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断髪

 服を買うか、という話にはなったものの。

 そこで問題になるのは、私が外を出歩けないということだ。

 ……正直なところ、外に出るのは少し怖い。また追い回されるのではないか、という恐れがどうしても拭えない。

 アシュレイさんもそれを察してか、無理に私を連れ出そうとはしなかった。


 そのまま数日が経ち、アシュレイさんとの生活にも少し慣れ始めたころ。


「……外に、出たくはないか」


 昼前に起床したアシュレイさんとお昼ご飯の最中、彼は藪から棒に言った。


「……い、いきなりなんでしょう……」

「そのままの意味だ。……閉じこもっているのは辛いかと思ってな」

「……出たくないわけでは、ないですけど。……でも、辛いというほどでもないです」


 朝焼いた黒パンをトマトベースのスープに漬けて食べながら言う。

 少しの唐辛子と酸味が効いてさっぱりしたスープはアシュレイさんにも好評だった。


「……まぁ、あれから数日だからな。大したことはないかもしれんが」

「……それは……」


 私がアシュレイさんに助けられてから――追手がかかってから数日。

 引きこもるのは外への恐怖心も手伝ってやぶさかではないが、それがずっととなればどうだろう。

 なにせ状況が好転する見通しは全くない。軟禁状態が数十日、あるいは何ヶ月と続く可能性もある。

 ……それは、さすがにかなり辛そうだった。


「……でも、外に出たら危ない……ですよね?」

「姿を見せなけりゃいい」

「……だいぶ無理な気がします」

「何も隠れながら歩けってわけじゃない。……変装だ。服装だの髪型だのを整えれば人の目は簡単に騙せる」

「……私じゃ無理ですよ……?」


 あの男の命令で化粧を施されたことはあるけれど、自分ではとてもできない。

 服装だけで言えば、私は今、アシュレイさんの古着を借りていた。

 なんでも十年以上前の服で、今はほとんど着ることもないという。本来はハーフパンツらしいけれど、私が着ると膝下くらいの丈があった。

 ……少しは男の子っぽく見えたりしないだろうか。

 無理かな。


「俺で構わんならやるが」

「……え、……化粧をです?」

「化粧はあんまりわからん……が、まぁ、変装の初歩ならある程度は」


 なんで変装の心得があるのだろう。

 私は思わずアシュレイさんをじっと見る。彼は何食わぬ顔でスープを飲み干していく。嚥下に連れて上下する喉元が力強い。

 アシュレイさんはお皿をことりと置き、私の方を食い入るように見つめた。


「その髪は、気に入っているか」

「……髪、ですか……?」


 自分の髪をそっとつまむ。肩の下辺りまで伸びている黒い髪。昨日整えたばかりなので指に引っかかることもない。


「髪を切ればだいぶ印象も変わる。……嫌なら、そのままで良いが」

「……えーっと……」


 髪は、奴隷である私に残されていた唯一の洒落っ気だ。

 服は全て押し付けられたもので、装飾品などは言うに及ばず。

 ……じゃあ、髪は自由だったのかというとそうではない。

『おまえは髪を伸ばした方が見栄えがする』――そんな理由で、あの男は私に髪を伸ばすよう命じていた。

 長い髪を整えるのもタダではないのだ。彼の命令でもなければ許されるはずがない。


 ……思えば、あの頃から私は捧げ物として育てられていたのかもしれない。

 私が小さい時から言いつけられ、私もそれを当然と思い込んでいた。


 ――――でも。


「……アシュレイさん」

「どうした。……別に無理には」

「……お願いします。……一思いに、やってください」


 もうあの男の命令に従い続けるいわれはない。

 私はアシュレイさんをまっすぐ見上げて言う。


「……あぁ。わかった」


 アシュレイさんは、青く鋭い眼差しを少し優しげにたわめ……かすかに微笑んだ、ように見えた。


 *


 昼食後、私はアシュレイさんと一緒に空っぽの浴槽へ入る。

 切った髪の後片付けが楽だからだ。


「……動くなよ。危ないから」

「……は、はい……」


 髪を切られるのは、初めてではないけれど……男の人に、というのは初めてだった。

 距離が近い。

 正直、かなり緊張している。

 私の目の前には顔くらいの大きさの鏡が置かれ、私とアシュレイさんの顔が一緒に映り込んでいた。


「……鏡、なんて持ってたんですね」

「あぁ。まだ売ってなかった」

「……換金用扱いですか……」


 鏡なんて貴族か、あるいはよほどのお金持ちでもなければ持っていない。

 私が顔を洗う時なんかは水鏡だけが頼りだった。


「……じゃあ、そのままな」

「…………はい」


 こくん、と頷いてみせる。

 アシュレイさんは私の髪を水で濡らし、頭の形を確かめるようにそっとなぞる。武骨な指先が、意外なほど繊細な手付きで私の髪を梳いていく。


「どうする。……男ぐらいにばっさりやるか」

「……そ、それよりはちょっと長めで……」

「……わかった。女の子らしくな」


 ……女の子らしく、とアシュレイさんに言わるのはなんだか変な気持ちだった。

 いつも子ども扱いされているせいだろうか。


 後ろには鋏を手にした男の人。

 傍目に見ればこんなに怖い状況も中々ない……というのに、特にそれを恐ろしいとは感じなかった。

 むしろ気分はひどく落ち着いている。

 ほんの少し前までは、あの男が手を振り上げるだけで怯えていたはずなのに。


「……ん……」

「痛むか」

「……ううん。平気、です……」

「……わかった」


 アシュレイさんはそう言って鋏を滑らせていく。

 少しも迷いのない手際だった。

 ……昔は散髪屋さん? などと間の抜けたことを考えるくらい。

 しゃきり、しゃきり、と刃が閉ざされるたびに髪の一房が落ちていく。


「……っ、ぁ」


 アシュレイさんのごつごつとした指が耳たぶをかすめていく。

 指先が私の髪をちょっと掻き上げ、耳元があらわになるように髪先を切り落とした。


「……ん、っ……」


 後髪が、おそらくは真っ直ぐになるように鋏を通される。

 私の頭が動かないようにするためか、首筋に掌を添えられるのがくすぐったい。

 しゃきりしゃきりと音が立つ瞬間、鋏の付け根部分がふとうなじに触れる。


「……すまん。ちょっと我慢な」

「……ぁ……は、はい……」


 金属のひやりとした感覚にもいつしか慣れる――慣らされるみたい。

 やがて後ろ髪はうなじに届くか届かないか、程度の長さに留められる。


「……次、前髪な。目に入るかもしれん、目ェ瞑っといた方がいいぞ」

「は、はい……ぅあ」


 鋏がちょうど前髪付近にかざされると同時、アシュレイさんの手がちょうど私の喉仏に触れる。

 頭がまっすぐになるように――とはわかっているけれど、まず触られることのない部位への接触に思わず変な声が漏れてしまった。

 ぎゅっと目を瞑れば掌の感覚がますます鮮明に伝わる。暖かくて、大きくて、少し筋張った男の人の掌。

 ……お酒びたりの割りには鍛えてそう、などといささか失礼な感想が浮かんだ。


「……よし。終わったぞ、おつかれさん」

「っ……ぁ、は、はい。ありがとうございます……」


 目を瞑っていれば後はあっという間だった。

 アシュレイさんが鋏を置くと同時、私は目を開いて鏡を覗きこむ。


「……わ」


 変わるものなんだ、なんて他人事みたいな感想を抱く。

 鏡面に映り込んでいるのは、まるで初めて見るような姿。これが私だとすぐには信じられなかった。


 前髪はちょうど眉の辺りで切り揃えられ、襟足はうなじの少し下あたりまで。

 耳たぶが外に出ていて、後ろ髪が肩に触れることはない。

 一にも二にもとにかくすっかりした。洗うのも楽そうだし、これなら確かに一目で私と見抜くのは難しそうだ。


 そして、何より――


「どうだ。何分久しぶりなもんでな……不満があれば調整するが」

「……ううん。大丈夫、これでいい……これが、いいです」


 ――まるで、私を縛り付けていた枷がひとつ外れたかのようだった。

 視界が鮮明になったような感覚を覚える。

 ともすればただの錯覚に過ぎないのだとしても。


 あと、頭が軽くなったのは間違いないと思う。

 ……髪ってこんなに重かったんだなって。


「……そりゃよかった。かわいくなった、似合ってるぞ」


 ……か、かわ?

 アシュレイさんはくしゃくしゃと私の髪を払うように撫でて立ち上がる。

 まるっきりの子ども扱い――なだけでなく、頭にくっついた髪を払い落としているのだろうけれど。


「……い、いきなり驚かさないでください……」

「そりゃ悪かった。……その服で、後は帽子でも被っとけばすぐにバレることは無いだろ」


 警戒するに越したこたないが、とアシュレイさんは言いながら後片付けにかかる。

 私は髪を振り落とすようにふるふると頭を振り、ふと違和感を覚えた。


「……アシュレイさん」

「どうした」

「……男の子に見せかける方向……です……?」

「…………そうなるかもしれんな」


 アシュレイさんはそっぽを向きながら言う。

 非常に露骨な視線そらしだった。

 ――――だいぶ遺憾ではあるけれど、変装がバレないならそれに越したことはないわけで。

 ……なんで私はこんな葛藤をしてるんだろう。


「……外ではなんて呼ぶ方がいいもんかね」

「……呼び方、ですか……?」

「クラリッサと呼ぶわけにもいかねぇだろ。誰かの耳に入ったら一瞬でバレるぞ」

「……え、えーっと……お好きに、愛称とかで呼んでくだされれば……」

「なんて呼ばれてたかとか、そういうのは」

「無いです」

「……そうだとは思っていた」


 アシュレイさんは一瞬途方に暮れたように天を仰ぎ、私のほうを振り返る。

 ……なんだか、以前より視線を遮るものが減ったような気がして少し恥ずかしい。


「じゃあ、クレアだ。……対外的にはそっちが本名ってことで良いだろ」

「……は、はい……それで、大丈夫です」


 クラリッサ、の愛称としては自然で違和感はない。

 そんな呼ばれ方をしたことは一切ないので、自然に応じられるかはまた別として。


「外に出たくなったら言ってくれ。……面倒かもしれんが、一応ついていかせてもらう。何があるかわからん」

「……はい。その時は、ぜひ……お願いします。今日は、その、大丈夫なので……」


 一時間くらい緊張していたせいでかなり消耗が激しい。

 ご飯作り置きしておいて本当に良かったという気持ちになる。

 浴槽に散らかった髪を集めていると、アシュレイさんは不意に言った。


「……あと、クレア」

「ひゃ、ひゃい!?」


 今言うんですかそれ。

 てっきり外出時限定の呼び方だと思ってたじゃないですか。


「もう少し警戒心を持て。……奴隷じゃなくなったってことは、誰にも縛られないってことだが……自分の身は自分で守るしかない、ってことでもある」

「……アシュレイさんを、頼るのは、だめですか?」

「……今はいいがな。……見ての通り俺はろくでなしだし、男だ。……あまり信用できるもんじゃない」


 アシュレイさんは鋏などの道具を両手いっぱいに持って水場を出ていく。

 私はその背中を目で追いながら疑問に思う――男って、男であることとどういう関係が。

 ええと。

 つまり……一応は、そういう眼で見られる対象ということだろうか。

 それは考えすぎなのではという気もする。アシュレイさんは普段から私に対してまるっきり子ども扱いなわけで――あえてそうしているのかもしれないけれど。


「……赤……」


 私は置きっ放しになっていた鏡に目を向ける。

 鏡に映り込んだ顔はすっかり赤く火照っていて――それが収まるまで、私はしばらく浴槽から出られなかった。 

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