第一話 同時に来るもの
朝の市場は、いつも通りの顔をしていた。パンの焼ける匂い、干し果物の甘さ、荷車の軋む音。冬の乾いた空気のせいで、どれも少しだけ鋭い。
ミレイアは店の扉を開けながら、その「いつも通り」に小さく感謝していた。感謝するのは、守るものがある人間の癖だ。守るものがあると、世界が急に怖くなる。怖いから、いつも通りがありがたい。
「今日も、何事もなく……」
言い切る前に、外の気配が変わった。
足音が揃っている。ひとりふたりの買い物客の足取りじゃない。四人、いや五人。革靴。金具の擦れる音。杖はない。職務の人間だ。
扉の隙間から見えたのは、胸元に札を下げた男たちだった。紋章は控えめで、色も地味。派手じゃない分、厄介だ。派手な権威は怒りを買うが、地味な権威は空気に溶けて、抗いにくい。
先頭の男が名乗った。
「徴税監察班だ。ミレイア商店で間違いないな」
間違いない、と答えるしかない問いは、最初から順序が決まっている。ミレイアは頷いた。
「はい。こちらが店主です」
「臨時徴発の件で来た。加えて、追加課税の通知がある」
その二つが同じ息で出てくるのが、まず異常だった。徴発は徴発、税は税。別のはずだ。別のはずのものが一緒に来るとき、だいたい理由はひとつしかない。
逃げ道を塞ぐ。
男は紙束を取り出した。薄い紙。封印は弱い。文字は整いすぎていて、読む前から結論が見える。こういう文書は、反論の余白がない。
「読み上げる。軍需物資の補充のため、乾燥肉、麻布、革紐、鉄釘――当該品を本日中に徴発する。数量はここにある。補償は後日、査定の上で支払う」
「本日中……?」
思わず声が漏れた。査定、後日。そう言った瞬間に、今の生活は置き去りになる。店は今日も回る。仕入れも、約束も、信用も。全部「今日」にぶら下がっている。
男は淡々と続けた。
「加えて、追加課税。理由は――」
紙をめくる音が小さかった。小さい音ほど、怖い。大きい音は身構えられる。小さい音は、気づいたときには刺さっている。
「輸送路の維持費負担。王都外縁の治安維持費。徴発に伴う事務費。以上」
ミレイアの頭の中で、算盤が勝手に弾けた。数字が並ぶ。並ぶだけで、息が詰まる。
「そんな……うちは滞納も――」
「滞納の話ではない。臨時だ。臨時措置には従ってもらう」
臨時。便利な言葉だった。臨時と言われた瞬間、普通の規則が薄くなる。薄くなる規則の下では、声が空回りする。
ミレイアは唇を噛んだ。反論を言えば言うほど、相手は「抵抗」として扱える。抵抗は治安の言葉に繋がる。治安の言葉に繋がると、商いの話が、人の話になる。
彼女の店は、小さくない。大きくもない。だから狙いやすい。貴族の後ろ盾があるわけではないが、王都の流通の端にちゃんと食い込んでいる。小さすぎれば無視される。大きすぎれば揉める。ちょうどよく潰せるところが、一番危ない。
「徴発の品は、在庫から出します。ですが、補償の査定は……書面で条件を」
「条件?」
男が目だけを上げた。表情は変わらない。変わらないのに、空気が冷える。ミレイアは言葉を選んだ。
「査定の基準、支払いの期限、受領の証明。こちらの控えも」
控え、という言葉に、男の隣の部下が一瞬だけ眉を動かした。わずかな動きが、痛いほど目に入る。彼らは控えが嫌いだ。控えは残る。残るものは追える。
先頭の男が、声を荒げずに言った。
「控えは出る。だが、いまは徴発が先だ。査定は後だ。順序を間違えるな」
順序。相手の口から順序が出てくるのが、嫌だった。順序は本来、弱い側が呼吸するためのものなのに、強い側が使うと、鎖になる。
ミレイアは頷き、紙の受領欄に署名した。署名の瞬間、何かが自分の指から抜けていく感覚があった。自由とか、余裕とか、そういう曖昧なものが、紙の中へ吸われていく。
男たちは店の奥へ入り、在庫を確認し始めた。数を数える声は、事務的で、だから残酷だった。
「乾燥肉、二十。麻布、十五反。革紐、五束。鉄釘――」
ミレイアは頭の中で同時に別のものを数えていた。今週の納品先。支払い日。信用。断れない約束。断ると切られる取引。切られると倒れる生活。
「店主」
部下が呼ぶ。
「これは?」
棚の下から、布で包んだ荷が引きずり出された。ミレイアの胸が一瞬で冷えた。見覚えがある。自分の在庫ではない。
「それは、預かり品です」
言った瞬間、先頭の男の視線が刺さった。
「預かり?」
「はい。委託です。倉庫で保管している分もあります。こちらは、今日引き渡す予定の――」
言いかけて、止まった。引き渡す予定、という言葉は、相手にとって都合がいい。予定はまだ実現していない。実現していないなら、差し替えられる。差し替えられるなら、盗める。盗めるなら、罪が作れる。
男は淡々と聞いた。
「誰から預かった」
ミレイアは口を開きかけた。名前を言えば、その人に圧が飛ぶ。言わなければ、隠していると言われる。どちらでも嫌な方向に転ぶ。
「……取引先です。正式な契約があります。書面も」
「書面を出せ」
ミレイアは奥の引き出しを開け、契約の写しを取り出した。原本ではない。原本は別で保管している。こういう時代に、商人は学ぶ。原本を一箇所に置くと、消える。
部下が写しを受け取り、ざっと目を走らせる。読み方が雑だ。雑に読む人間は、結論だけ拾う。
先頭の男が言った。
「委託品も、徴発対象に含まれる可能性がある。軍需は優先だ」
「それは……困ります。あれは、私の品ではありません。補償を受ける権利も、私には」
「補償は査定で決まる」
同じ言葉が繰り返された。繰り返される言葉は、考えるな、という命令と同じだ。
ミレイアは心の中で、ひとつだけ決めた。ここで感情を出さない。出すと負ける。泣くと負ける。怒ると負ける。どれも相手の餌になる。
「……では、委託者に確認を取ります。徴発の対象とするなら、委託者名で補償の請求ができるように、受領の証明を――」
「店主」
男が、少しだけ声の温度を下げた。
「いま、この場で従うことだ。余計な動きは、治安の問題になる」
治安。出た。やっぱり出た。
ミレイアの背中に汗が滲んだ。冬の朝なのに、汗が冷たくなる。治安の問題は、商いの問題ではない。商いの問題なら、数字で殴られるだけだ。治安の問題になると、人が殴られる。
店の外で、通りすがりの客が足を止めた。人は見ている。見ている人は、買わなくなる。買わなくなると、店が死ぬ。死にかけの店は、さらに殴りやすくなる。
ミレイアは声を落とした。
「……わかりました。いまは従います。ただ、受領の控えだけは」
先頭の男は、ほんの少しだけ頷いた。許したのではない。許せる範囲に押し込めただけだ。
「控えは出す。だが、控えがあるからといって、好きに騒げると思うな」
騒ぐつもりなんてない。ただ生きたいだけだ。生きるために紙が必要なだけだ。
ミレイアが控えを受け取り、指先で紙の端を揃えていると、店の裏口が叩かれた。短く二回。急いでいる合図。
「ミレイア!」
声は若い男のものだった。甥のレイン。住み込みで手伝ってくれている。貴族ではない。身寄りは薄い。働き手で、家族で、守りたい人間。
「表に……徴税の人が……」
言いかけて、レインが中の空気を察したのか、息を呑んだ。男たちの視線が一斉に彼へ向く。その視線は、品物を見つけた視線と同じだった。
先頭の男が、まるで雑談のように言った。
「お前がレインか」
レインの顔色が変わる。ミレイアの胸が沈む。名前を呼ばれた時点で半分終わる。名を知られると、呼び出せる。呼び出せると、連れていける。
「……はい」
レインは正直に答えてしまった。正直は弱い。弱い者ほど正直に生きるしかない。正直は、本来尊い。でも制度の刃の前では、簡単に傷になる。
部下が紙を一枚取り出した。薄い紙。封印はない。だから、軽い命令が書ける。
「昨夜、門外へ出た記録がある。荷の搬入に関する事情を聞く。任意だ。すぐ終わる」
任意。すぐ終わる。そう言う時ほど、戻らない。
ミレイアが口を開くより早く、先頭の男が続けた。
「拒むなら、治安維持局にも話が回る」
拒めない。拒めないように言っている。任意という言葉は、体裁だった。
「待ってください」
ミレイアは、声を荒げないように、必死で音量を抑えた。
「任意なら、こちらの立会いを。あと、呼び出しの理由を文書で。控えも」
控え、と言った瞬間、部下がまた眉を動かした。嫌がっている。嫌がるのは、効く可能性があるからだ。
先頭の男は、少しだけ間を置いた。その間が、やけに長く感じた。長い沈黙は、相手の権力を見せつける。
「立会いは不要だ」
「なら、理由だけでも」
「不要だ。任意だと言っている」
任意なのに不要。矛盾が刺さる。刺さるが、ここで刺し返すと、治安が飛んでくる。
ミレイアは、紙を握った。握るだけで心が少し落ち着く。紙は弱い。でも、弱いからこそ手の中に残る。拳でも剣でもなく、紙だけが残るなら、それを握るしかない。
「レイン」
彼女は甥の名を呼び、目を合わせた。泣きそうになったが、泣かなかった。泣くと、相手が勝つ。
「戻ったら、まず、控えを渡して。何を聞かれたか、覚えてる範囲でいいから」
レインが小さく頷く。頷き方が幼い。若い。守られてこなかった人間の頷きだ。
男たちは、荷をまとめて運び出し始めた。店の中を通って、外へ。通るたびに空気が変わる。物が動くと、世界が動く。世界が動くと、人が転ぶ。
ミレイアは、店先に貼られた徴発の通知を見た。そこには、立派な言葉が並んでいた。国のため。秩序のため。安全のため。どれも、反対しづらい言葉だ。反対しづらい言葉ほど、人を潰す。
一時間ほどで、店の棚は薄くなった。薄くなると、店は貧しく見える。貧しく見えると、客は不安になる。不安になると、さらに来なくなる。静かな死の順序だ。
男たちは最後に、別の紙を差し出した。
「預かり品については、倉庫の保管状況も確認する。今日はここまでだ」
倉庫。その言葉に、ミレイアの胃がきゅっと縮んだ。
倉庫は、店の外側にある。外側にあるものほど、手が届かない。手が届かない場所ほど、物は消える。消えると、証明が難しくなる。難しくなると、負ける。
「確認なら、こちらも同行を」
「不要だ。こちらでやる」
不要。再び。
男たちは店を出ていった。足音が揃って、遠ざかる。遠ざかるほど、背中に冷えが残る。嵐が去った後の静けさに似ている。静けさは、安心ではない。次が来る前触れだ。
ミレイアは、しばらく動けなかった。動けない時間が、店の中で増えると、生活が壊れる。壊れるのは速い。守るのは遅い。
彼女は無理やり息を吸って、帳簿を開いた。数字を見れば落ち着くと思った。だが、数字は今日も容赦がなかった。徴発で減った在庫。追加課税の額。支払い日。
そこへ、裏口の方から、誰かが走ってくる音がした。店の近所の倉庫番だ。顔が青い。
「ミレイアさん……」
声が震えている。震える声は、悪い知らせの前触れだ。
「いま、倉庫に徴税の人が来て……“預かり品”を……持っていきました」
一瞬、言葉が理解できなかった。
「……預かり品を?」
「はい。あなたの名を出して。『徴発対象だ』って……封印も、何も……控えも……」
控えがない。封印がない。保全がない。
つまり、消せる。
ミレイアの喉の奥が、きゅっと狭くなった。息が入らない。寒いのに、汗が出る。身体が、危険を理解している。
「どれを持っていったの」
倉庫番は首を振った。振るだけで、涙が出そうな顔だ。
「分かりません。あっという間で……荷札も見せずに……」
あっという間。静かで、速い。軍より速い。しかも誰も騒がない。騒がないから、誰も止めない。
ミレイアは、机の上の控えの紙を見た。自分がさっき必死に守った紙。それは、いま起きたことの証明にはならない。証明にならない紙は、ただの紙だ。でも、ただの紙でも、ないよりはいい。ないと、最初から負ける。
彼女は紙を揃え、胸の内側にしまった。誰にも奪われない場所に入れる。奪われる前に動く。これが、守られない側の作法だ。
店の外はまだ市場の音がしている。パンの匂いもする。干し果物の甘さもある。世界は、いつも通りに続く。
だからこそ怖い。
いつも通りの顔で、人は潰される。
ミレイアは唇を薄く結び、倉庫の場所を頭の中でなぞった。そこへ行っても、もう遅いかもしれない。でも、遅いかもしれないから行く。行かないと、もっと遅い。
扉に手をかけた瞬間、背後から、レインの足音が聞こえた。戻ってきたのか、と思った。だが、その足音は店の外からではなく、店の中からだった。いつからいたのか分からないほど静かに、彼はそこにいた。
レインの顔は、紙みたいに白かった。
「……ミレイア」
声が小さい。小さすぎて、逆に重い。
「今、外に……治安の人がいる。俺を……連れていくって」
その言葉で、ミレイアの世界の端が、音もなく欠けた。
倉庫から預かり品が消える。甥が連れていかれる。
同時に来るのは、偶然じゃない。
これは、最初からそういう順序で作られている。
第四章に入りました。
ここからは、いよいよ
「裁かれる人」ではなく
「裁きに名前すら与えられない場所」が舞台になります。
徴発、追加課税、保全、指導、確認。
どれも正しい言葉で、どれも制度の中にある手続きです。
だからこそ、声を上げる前に生活が削れていく。
この章で描きたいのは、
派手な断罪でも、鮮やかな逆転でもありません。
「おかしい」と感じた時点で、もう半分は終わっている現実です。
誰かが悪者として倒れることは、あまりありません。
代わりに、動線が変わり、順序が歪み、
気づけば同じことが二度とできなくなる。
その地味な変化を、積み上げていきます。
第四章は、静かです。
だからこそ、目を離さないで読んでもらえたら嬉しいです。
次も、紙は一枚ずつ増えていきます。




