第二話 任意という言葉の裏
任意だ、と言われた瞬間に、レインの肩が少しだけ上がった。
逃げていい、という意味じゃない。逃げられない、の反対語を口にして、逃げられない状況を作るための言葉だ。本人はまだそこまで分からない。ただ、分かりたくない顔をしている。
店先には治安の札を下げた男が二人いた。徴税監察の連中とは装いが違う。派手ではないが、腰の位置が違う。手が常に空いている。いつでも人を掴める手だ。
「レインだな」
先頭の男が、名簿を確認するみたいに言った。確認というより、もう決めている。
レインが小さく頷く。
「任意で話を聞く。すぐ終わる。大げさにするな」
大げさにするな、は命令だ。騒ぐな、は命令だ。命令は拒否できる。でも命令を拒否した人間に、次に来る言葉が分かっている。
治安。
ミレイアは一歩前に出て、声をできるだけ柔らかくした。柔らかくしないと、硬い言葉が返ってくる。
「任意なら、こちらが同行します。もしくは、呼び出しの理由を文書で。控えも」
男は笑わなかった。笑う余裕がある相手はまだ人間だ。笑わない相手は仕事だ。
「同行は不要。理由は口頭で足りる。任意だ」
「任意なら、拒否も――」
ミレイアが言いかけたところで、男の隣が一歩だけ前に出た。たった半歩。けれど、その半歩が「今からは違う」という合図になる。
「拒否はできる。だが、その場合は記録が残る」
「記録?」
「協力要請に応じなかった、という記録だ。店のほうにも影響する」
言い方が静かすぎて、逆に刺さる。脅しは大声より小声が効く。小声は、周囲に聞かれない。聞かれない脅しは、言った側が傷つかない。
ミレイアは唇を噛んだ。店、という単語が出た時点で、勝負は半分終わっている。レインだけの話じゃない。自分の生活を人質に取られている。
「……分かりました。ならせめて、どこへ連れていくのかだけ」
「治安維持局の出張所だ。表通りを二本入ったところ」
出張所。聞こえは軽い。軽い言葉ほど、裏に重いものがある。
レインがミレイアを見た。助けて、とは言わない。言えない。言ったら自分が子どもに戻ってしまうから。守られない人間は、守られないふりが上手い。
ミレイアは、レインの襟元を直した。意味のない仕草に見える。でも、意味がある。触れておかないと、次に触れられる保証がない。
「寒いから、ちゃんと首元閉めて。……何を聞かれたか、帰ったら言って」
レインが頷いた。頷きが小さい。小さすぎて怖い。
治安の男が、腕を取らずに歩かせた。あくまで任意の形を守る。形を守るときほど、中身が酷い。
「行こうか」
二人がレインを挟む。挟むだけで逃げ道は消える。腕を掴まないのは、掴まなくても逃げられない自信があるからだ。
ミレイアは後を追いかけようとして、一歩で止められた。徴税監察の先頭が、店の控えを指で軽く叩く。
「店主。倉庫の件が先だ。今から確認に入る」
今から。倉庫。預かり品。全部、同じ線で繋がっている。レインを連れていくのも、倉庫を開けるのも、同じ手だ。
「待ってください。甥は――」
「任意だ。戻る。騒ぐな」
騒ぐな、が二度目に出た。二度目は本音だ。
ミレイアは喉の奥に熱いものが上がってくるのを感じた。叫びたい。でも叫べない。叫ぶと治安になる。治安になると店が死ぬ。店が死ぬとレインが戻る場所が消える。
彼女は深呼吸して、声を落とした。
「……倉庫へ案内します。ただし、こちらの立会いと、持ち出しの控えは必ず」
「控えは出す」
先頭は言った。言ったが、さっきも同じだった。出すと言いながら、出せない形で進める。それが運用だ。
倉庫へ向かう道は短い。短い道ほど、悪いことが早く起こる。
倉庫番の顔がまた青くなっていた。さっき持ち出された、という報告のまま動けずにいたのだろう。動けないのは悪いことじゃない。動くと責任になる。責任を負わせるために、人は現場を動かす。
治安ではなく、徴税監察の男が鍵を求めた。治安は裏に立つ。表で手を汚すのは税だ。税は日常だから。
「開けろ」
倉庫番が震える手で鍵を差し出す。ミレイアは倉庫の扉に手を当てた。冷たい木に、冷たい金具。ここはもともと冷たい場所だ。冷たい場所ほど、何が起きても「元からこうだった」と言える。
扉が開く。
棚は、少しだけ軽くなっていた。少し、が一番怖い。全部消えるなら事件になる。少し消えると日常になる。
「これが徴発対象だな」
男が指したのは、ミレイアの在庫ではない。預かり品。荷札は剥がされている。紐の結び方だけが残っている。結び方は癖だ。癖は人を指す。でも癖は証拠になりにくい。
「違います。それは――」
「ここにあるなら、ここが保管者だ」
「保管しているだけです。契約の控えもあります」
「控え?」
男が眉をわずかに動かす。控えを嫌がる顔だ。
ミレイアは控えを取り出し、差し出した。差し出しながら、心の中で何度も繰り返す。原本は別。原本は別。原本は別。ここで原本を出したら終わる。
部下が控えを受け取り、ざっと目を走らせた。走らせただけで、分かったふりをする。そのふりが、制度の中では正しい。
「委託者名は?」
「それは、必要が――」
言いかけて、ミレイアは止めた。必要がない、とは言えない。必要があると言われたら、もう抵抗は治安になる。
「……書面の通りです。相手方は王都で商いをしています。正式な登録も」
「登録があるなら、追えるな」
追える。追える、が出た。ここからは物ではなく人を動かせる。
ミレイアは声を硬くしないようにしながら、条件を置いた。
「持ち出すなら、数量、品目、受領の署名。封印番号も。控えをこちらに」
「封印は不要だ」
部下が言った。言い切った。不要、は便利だ。不要と言えば、残さないで済む。
ミレイアは一瞬で決めた。ここで食い下がると治安になる。でも引くと消える。消えると、レインの罪が作れる。
「不要ではありません。預かり品です。紛争になった場合、こちらの責任になります。責任を負うなら、記録が必要です」
責任、という言葉を出したのは正解だった。責任は、役人の嫌いな言葉だ。責任は残る。責任は上に行く。上は嫌がる。
先頭の男が、少しだけ面倒そうに息を吐いた。
「……控えは出す。ただし封印は、こちらで付す」
付す。封印を握られた。封印を握られると、封印は証拠ではなく道具になる。
それでも控えが出るなら、まだいい。ないよりはいい。ミレイアは頷き、目を離さずに見ていた。
男たちは預かり品を荷車に載せた。載せながら、荷札を付け直す。付け直す荷札は、文字が丁寧だった。丁寧な文字ほど、後で嘘になる。嘘は雑に書かない。嘘は丁寧に書く。
「行き先は?」
ミレイアが問うと、先頭は平然と言った。
「出張所だ。まず確認する。必要なら、正式に差押えに移る」
差押え。徴発。課税。治安。全部、少しずつ名前を変えながら、同じ方向へ進んでいる。相手は名前の違いで責任を散らし、こちらは名前の違いで足が止まる。
控えが渡された。薄い紙。封印は赤い蝋ではなく、印の押された帯紙だった。帯紙の印は、見慣れない。徴税監察の印ではない。治安の印でもない。別の印だ。
「この印は?」
ミレイアが問うと、部下が一瞬だけ口を固くした。
「……内務の補助印だ。気にするな」
気にするな、も命令だ。気にしないと、死ぬ。
荷車が倉庫から出ていく。ミレイアはそれを見送るしかなかった。追えば治安。追わなければ消える。消えるから追いたい。追うと死ぬ。短い距離で、選択肢が全部潰れていく。
倉庫番が小声で言った。
「ミレイアさん……あの人たち、最初からどれを持っていくか決めてましたよ」
決めていた。そうだ。決めているから手が早い。早いから止められない。
ミレイアは唇を薄く結び、控えを胸元に押し込んだ。紙は軽い。軽いから奪える。奪えるから守る。
店へ戻ると、扉の前に小さな紙が貼られていた。
「確認のため、本日営業を控えること。協力要請」
協力要請。命令を丁寧に包む紙だ。
ミレイアは紙を剥がし、握りつぶしそうになって、やめた。握りつぶすと、こちらが乱れて見える。乱れて見えると、相手の言い分が正しく見える。正しく見えると、治安が勝つ。
そのまま、紙を折り、懐へ入れた。握りつぶすのは後でいい。証拠になる形で残す。
夕方近く、日が落ち始めても、レインは戻らなかった。
戻らない任意は、任意じゃない。
ミレイアは出張所へ向かおうとした。だが店先に、さっきの治安の男が立っていた。ずっと立っていたのだろう。いつ立ったのか分からない。分からないように立つのが仕事だ。
「店主」
男は穏やかに言った。穏やかな声で、動きを縛る。
「出張所へは行かないほうがいい。余計なことをすると、事が大きくなる」
「任意でしょう。戻るんでしょう」
「戻る。だが、いまは書類が整っていない。整えば戻る」
整えば戻る。整うまで戻らない。言い換えただけだ。
ミレイアは、震える指先を握りしめた。
「どんな話を聞いているんですか。何の容疑ですか」
男は首を傾げるふりをした。ふりだけだ。
「容疑なんて大げさだ。確認だよ。昨夜の門の出入りと、荷の件。少し食い違いがあるだけだ」
食い違い。食い違いは、罪に育つ。
「レインは、昨夜、店の用事で門外へ出ました。通行札も――」
「通行札は確認した」
男の言葉が、軽かった。確認した、と言って、こちらの言葉を奪う。奪われると、説明の余地が消える。
「……なら、なぜ戻らない」
男は少しだけ間を置いた。間は脅しの前の呼吸だ。
「協力的じゃないからだよ」
ミレイアは息を呑んだ。協力的じゃない、が罪になる世界だ。
「それと、もう一つ」
男は声をさらに落とした。
「預かり品の件。あれは、ややこしい。ややこしいものは、ややこしい人に繋がる」
繋がる。繋げる。結ぶ。罪を作る言葉だ。
「……レインは関係ありません」
「関係があるかどうかは、こちらが決める」
その一言で、任意は死んだ。
ミレイアは視線を落とし、胸の内側の紙の感触を確かめた。控え。協力要請の紙。帯紙の印。全部薄い。薄いからこそ、今は頼るしかない。
「戻るんですよね」
最後の確認みたいに言うと、男は頷いた。
「戻る。整えば」
整う。整う、が嫌いだ。整うとは、結論に合わせて形を合わせることだ。形が整うと、中身が死ぬ。
ミレイアはそのまま店へ戻った。戻るしかない。戻って、紙を揃えて、次に備える。助けを求める先を探す。言葉ではなく、順序を作れる人間を。
夜が深くなった頃、扉が叩かれた。
短く二回。急いでいる合図。
ミレイアが開けると、倉庫番が立っていた。息が切れている。
「ミレイアさん……出張所の裏で、聞いたんです。噂ですけど」
「噂でもいい、言って」
倉庫番は声を絞った。
「“特別措置”って……言ってました。明日、正式に切り替えるって。そうなると……任意じゃなくなるって」
明日。切り替える。正式に。
任意が終わる日程が決まっている。それは、最初から任意じゃない証拠だ。
ミレイアはしばらく声が出なかった。頭の中で、さっきの帯紙の印が浮かぶ。徴税でも治安でもない印。内務の補助印。気にするなと言われた印。
気にしないと死ぬ印。
「……ありがとう。もう帰って。巻き込まれる」
倉庫番は頷いて走り去った。走り去る背中を見ながら、ミレイアは自分の手を見た。紙を持つ手。商いの手。守る手。
この手で、どこまで守れる。
夜の店は静かだった。静かすぎて、レインの足音がまだ残っている気がする。いつもなら裏から聞こえるはずの、皿を片づける音もない。息をする音すら邪魔に思える。
ミレイアは机の上に紙を並べた。徴発の控え。追加課税の通知。協力要請。倉庫の持ち出し控え。帯紙の印。
薄い紙が、生活の重さに勝てるわけがない。勝てない。でも、薄い紙しか武器がないなら、薄い紙を揃えるしかない。
彼女は灯りを少しだけ強くした。強くすると、紙の陰影が見える。印の押し方、筆圧、文字の癖。小さな違いは、後で大きな違いになる。
その時、外でまた足音が止まった。
今度は、揃っていない。ひとり。急いでいない。でも迷いがある。誰かが扉の前で息を整えている。
扉が小さく叩かれた。さっきの二回とは違う。慎重な一回。
ミレイアは息を吸い、扉を開けた。
そこにいたのは、見慣れない役人だった。治安でも徴税でもない。装いが地味で、札も小さい。けれど、その目がやけに冷静だった。仕事の冷静さではなく、人の冷静さ。
「ミレイア商店の店主だな」
「そうです」
男は低い声で言った。
「余計なことは言えないが……甥の件で、あなたは明日の朝までに“出せる紙”を全部揃えたほうがいい」
ミレイアの背中が冷えた。忠告が来る時点で、事はもう表の順序から外れている。
「あなたは、誰ですか」
男は一瞬だけ口を閉じ、そして短く答えた。
「ただの事務だ。だが、明日からは“任意”じゃなくなる」
それだけ言い残し、男は夜の通りへ溶けるように去っていった。
ミレイアは扉を閉め、鍵を二度確かめた。確かめても意味は薄い。鍵は扉を守るが、制度は扉の外から入ってくる。
机の上の紙が、灯りの下で静かに白く光っている。
明日までに揃えろ、と言われた紙。
揃えても、間に合うとは限らない紙。
それでも、揃えないと、最初から負ける。
ミレイアは新しい紙を一枚引き出しから出し、震えない字で書き始めた。
品目。数量。印。日時。立会。控えの有無。帯紙の印。出張所。担当者名。
書けることから書く。書けることしかないから書く。
外の夜は静かだった。静かなまま、明日の朝へ繋がっていく。
任意という言葉が、消えていく朝へ。




