雑音とでも思えばいい」
「……私の、望み……」
「そう。アシュレイさんと一緒にいたいか、どうかってこと」
大家さんはそう言って微笑む。ふつふつと煮えた鍋を暖炉から引き上げ、カップに移したものを手渡してくれる。
生姜の香りとかすかなはちみつの匂い。ゆっくりと口元に傾ければ、ほのかな甘さと少し粗めの食感が食欲を刺激する。
飲むほどに身体が温まり、心が安らぐような、そんな味だった。
「……おいしい、です。すごく」
「そう、良かった。……あんまり話しこんでたら起こしそうですし、そろそろ失礼するわね」
「は、はい。……あの、いろいろありがとうございました……」
「年の功ってやつね。……まずは元気になってから、ゆっくり考えるといいわ。アシュレイさんも待つのは得意だろうから」
褒めてるのか貶してるのかわかったものではない。
当のアシュレイさんはうつらうつらと船を漕ぎ、うう、とよく分からない呻きを漏らしている。
それじゃあ、と手を振って大家さんは部屋を出ていく。
身体はまだ少し気だるいが、気分はすっかり落ち着いていた。
なんて簡単なやつなんだろう、私。
私は生姜湯を飲み干すまでアシュレイさんの寝顔をぼんやりと眺める。
――――アシュレイさん、お酒飲まなくても寝られたのかな。
私はカップをテーブルに置き、ベッドに積まれた毛布の一枚をアシュレイさんの膝にかける。
そして、さっさと風邪を治すためにもベッドに身を委ねた。
*
街の外縁部に門を構える一軒の豪邸。
その最奥にドルトは招き入れられていた。
「……おまえがなぜここに呼ばれたかわかるか?」
「も、もちろんですとも、ドン・カルロ」
齢三十代半ば、身の丈七尺を越す偉丈夫――カルロ・アルファーノは玉座めいた肘掛け椅子に腰掛けながら葉巻を突き出す。
かたわらにはべる女のひとりが葉巻にさっと火を点けた。
「あれから一週間。もう一週間だというのに、報告のひとつも寄越さないとはどういうことだ?」
「……申し開きのしようもありません、首領。現在、総力を上げて捜索に尽力しているのですが実を結ばず……」
ドルトはほとんど声を震わせながらも、気力だけで直立姿勢を保つ。
カルロは盛大に葉巻を吹かしながら重々しい声で言う。
「言い訳は良い。俺の要求は、今すぐにでもあの娘をここに連れてくること――それだけだ」
「で……ですが、首領。私に一ヶ月の猶予を頂けると……」
「ああ、確かに言ったとも。最終的な猶予期間は一月後だ、とな。……だが、俺が一ヶ月も座して待つと思うてか?」
「お、お待ちください! 実はですが、首領にもご報告するに足る有力な情報がございまして」
「……ほう? 言ってみろ」
拱手して頭を下げるドルト。カルロは頬杖を突きながら彼に続きを促す。
「先日、市場を散策させていた七人の若い衆なのですがね……そのひとりが〝黒髪の怪しい娘が銀髪の若い男と一緒にいた〟と報告しまして。髪型は違ったようですが、この娘がおそらくはクラリッサではないか、と……」
「確証は無いのだな?」
「……は、はい。しかし、身の丈はおおよそ同じとのことで……連中が追おうとした途端に逃げ出したそうですから、これはかなり怪しいと」
「逃げた? ……で、その後はどうなったのだ」
「今申し上げた通り、ひとりが報告に戻りまして……他の六人が追跡に当たったのですが……」
ドルトがそこまで言った時、声の震えが抑えられなくなる。
ならばどうして逃がしたのか――と、威圧するようなカルロの目線がドルトを射すくめていたのだ。
「六人が……その……行方不明、でして……」
「……なんだと?」
「ひっ……」
カルロの怒声。ドルトは喉が締め付けられたような悲鳴を上げる。
「死体は」
「……ひ、ひとつも見つかっていません。ただ……」
「ただ、なんだ」
「……市場周辺での追跡調査によれば……複数の男の悲鳴を聞いた、という証言がいくつか」
――――ガツンッ!!
カルロの拳が肘掛けを叩き、その先端をへし折る。
ドルトは身体のそこら中から冷や汗を滲ませた。
悪趣味なほど豪勢な一室に、張り詰めた糸のような沈黙がもたらされる。
「構成員が六人、まとめて行方不明だと? その妄言が確かでなければおまえの首をへし折るぞ」
「誓って間違いありません、首領!! 確かに六人は行方が知れず、おそらくですが、相当な腕利きがあの娘を拾ったに違いないと……!」
「……フン」
カルロはちいさく鼻を鳴らし、パチンッと指先を鳴らす。
瞬間、刃がヒュンッと風を切る音がした。
「いっ? ――ぎゃあああああっ!!!!」
ドルトは右手を押さえながらうずくまる。
彼の右手小指は床に落ち、鋭利な切断面から鮮血を滴らせていた。
「良い腕前だ、クロウ」
「……賞賛に及ばず」
果たしてどこに隠れていたのか――
ドルトの背後にぬっと現れたのは黒衣に身を包んだ男だった。
「う……ぐ、あ……ッ……ぐうぅッ……!!」
「良いか、ドルト。この一週間の落とし前はそれだけで済ませてやる」
ドルトは痛みに喘ぎながら天井を仰ぎ見る。
すると、天井の一角にぽっかりと穴が開いているのが見えた。
おそらくは天井裏に潜み、室内の様子をうかがっていたのだろう。
「その男はクロウと言ってな。俺専属のボディーガードだ。……腕っ節だけならこの俺にも匹敵するだろう」
「う、ぐ……さ、左様でしたか……ッ」
ドルトは表情を苦痛に歪め、ゆっくりと立ち上がってカルロと向かい合う。
カルロは葉巻でクロウを指差しながら言う。
「この男を好きに使え」
「……よ、よろしいのですか……ッ?」
「ああ、構わん。その代わりに、何としてでもあの娘を奪い返せ。そして……銀髪の若い男、と言ったな?」
カルロは激憤を押さえるように葉巻を噛みちぎり、火が点いたままの先端をかたわらに侍る女の手に押し付けた。
女は悲鳴も上げずに歯を食いしばって耐える――激情に駆られたカルロを刺激しないために。
「……は、はい……確かに、部下の報告では銀髪だったと……ッ」
「その男もこの部屋まで連れてこい。――生きたまま、殺さずにだ!!」
カルロは口角泡を飛ばして言う。
ドルトは必死で苦痛に耐えながらクロウを見据えた。
上から下まで黒衣に包まれた長身痩躯の男。年の頃は二十代半ばほどか。
髪は赤く、腰に反りのない細剣を帯び、無感情な眼差しがドルトを見据えている。
実力は先ほど見せつけた通り。
ドルトが存在に気づくより早く剣を振るい、指先一本のみを正確に斬り落とした技量はまさに超人的といえよう。
「……ほ、ほんとうに……良いのですかな? この男を……」
「二言はない。クロウ、おまえはドルトに従い目的を果たすのだ」
「是非に及ばず」
クロウは顔色ひとつ変えずドルトに歩み寄り、右手を差し出す。
何たることか――この男、自ら指を斬り落とした相手に平然と握手を求めていた。
「……よろしく、頼みますよ、クロウさんッ……相手はおそらく、私の手に余りますゆえッ……」
「語るに及ばず」
ドルトは血まみれの左手を差し出して握手を交わす。
クロウは自らの手が血に汚れてなお表情ひとつ変えなかった。
「良いか、ドルト。これはもはやおまえ個人の問題ではない――アルファーノ・ファミリー全体の面子にも関わることだ!! この街の人間全てに思い知らせろッ!! 〝アルファーノ〟に逆らうものは死あるのみとなッ!!」
カルロの怒号に震えながらドルトは深々と頭を下げる。
その胸には自らの元から逃げ出した奴隷への憎悪――そして、名も知らぬ男への怨讐がふつふつと煮えたぎっていた。




