第六話 順序の話をしよう
紙は、呼吸をしない。
でも、紙の上で息が止まることはある。
リリアナがその日いちばん最初に見たのは、王太子付顧問室の受領箱に入っていた一通の控えだった。薄い紙に、太い筆圧で書かれた数字と印。店の出入り、荷の出入り、取引先一覧――そして最後に、短い一文。
「面会は認めない。理由は騒擾」
控えの端に、店主の手癖が残っている。揃っていない文字。途中で一度だけ滲んだ墨。滲みは、躊躇いの痕だ。躊躇いは、もう相手に触れられている証拠でもある。
「……来ましたか」
背後から低い声がした。顧問室の実務を回しているエルナだ。書類の束を抱えたまま、廊下を急いでいたはずの足を止め、紙の角を見ただけで状況を察した顔になる。
「来た、の質が変わりました」
リリアナは控えを机に置いた。机は広いが、紙はすぐに場所を奪う。紙が増えると人の居場所が減る。店も、きっと同じだ。
「治安名目で店に介入。協力しない場合の不利益を明示。面会拒否。……ここまで揃うと、偶然ではない」
エルナが息を吐き、指先で自分のこめかみを押さえた。
「治安局が動くと、話が面倒になりますね。軍は軍、徴税は徴税で、それぞれ別の“正しさ”を持っています。どれも間違っていない顔で来る」
「ええ。間違っていない顔のまま、人を折ります」
リリアナは椅子に座らず、立ったまま紙をもう一枚引いた。紙を引く動作が、呼吸に近い。落ち着くための作業だ。
「否定しません」
「否定しない?」
エルナが眉を上げる。否定しない、という言葉は弱さに聞こえる。けれど、ここで否定は負けだ。否定すれば、相手は「反治安」「反秩序」の札を貼れる。貼られた札は剥がれにくい。剥がれにくい札は、次の手続きになる。
「治安維持も、騒擾防止も必要です。だから否定しない。代わりに――順序を求めます」
リリアナはペンを取った。書くべきは感情ではない。条件だ。相手が守れない条件を、先に置く。守れないなら、次の段階へ進めないようにする。
「順序?」
「手続きの順序。根拠の順序。記録化の順序」
リリアナは紙の上に、見出しだけを先に置いていく。短く、逃げ場がない形で。
一、根拠
二、範囲
三、期間
四、記録
五、接触
文字が並ぶと、世界が少しだけ整う。整うのは、相手のためではない。こちらが折れないためだ。
エルナが机に書類を下ろし、黙ってリリアナの筆先を追った。彼は感情で動く人ではない。だから、こういう場面で頼りになる。頼りになる人ほど、無表情で残酷なことも言う。
「宛先はどうします」
「治安局長官室。軍法務局。憲兵隊司令部。監察局。徴税監督官室。……あと、王太子殿下」
エルナが小さく頷いた。多い宛先は効く。効くのは、誰かがどこかで“整合性”を気にするからだ。整合性を気にする人間が一人でもいれば、運用は少しだけ遅くなる。遅くなれば、折る速度が落ちる。
「面会拒否も入れますか」
「入れます。ただし“要求”ではなく、“条件”として」
要求は拒まれる。条件は、拒んだ側の責任になる。責任の所在を紙の上に置く。置ければ、後で戦える。
リリアナは文章を組み立てた。柔らかく、しかし逃げ道を削る言い回し。敵を罵らない。敵を立てながら、刃だけを残す。
――騒擾防止および地域安全の目的について、当方は異議を唱えるものではない。
――ただし、当該目的のために行われる行政的介入・検査・提出要請・営業制限・接触制限については、以下の順序に従い、根拠と範囲を明確化した上で実施されたい。
――本件は、王太子付顧問室が再審および証拠保全の整備を担っている現状に鑑み、記録の連続性を損なう運用を許容しない。
書きながら、リリアナの頭の中で一つの像が立つ。治安名目の介入は、単発ではない。単発なら、ここまで整わない。整っているのは、次の署名へ繋ぐためだ。署名へ繋ぐなら、面会は邪魔になる。面会は“折れない理由”になるからだ。
「面会拒否の根拠を明示させます」
リリアナは“接触”の項目に線を引いた。
――被拘束者との面会・接触を制限する場合、制限の根拠規定、制限期間、対象者の範囲(親族・雇用関係者・法的代理人を含むか否か)、制限決定者、異議申立て窓口を文書で示されたい。
――特に、雇用関係者による事実関係の確認を一律に“口裏合わせ”と推定する運用は、捜査の便宜を超え、手続きの信用を毀損するため採用しない。
エルナが低く言った。
「刺しますね」
「刺さないと、届きません」
リリアナは感情を入れずに返した。刺すのは相手ではない。運用だ。運用は、人の顔をしていない。だから刺すしかない。
次に“記録”の項。ここが勝負になる。口だけの治安は、後からいくらでも正当化できる。だから、今この瞬間に紙で縛る。
――提出要請および検査の際は、要請書面(発出部署・担当官・日時・目的・根拠規定・対象範囲)を必ず交付されたい。
――押収・持ち出し・閲覧が伴う場合は、対象物・数量・識別印・保管場所・保管責任者・閲覧者ログを記録し、写しを当方に提出されたい。
――「預かり品」等、第三者の所有権または占有が絡む物品については、当該第三者の特定と通知を欠いた移動を認めない。
“預かり品”の語を、あえて入れる。店の倉庫から持っていかれたものは、今どこかで形を変えている。形を変える前に、紙で足場を固める。
リリアナは最後に“範囲”と“期間”を締めた。ここを曖昧にされると、介入は永遠になる。永遠の介入は、生活を枯らす。
――営業制限・立ち入り・提出要請は、期間を定め、更新の都度、更新根拠と必要性を記録されたい。
――「臨時」「暫定」の名のもとに期限が実質無期限化する運用は、騒擾防止の目的を超えて私権制限の濫用となるため、当方は受け入れない。
受け入れない。ここだけは断言する。ただし怒りではない。条件の断言だ。条件があるから、次に進める。
書き終えたリリアナは、紙を軽く指で揃えた。揃えると、少しだけ自分の心が揃う。
「エルナ、至急で回してください。写しは全てこちらに」
「承知しました。返答期限は」
「今日の夕刻。遅いと、相手が速度で勝ちます」
速度。軍も治安も、速度で人を潰せる。速度に対抗できるのは、同じく“手続きの速度”だけだ。怒鳴っても止まらない。泣いても止まらない。紙なら止まることがある。
エルナが持ち上げた書類の束が、思ったより重く見えた。重いのは紙の量ではない。紙に載せた責任の量だ。
「殿下には口頭でも入れます」
「お願いします。殿下が線を引ける位置にいるうちに」
王太子が線を引ける位置にいる――その事実だけが、この国の救いであり、同時に危うさでもある。線を引ける人間が変われば、線も変わる。変わる線の上で、弱い者は毎回切られる。
夕刻。
返ってきたのは、予想通り“整った”文面だった。言葉遣いは丁寧で、礼儀正しい。礼儀正しい文章ほど、内容が冷たい。
リリアナは一行目を読んだ瞬間に、指先が冷えるのを感じた。
――本件は騒擾防止の緊急措置に該当し、通常の要請書面交付および接触制限の手続きについては、例外規定により省略し得る。
例外規定。
便利な言葉だ。便利な言葉は、使われ始めた瞬間から常態化する。常態化した例外は、もはや規則になる。規則になった例外の下では、誰でも正しい顔で何でもできる。
エルナがリリアナの横で、短く唸った。
「来ましたね」
リリアナは返答文の下部まで目を滑らせた。条文番号。通達番号。緊急措置の適用要件。どれも“それらしく”揃っている。揃っているから、怖い。揃っているものは止めにくい。
リリアナは紙を机に置き、余白に、細い字でたった一言だけ書いた。
「例外の入口を閉める」
怒りは湧かない。怒りは燃えて終わる。必要なのは燃料ではなく、順序だ。順序だけが、例外を例外のままに留められる。
窓の外はもう暗い。けれど、暗くなるほど紙は見やすい。灯りの下で、白は白として残る。
リリアナは新しい紙を引いた。次に書くべきは、例外の条件だ。例外が便利なら、便利に使えない形にする。
紙の上で、戦いがもう一段深くなる。




