第四話 整いすぎた供述
薄い壁は、声を通す。
通すのに、意味は運ばない。意味は途中で削られて、都合の良い音だけが向こうへ行く。レインはそれを、椅子に座ったまま聞いていた。自分の名前が、別の部屋で「案件」と呼ばれているのが分かった。
任意。任意という言葉は、もう誰も口にしない。最初に言った人間ほど、途中から言わなくなる。言わなくても、形は任意のまま進む。形が任意なら、乱暴にしても乱暴じゃないことになる。
彼の前には、白い紙が一枚。
まだ何も書かれていない。書かれていないのに、もう終わっている気がする。白い紙は、自由じゃない。白い紙は「これから何でも書ける」という意味じゃない。「これからあなたの罪を書く」という意味だ。
向かいの男は治安の札を下げている。服装は地味だが、袖口が綺麗だった。綺麗な袖口は、汚れない仕事をしている証拠だ。汚れない仕事ほど、人を汚す。
「落ち着いたか」
レインは頷いた。落ち着いているふりをするのは得意だ。守られない人間は、守られない顔をしない。顔を崩すと、踏まれるから。
「昨夜の門の出入り。もう一度確認する」
男は紙を見ずに言う。紙を見る必要がない。頭の中で、もう整っている。
「何時に出た」
「閉店後です。片づけが終わって……」
「違う」
男の声が硬くなる前に、別の男が横から入ってきた。記録係。指先が黒くない。墨を扱っていないのに、記録係だ。つまり、書くのは作業であって、責任ではない。
「閉店後、だと幅がある。時刻で」
レインは答えた。昨日の自分が覚えている範囲で、できるだけ正確に。正確に答えれば助かると思ってしまうのが弱さだ。正確に答えた言葉は、後で切り取られる。
「二十一時半くらい」
記録係がさらさらと書く。音が良い。筆記の音が良いと、内容も正しい気がする。人は音に騙される。
「どこへ」
「門外の荷車のところへ。店の預かり品の件で――」
「預かり品は関係ない」
治安の男が被せた。被せるのが早い。早い遮断は、こちらの言葉を奪う。
「ただ門を出た。そうだな」
「……門を出ました」
「誰と」
「一人です」
ここまでは一致している。レインは少しだけ安心しかけた。安心すると負ける。
治安の男は、淡々と言った。
「目撃がある」
レインは息を止めた。目撃。目撃という言葉だけで、こちらの言葉が弱くなる。目撃は強い。目撃は人だ。人は嘘をつく。でも嘘をつく人ほど、自分は嘘をついていない顔をする。
「誰が……」
「三人」
三人。多い。多い目撃は、偶然じゃない。
「門の番。巡回の治安補助。近隣の住民。三つとも同じだ。お前は荷を運んでいた」
レインは首を振った。
「運んでません」
「運んでいた、という証言だ。しかも一致している」
一致。都合の良い一致が揃うと、治安は仕事が早くなる。早い仕事は評価される。評価される仕事ほど、人が死ぬ。
記録係が紙の端を折った。折ると、紙が「進んだ」感じになる。進んだ感じが怖い。進んだ感じは戻らない。
「荷は何だ」
「荷なんて……」
「箱だ。木箱だ。重かった。そう言っている」
「……そんなもの持ってない」
治安の男は溜息をついた。溜息は「面倒だ」の合図だ。面倒になると、人は脅しを使う。
「お前がやった、という話じゃない」
レインはその言葉に引っかかった。やった、という話じゃない。じゃあ何の話だ。やっていないなら帰れるはずだ。帰れないのは、やった話が必要だからだ。
「お前が運んでいた。運ばされた。知らなかった。そういう筋でいい」
筋。筋は便利だ。筋があると、全員が助かる。治安は仕事が早く終わる。上官は部隊が守られる。神殿は面子が立つ。最後に残るのは、筋の中に入れられた一人だけだ。
「知らなかったなら罪じゃない」
レインが言うと、男は静かに首を振った。
「罪じゃない、ではなく、軽い。軽いと、生き残れる」
軽いと生き残れる。重いと死ぬ。これが選択肢だ。
別の部屋から、笑い声が聞こえた。笑い声は悪いことの音だ。悪いことほど楽しそうに進む。レインは椅子の縁を握った。握った指が白くなる。白い指は、白い紙と同じだ。これから染まる。
記録係が口を開く。
「昨夜、お前が門外へ出た。木箱を運んだ。相手は一人ではない。こういう形で整っている」
整っている。昨日からずっとその言葉が刺さる。整っていると、真実じゃなくなる。
「整ってるなら、もう俺の話いらないじゃないですか」
レインが言うと、治安の男は少しだけ表情を柔らかくした。柔らかい表情は罠だ。罠は優しい顔をしている。
「だから、確認だ。お前の口で言えば、強くなる」
強くなる。強くなると、逃げ道が塞がる。逃げ道が塞がると、治安は安心する。
「嘘だ」
レインは言った。声が震えた。震える声は弱い。弱い声は、相手に勝ちを渡す。
治安の男は、机の上に新しい紙を置いた。紙は白じゃない。薄い灰色の紙だ。最初から印刷が入っている。つまり「書くための紙」ではなく「署名させる紙」だ。
「じゃあ、ここだ。お前が門外へ出た理由。誰に頼まれた」
「誰にも」
「ミレイアだな」
突然、店の名前が出た。レインは反射的に顔を上げた。守るべき名前を出された時、人は反応する。その反応を、相手は欲しがる。
「違います」
「違うなら、違うと言えばいい。だが、その場合は店が巻き込まれる。協力的じゃないと、そうなる」
協力的。ここでもそれだ。
レインは喉の奥が乾くのを感じた。店が巻き込まれる。ミレイアが潰れる。潰れたら、戻る場所がなくなる。戻る場所がなくなったら、自分は本当に終わる。
「……店は関係ない」
「関係があるかどうかは、こちらが判断する」
昨日と同じ台詞。台詞が揃っている。揃っているのは、証言だけじゃない。運用も揃っている。
記録係が、淡々と続けた。
「目撃は揃っている。時刻も揃っている。動線も揃っている。これが“優秀な仕事”だ」
優秀な仕事。つまり、もう評価が終わっている。評価が終わっているなら、結論は出ている。結論が出ているなら、レインは手続きの一部だ。
「……俺は、何をすれば帰れる」
レインが低い声で言うと、治安の男は少しだけ身を乗り出した。
「紙に署名しろ。内容は読む。読んだという形で立会も付ける。そうすれば早い」
早い。早いは救いに見える。救いに見える早さほど、落とし穴だ。
レインは紙を見た。文面はまだ空欄が多い。空欄が多いのに、骨格はできている。骨格は変わらない。どこに署名しても、骨格の中に入る。
「俺が運んだって……書くんですか」
「運んだ、ではなく、運ばされた。知らなかった。気づいた時には遅かった。そう書く」
「気づいた時には遅かったって……」
「それが一番いい。誰も怒らない」
誰も怒らない。つまり、怒る人がいる。怒る人は上だ。上を怒らせると、死ぬ。
治安の男は言葉を続けた。
「お前一人の問題じゃない。秩序の問題だ。部隊の面子の問題だ。神殿の問題だ。お前が空気を読めば、全部が丸く収まる」
丸く収まる。丸く収まる時、角になるのはいつも弱い者だ。
レインは唇を噛んだ。噛んでも痛みが薄い。痛みが薄いのは、もう感覚が麻痺している証拠だ。
「……証言が揃ってるなら、俺が何言っても同じだろ」
レインが言うと、治安の男は頷いた。
「同じだ。だから、楽な方を選べ」
楽な方。楽な方は、後で苦しい方になる。
記録係がペンを置いた。置いた瞬間が、決断の期限みたいに見える。期限は言葉にしないほうが効く。
「最後に確認だ」
治安の男が穏やかに言った。
「お前は昨夜、木箱を運んだ。中身は知らない。頼まれた。拒めなかった。分かったな」
レインは首を振ろうとして、止まった。首を振ると、店が巻き込まれる。首を縦に振ると、自分が沈む。沈めば、店は残るかもしれない。残った店は、自分がいない店になる。
それでも、店が潰れるよりは、という考えが頭を掠めた。掠めただけで、罪悪感が来た。罪悪感は、折れるための油だ。
治安の男が、紙を少しだけ手前へ滑らせた。
「署名はここだ。筆圧は強く。読んだ証になる」
読んだ証。読んでないのに読んだことにされる。読んだことにされると、後で戻れない。
レインはペンを握った。握る手が震える。震える手にペンを握らせるのは、暴力だ。でも暴力に見えない。見えない暴力が一番強い。
その時、扉の外で短い会話が聞こえた。
「……上からだ。今夜中に整えろ」
「神殿側も同じだ。付記が来る」
付記。神殿。ここにも繋がっている。繋がっているなら、もう個人の勝負じゃない。
治安の男が席を立ち、扉の方へ顔を向けた。ほんの一瞬の隙。隙に救いが入ることがある。だが救いは入らない。入るのは次の圧だ。
男は戻ってきて、淡々と言った。
「今夜、文面を整える。お前は署名だけだ。ここまででいい」
レインはペンを置いた。置けたことに、少しだけ安堵してしまった。安堵は負けだ。負けは、明日の自分を殺す。
記録係が紙を回収し、別の紙束を出した。紙束の一番上に、すでに文章が印刷されている。空欄は署名欄だけ。まるで、最初からここに来る前提だったみたいだ。
「明日の朝、これに署名してもらう。今日は休め」
休め。休ませるのは優しさじゃない。休ませると、人は折れやすくなる。孤独な夜は、人を弱くする。
治安の男は最後に言った。
「考えすぎるな。ここは、正しい場所だ。正しい人間が、正しい仕事をしている」
正しい。正しい、が一番怖い。正しさは人を救うふりをして、人を潰す。
レインは何も言えなかった。言えないまま、椅子の背に体を預けた。預けた瞬間、肩の力が抜ける。抜けると、折れる。
扉が閉まる音がした。鍵の音がした。鍵は外からかける音だった。
机の上に、署名欄だけが空いた紙が残った。
整いすぎた供述は、誰もが喜ぶ。誰もが喜ぶから、止まらない。
止まらないものの前で、レインはただ息をした。息をするだけで精一杯だった。




