散華
店を出て市場の中心近いところに歩いていく。
アシュレイさんは私をちらりと見て言った。
「……何か食べたいもんあるか。面倒なら適当に決めるが」
「それならあります……!」
「……思ったより元気だな」
服といえば奴隷と町の人にそこまで大きな違いはない。買い換える頻度の高低くらいのものだろう。
けれど、食べものは明確に違う。私の場合は買い置きの食材から奴隷全員分の炊き出しを用意しないといけなかったので、料理の種類も結構限られてくる。
つまり、市場の露店とかに並んでいる食べものを買う機会はほとんど無いに等しい。
私はアシュレイさんと繋いでいない方の手で市場の一角を指差す。
「……アシュレイさん、あれがいいです、あれ……!」
「……あんなんでいいのか」
「あれ〝が〟いいんです……!」
拳を握りしめて粘り強く主張。
アシュレイさんは半ば呆れながらも、露店に並べられていたそれ――牛もも肉の串焼きを四本購入した。
「あぁ、これが……! 何度も目にしながらついぞ手の届かなかった……!」
「……今ほどおまえを不憫に思ったことは無いかもしれん」
「しょうがないじゃないですか本当なんですから……! も、もう食べていいですか? いいですよね?」
「別に取らんから落ち着いて食え」
アシュレイさんは木のお皿を差し出す。私はそこに載せられた鉄串を一本取ってかじりついた。
油と醤油ベースっぽいタレが滴る肉の味。野菜っ気なんか微塵も感じられないのが実に清々しく美味しい。
「いい……すごくおいしいです……このたれ何が入ってるんでしょう……なんとかしたら再現できそうな気も……」
「……今のおまえを見てると、なんだ……変に心配する必要も無かったような気がしてくるな」
「な、なんでです……?」
「主体性が無いというよりは単に着るものに大して興味が無かっただけか」
「……否定はしきれません」
「料理はさせられてたんだったな。……なら、その影響もあるか」
アシュレイさんは得心げに頷く。
思えば煮炊きもやらされていたことではあるわけで、好きこのんでやっていたわけではない。
とはいえ、そこまで嫌いになったというわけでもないのは少し不思議だった。
「……そう、ですね。他に何かできるわけでもなし……農作業のお手伝いを始める前に売られたみたいですし」
「……嫌なことなら話さなくていいぞ」
「い、いえ。……もう、家族のことは覚えてないですし……食べるにも困ってたと思いますから。仕方なかったんだと思います」
「……十年以上も前の話、か」
「はい。……まだ、魔王が生きて……戦争も続いてたころ、ですね」
魔王。
王国の隣国にはびこる複数の氏族をまとめ上げ、国境近辺で猛威を奮った魔族の王、とは噂に聞いたことがある。
私が奴隷になる以前から悪名高く、そして私が奴隷であるうちに彼の者は討たれたという吉報が王国内を席巻した。
――私の生活には何の影響も無かったけれど。
「少しは、楽になってればいいんですけど。……どうなんでしょう……?」
「……各地の農村を圧迫したのは、出兵のための臨時徴収が原因だ。戦が無ければ少しはマシになる」
「……そう、ですか。……よかった」
もぐもぐ、と串焼きをかじりながら胸を撫で下ろす。
そもそも奴隷として子どもを売るようなことが無くなれば、奴隷を使う人もいつかはいなくなるだろうと思えたから。
「……アシュレイさん」
「どうした」
「……私は……私だけ、奴隷じゃなくなって、良かったんでしょうか……?」
いつかは、いなくなるかもしれない。
けれどそれは今じゃない。
私はたまたまアシュレイさんに助けられて――でも、そうでない人もいる。
「……あまり考えるな」
「……でも」
「よほどの大人物でも無ければ他人のことまで背負い切れん。……どうしてもと言うならおまえ自身が自分を背負えるようになってからにしろ、クレア」
「……は、はい」
アシュレイさんはそう言いつつ一本目の串焼きをごくゆっくりとかじる。
そういえば焼いた肉苦手って言ってた、ということを思い出してしまうような食べ方だった。
「……俺が言うことじゃねえな。まぁ、悪例にでもしてくれ」
「――――ぁ」
私は二本目の串焼きをかじりながらはたと気づく。
アシュレイさんの生活は控えめに言っても終わっていたけれど、私を助けてくれたことに変わりはない。
……アシュレイさんがしばしば自立を促そうとするのは、つまり、その辺りを自覚していたからだろうか。
「……なら、半人前と半人前で支え合えば、一人前になりませんか……?」
「……もうおまえにはずいぶん助けられてるよ、クレア」
「い、いえ……そんな。私にとってはアシュレイさんのほうが……それこそ、魔王を倒した勇者よりも、ずっと大切な恩人です」
私はアシュレイさんをじっと見上げ、思ったままの言葉を口にする。
アシュレイさんはひどく複雑な表情で苦笑いを浮かべ、私の帽子をぽんと叩いた。
「……世間は勇者だの持て囃してたみたいだけどな。要するには腕利きの殺し屋だ。そんなに褒められるもんじゃない」
「……そ、そうでしょうか。誰にもできないことをやったわけですし……」
「力あるものが強きものを討つか、力無きものが強きものに抗うか。結果で言えば前者の方が良いんだろうが……俺は、後者のほうがよほど尊いと思う」
「……アシュレイさんの話はむずかしいです」
「すまん」
つまりアシュレイさんが私を助けたのも、それを可能とする力がたまたまあったからに過ぎない、ということだろうか。
あまりに身も蓋もない言葉ではあるけれど……いずれにしても、アシュレイさんが私にとって一番の恩人であることに変わりはない。
私は再びアシュレイさんの顔をふと見上げ――
「クレア、少し早く歩けるか」
「……え?」
「……つけてきているやつがいる」
囁きかけるようなアシュレイさんの声。
私の胸の鼓動がどくんと高く跳ねる。
私は何気ない風を装うように肉を噛み切り、串をお皿にそっと置いた。
「……間違いないんですか?」
「……おまえの正体に気づいてるって感じじゃない……が、確認のためだろうな」
「……ど、どうすれば」
「何とか撒く。手をしっかり握ってろ」
「……は、はいっ」
こくん、と頷いた途端にアシュレイさんの歩幅が大きくなる。今まで私に合わせていたということが嫌というほどよく分かる。
私はほとんど小走りになりながらアシュレイさんの後についていく。
「……や、やっぱり、その……組織の人たち、でしょうか……?」
「さてな、聞かないとわからんが……聞けるような状況にはしたくないな」
アシュレイさんはわざと人混みが激しい場所へ向かう。人と人の間に割って入るように身体をねじ込み、追い越し、私が滑り込む隙間を作りながら先を急ぐ。
私は何度も誰かとぶつかるが、そのうち気にする暇も無くなった。
「逃げたぞ!」「追え!!」ドスの効いた怒号が後ろからこちらの方にまで届く。
「……結構速いな」
「や、やっぱり追われてるんですね……!?」
「残念ながらな」
「……に、逃げたらかえって怪しまれるんじゃ」
「顔を見られても困るだろ!」
「ううう……」
そう言われるとどうにもならない。
やがてアシュレイさんは人混みを抜け、入り組んだ細い路地の方へ滑り込んだ。
私はアシュレイさんの掌をぎゅっと握る。アシュレイさんも私の手をぎゅっと握り返し、早歩きでいくつもの角を曲がる。
人混みから離れると、私の耳にも何人かの足音がはっきりと聞こえた。
アシュレイさんは薄暗い路地の角を曲がったところで足を止め、私の目を覗きこむように言う。
かすかに剣呑な色を帯びた、けれどいつもと変わらない鋭さの青い瞳。
「……あそこの角に隠れてろ。絶対に声を出すな、こっちを見るな、耳をふさいどけ。良いか?」
「……で、でも」
「俺のことは心配しなくていい。……行け、早く」
「っ……!」
アシュレイさんが繋いだ指先を離す。暖かい体温が遠退き、その手が私の背中をそっと押す。
そう遠くないところから聞こえる足音に急かされ、私は全力で走った。
道の突き当りは丁字路――が、左右はともに建物の壁で行き止まりになっていた。
「……っ、ぅぁ」
こっちから回り込まれる心配はないけれど、追い詰められれば一巻の終わり。
アシュレイさんはこのことを知っていたんだろうか。一応は隠れられるけど、ちょっと覗き込まれたら隠れていることがバレてしまう。
私は気が気でないまま物陰でじっと息を殺す。
――その時だった。
*
「おいあんた、連れはどうした?」
「……なんのことだ」
「とぼけてんじゃねえ!」
「手間かけさせやがって」
「女はどこにやった?」
脅迫的な態度を隠しもしない男の声。
アシュレイさんは落ち着いた態度で応じる。
声の数は三人、四人……あるいはもっとだろうか。
胸の奥がどくどくと早鐘を打つ。息が早くなる。立ちくらみのような感覚がして、ふらっと地べたにへたりこむ。
「あんたに用はない。女を出しな」
「痛い目見ねえうちに従っといた方がいいぞオイ。ドン・カルロに睨まれたらこの町じゃ生きてけねえぞ」
「……だから、なんの話だ」
「粋がってもしょうがねえだろ兄さん。後ろめたいことあんだろ? 無いならなんで逃げたんだ?」
「……追いかけられたらそりゃ逃げるだろ。後ろめたいことが無くてもな」
「――ちょっと痛い目見とくか?」
ざ、と石畳を踏む足音がいくつも響く。
男たちの声が一際剣呑さを帯びていく。
「どうする?」
「殺すな……いや、殺しても構いやしねえ。あのガキも近くにいるはずだからな」
「あの角にいるんじゃねぇか。お前ちょっと見てこいよ」
――――限界だった。
このままじっとしているなんてとても耐えられない。
胃がきりきりと痛む。全身から汗が異常に吹き出す。
私はへたり込んだまま、物陰から視界の半分だけを路地に向ける。
見えたのは、六人の黒服の男たちがアシュレイさんを取り囲んでいる光景。
男のひとりはにやにやと笑みを浮かべ、アシュレイさんの隣を横切り、私が隠れている方へと歩いてくる。
その時、アシュレイさんがヒュンッと片手を軽く振った。
「うぎゃああああああああッッ!?!?」
――――突然の絶叫。
薄笑いを浮かべていた男が表情を苦痛に歪め、もんどり打って倒れ込む。
真っ赤な血がこめかみから噴水のように吹き出す。
「……な」
「お、おい、お前!! どうした!! 何をされた!?」
私は倒れ込んだ男の人をじっと見据える――きらり、と何か光るものが見える。
鉄串だ。
さっきの串焼きの鉄串が、男の人のこめかみを貫いていた。
「……あぁ、くそ、面倒だ」
アシュレイさんは周囲をぐるりと見渡す。
その目はただ鋭いだけではない。
この一週間くらいの中で、私が一度も見たことのないような冷たい眼差し。
「なんだ、おい、何したってんだよ!!」
「お前、何者だ!?」
「うぐ……あ、抜いて、たすけ、たすッ……!!」
男たちが口々にアシュレイさんを問いただす。倒れた男にはまだ息があり、延々と他の男たちに助けを求めている。
アシュレイさんは答えず、五人のうちひとりをじっと見据える。
「ひッ……」
「ひ、怯むなッ!! 全員でかかるぞ、いいな!!」
「お、おうッ!!」
五人は全員、抜き身の短刀を構えていた。
傍目にも絶体絶命のはずなのに、アシュレイさんの顔には冷や汗ひとつない。
「死ねッ――――ぐげえッッ!?!?」
男のひとりが真正面から短刀を構えて突きかかる。
アシュレイさんは目に見えないほど迅速に腕を走らせ、男の顔を掴み上げ、後頭部を壁に叩きつけた。
ガンッ!! と派手な音を立てて男の人の頭が割れる。
「……黙れ、声を出すな、静かにしろ」
アシュレイさんは沈黙した男をゴミでも投げるように放り捨て、後ろにいる男へ振り返った。
「な、なんだ、このやッ――ぎゃッッ!!」
アシュレイさんは男が突っかかる間もなく顔に拳を叩き込む。
一片の躊躇もない打撃が彼の顔面を陥没させる。勢いのまま吹き飛んだ男の背中が石壁に叩きつけられる。
「や、やべえッ、やべえよこいつ、やべえって――ひぎいぃッ!?」
「助け、やめっ、すみませっ――ぐぎゃッッ!!」
残る三人はすでに背を向けて逃げ出していた。
アシュレイさんは飛ぶような駿足で追い縋り、後ろからふたりの髪を引っ掴み、顔面を地面に思い切り叩きつける。
一回、二回と打ち付けられるたびに悲鳴が聞こえ、三回目でふたりとも静かになる。
「……ちっ」
残るひとりの背中はすでに遠い。
アシュレイさんはその方向に向けてすぅっと掌をかざした。
「――あぎいいいッ!? ひッ、あぢいッ、あぢいよォッ!!」
ぼっ、と空気が弾けるような音。
アシュレイさんの背中で隠れているために何が起こっているかは見えなかった。
でも、黒い煙と火の粉が爆ぜる音でだいたいの予想は付く。
「なんでっ、なんでだよぉッ、こんな、ゆるしッ……」
「……おまえを逃がしたら、上の奴に報告するだろ。それは困る。それは通らない。だから、ここで死んでくれ」
「い、いわないッ、絶対にいったりしねぇッ!! だからッ――」
叫び声が聞こえた後、アシュレイさんは何かをつぶやき、男の首をへし折った。
続いてアシュレイさんは男たちの死体を一箇所に集める。
「……た、たすけ、たしゅけ……」
「……おまえも、生きてたか」
「や、やめ、まってッ、まッ――ひぎゃッッ!!」
アシュレイさんは鉄串の傷に苦しむ男の首をへし折った。
どさどさ、と折り重ねられる六つの死体。
アシュレイさんがそこに手をかざした瞬間、死体に火がつき、まるでろうそくのように一気に燃え上がる。
次にぼんっと爆ぜるような音がして、跡には火も死体も残らない。
アシュレイさんは虚脱したように息を吐き、一瞬ぼーっと空を見上げる。
そして、足音が一歩ずつ私のほうに近づいてくる。
アシュレイさんの影が私の隣に落ちた時、彼はふと足を止めた。
「……クレア」
「……はい」
「聞こえてたか」
「…………は、い」
ほとんど一部始終を見ていた、とは言えなかった。
視界がぐわんぐわんと上下に揺れる。頭の中は真っ白だった。喉が異常なくらい渇いている。
「……俺が……嫌に、なったか」
アシュレイさんの言葉は、端的だった。
私の頭の中で言葉にならない声が堂々巡りする。何かを言おうとして、吐く息が声にならずに消えていく。
私はおぼつかない足取りのまま物陰から歩み出る。
路地の壁には隠しきれない血の跡が滲んでいた。
私はおそるおそる、影を落とすアシュレイさんの顔をじっと見上げる。
――――そこには。
いつもと変わらない鋭い目付きの、青く鮮やかなアシュレイさんの瞳があった。
大きな手は下衣のポケットに突っ込まれている。
まるでその手が何をしたかを隠すかのような。
「……アシュレイ、さん」
「……あぁ」
アシュレイさんと目が合う。
瞳の奥から熱いものがこみ上げてくるような感覚。
私は歯を食いしばって駆け寄り――アシュレイさんの背中に両手を回した。
「……ごめんなさい。わたしのために、こんなことをさせて、ごめんなさい。わたしなんかのために、こんな――――」
「ッ……、待て、違う。俺が……俺が、勝手にやったことだ。おまえのせいじゃない。俺が……ただ、俺が勝手に手を汚しただけだ!」
自責の念。罪悪感。自己嫌悪。
胸の中で津波のような感情が渦を巻く。
止まらない。アシュレイさんの言葉を聞いてなお、私の口は止まらなかった。
「……こんなこと、わたしのためにする価値なんて、ないのに……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさ……っ、ひぐっ……」
「そんなことはない!! だから――ああ、くそ、泣かんでくれ。いや、泣いてもいいが、謝るな。おまえは悪くない。……おまえは、何も、悪くないんだ」
喉の奥が鉛のように重い。こみ上げる熱いものがとうとう堪えきれずに溢れ出す。
ひくっ、ひくっ、としゃくり上げるのを押し殺すようにアシュレイさんの胸に縋り付く。いつしか彼の無骨な手が私の背中をなだめるみたいに擦っている。そんな気遣いをさせているのが情けなくて、また涙がこみ上げてくる。
――――私が死んでしまえば良かったんだ。
頭の中で堂々巡りする言葉も口にできず、しきりに「俺が悪かった」と言うアシュレイさんに頭を振って、わけもわからないのにまた涙が溢れて。頭の中がめちゃくちゃに掻き乱されて、意識があるかどうかも曖昧になって――
――次に私が目を覚ましたのは、アシュレイさんの部屋の中だった。




