第五話 協力しないという選択肢はない
店の朝は、昨日より静かだった。
静かだから安心、ではない。静かな朝は、手続きが進んでいる朝だ。人の声じゃなく、紙の音だけが増えていく。
ミレイアは戸を開け、札を掛けた。いつもと同じ高さ、いつもと同じ角度。たったそれだけで、自分がまだ店主だと確認できる。確認しないと、崩れる。
昨日の封筒は机の端に寄せてある。取引を見合わせたい、の短い文面が二枚。保留が一枚。曖昧が三枚。生活は、たった数行で削れる。
削れた分を埋めようとして、彼女は帳簿を開いていた。数字は嘘をつかない。嘘をつかないからこそ、嘘の運用に弱い。数字が正しいだけでは、守ってくれない。
扉が叩かれた。
二回。速い。昨日の監察局でも徴税でもない叩き方だ。呼吸が浅くなる。印が違う。違う印が怖い。
開けると、治安の札を下げた男が二人立っていた。制服ではない。けれど姿勢が、制服より硬い。硬い姿勢は「話し合いじゃない」の合図だ。
「ミレイア商店の店主か」
「はい」
「地域安全の確認に来た。最近、騒擾の芽がある」
騒擾。芽。曖昧な言葉は便利だ。曖昧な言葉で、何でも入ってこられる。
「この辺りで何か……?」
「ここだ」
男は店内を一瞥しただけで言った。店を見たのではなく、状況を見た目で判断した顔だった。状況とは、弱さの匂いだ。
「荷の出入りが増えた。人の出入りも。噂もある」
噂。噂は誰のものでもないから、誰も責任を取らない。責任を取らないものほど、強い。
「昨日は監察局と徴税が来ただけで……」
「それが問題だ」
治安の男は、やけに丁寧に言った。
「役所が出入りする店は、人が集まる。人が集まれば、騒ぐ。騒げば、治安が悪化する。悪化すれば、介入が必要だ」
論理としては正しい。正しいから、反論しにくい。反論しにくい正しさは、暴力の形をしている。
「具体的に、何をすればいいんですか」
ミレイアが尋ねると、男は紙を差し出した。紙は薄く、印だけが濃い。治安局の印。印が濃いと、それだけで重い。
「協力要請だ。店の出入りの記録を提出。荷の記録も。取引先の一覧。店内の立ち入り検査。必要なら、営業時間の制限」
「営業時間の……制限?」
「人が集まるのを防ぐ。騒擾防止だ」
騒擾防止。店を閉める理由として、これ以上楽な言葉はない。違反がなくても閉められる。違反がなくても、秩序のため、で押し切れる。
ミレイアは紙を握り、声を落とした。
「違反はしていません。むしろ、昨日からずっと協力して――」
「協力の仕方がある」
治安の男が遮った。
「こちらの要請に従う。それが協力だ」
協力とは、こちらが決める。昨日と同じだ。昨日の徴税監察も、昨日の監察局も同じ顔をしていた。顔は違うのに、声は同じだ。
もう一人の男が、店の奥に目を向けた。
「倉庫は?」
「裏です」
「案内しろ」
「今、ですか」
「今だ。必要だ」
必要。必要と言われると、こちらは拒めない。拒んだ瞬間に、必要な介入が始まる。
ミレイアは鍵を取って裏へ回った。二人は無言で付いてくる。歩幅が揃っている。揃った歩幅は訓練の証だ。訓練された介入は、温度がない。温度がないから、心が折れる。
倉庫の戸を開けると、男は中を見渡した。棚の位置、荷の置き方、通路。全部を見ている。全部を見るのは、探し物が決まっている時だ。
「預かり品は」
ミレイアは一瞬、喉が詰まった。預かり品。昨日持っていかれたもの。持っていかれたこと自体が、ここに繋がっている。
「……今は、ありません」
「無い?」
「昨日、別部署が」
治安の男は頷かなかった。頷かないのは「その説明は採用しない」の合図だ。
「無いのに、噂だけある。噂は厄介だ」
「噂は、私が流したわけじゃ」
「誰が流したかは問題じゃない。起きていることが問題だ」
起きていること。起きていることは、起こされたことだ。起こした側は、責任を取らない。
男は倉庫の床を指でなぞるように見た。傷。車輪の跡。荷が動いた痕跡。痕跡は正直だ。正直な痕跡は、逆に利用される。痕跡があるなら「動いた」。動いたなら「疑わしい」。疑わしいなら「介入できる」。
「昨日、ここから荷が出た」
「だから、別部署が」
「別部署が何をしたかは知らない。こちらは騒擾防止だ」
同じ。切り分けるふりをして、全部に入り込む。全部に入り込むと、こちらの逃げ道がなくなる。
ミレイアは我慢して言った。
「協力はします。協力しないと、どうなるんですか」
自分で聞いておいて、答えが分かるのが怖い。分かる答えほど、聞きたくない。
治安の男は淡々と答えた。
「協力しないなら、営業制限。立ち入り。人の流れの遮断。必要なら一時閉鎖。あと――」
言葉の間に、ほんの少しの優しさを混ぜる。優しさは刃を滑らせる。
「店主の身柄を保護することもある。騒擾に巻き込まれるからだ」
保護。保護は拘束の別名だ。拘束は、説明されれば正しく見える。
もう一人が付け足した。
「協力すれば、こちらも守れる。守れる店は、守る」
守れる店。守れない店は守らない。守れないのは、協力しないから、にできる。
ミレイアは唇を噛んだ。噛んでも、怒鳴るわけにはいかない。怒鳴った瞬間に、騒擾の芽になる。
「……分かりました。出入りの記録、荷の記録、取引先一覧。出します」
「今日中だ」
「今日中……」
「騒擾は待たない」
待たない。待たないものほど、こちらを削る。こちらは生活で、向こうは手続きだ。手続きは夜でも動く。生活は夜に折れる。
倉庫を出て、店に戻ると、治安の男は机の上の封筒を見た。見ただけで理解する。理解しているのは、狙いがそこにあるからだ。
「取引先が引き始めたな」
昨日来た役人と同じ言葉。言葉が揃う。揃うのは偶然じゃない。
ミレイアは何も言わなかった。言うと、弱さを差し出す。弱さは、次の紙になる。
男が紙束を机に置いた。空欄が多い。空欄が多いほど、後で埋められる。
「ここに書け。出入りの記録、荷の出入り、相手先。あと、店に来た役所の名前と日時」
「役所の名前まで?」
「情報の整理だ。情報が整理されないと、騒擾が広がる」
情報の整理。情報の整理と言いながら、情報を集めている。集めた情報は、店を守るためではなく、店を縛るために使われる。
ミレイアは書き始めた。書かないと、終わる。
書きながら、頭の片隅でレインの顔が浮かぶ。あの子が今どこにいるのか。今日の紙の束が、あの子の紙の束に繋がっているのか。
繋がっている。繋がっているから、ここに来た。治安が来る必要がない店に、治安が来ている。
その時、店の外で子どもの声がした。通りを走り抜けるだけの声。普通の声。普通の声が、今日は羨ましい。
ミレイアはペンを止めずに聞いた。
「……面会の件ですが。拘束されている子に会いたい。家族ではないけれど、雇い主として」
治安の男は即答した。
「無理だ」
「どうして」
「捜査中だ。外部接触は騒擾の元になる」
騒擾。何でもそこに戻る。
「弁護人でもない者が会えば、口裏合わせと見なされる」
口裏合わせ。会いに行くだけで犯罪になる。犯罪になるから、会いに行けない。会いに行けないから、あの子は折れる。
ミレイアは一瞬、視界が白くなった。白くなると危ない。危ない顔は、今ここで折れる。
「……王太子付の顧問室に相談します」
言った瞬間、治安の男の目が細くなった。細くなるのは、嫌な名前が出た時だ。嫌な名前が出ると、向こうも速度を上げる。
「相談は自由だ。だが、相談の結果が出るまで、お前の店は動くな」
「動くな……」
「動くな、という意味じゃない。余計な動きをするな、だ」
余計な動き。余計かどうかは向こうが決める。つまり、動けない。
男は机の紙束を軽く叩いた。
「今日中だ。提出が遅れれば、協力がないと判断する」
協力しないという選択肢はない。選択肢がないのに、選べと言われているふりをされる。ふりをされると、人は自分で折れた気になる。自分で折れたと思えば、相手は責任を取らない。
治安の男たちは、店の扉の前で立ち止まり、最後に言った。
「面会は認めない。今は余計な波を立てるな。店主として、地域安全に協力しろ」
扉が閉まった。
外の空気が、急に遠くなる。店の中だけが狭い。狭いのに、紙は増える。
ミレイアは椅子に座り直し、震えそうな手を机の下で握りしめた。震えるなら、見えないところで震える。見えたら負ける。
面会拒否。たった四文字で、レインは一人になる。孤独は、署名を押させるためにある。
机の上には、治安の紙束と、取引先の封筒と、自分が書いた控えが並んでいる。
彼女は新しい紙を一枚出し、上に短く書いた。
「面会拒否=折らせる意図。理由は騒擾。対象は店と被拘束者の両方」
書いた瞬間、胸の奥に小さく火が灯った。怒りではない。怒りは燃えて終わる。これは、冷たい火だ。
冷たい火は、順序を求める。
ミレイアは立ち上がり、戸を閉めた。札は外した。営業の札を外すのは敗北に見える。でも今日は、営業しても人が来ない。来ないなら、紙を書く時間を取る。
彼女はペンを握り、王太子付顧問室宛の文面を頭の中で組み立て始めた。
否定しない。怒鳴らない。感情で殴らない。順序で止める。
止めるための最初の一歩は、拒否された面会の事実を、記録として置くことだ。
外では子どもが笑っていた。
店の中では、紙の音だけが増えていった。




