第十一話 信仰は否定しない、根拠にしない
神殿の紙は、軍の紙と匂いが違う。
インクが濃い。余白が少ない。言い切りが多い。だから読み手の頭に居座る。
ユリウスが机に置いた文書は、封蝋が二つ。神殿印と、文書局の印。どちらも「正しい顔」をしている。
リリアナは封を切らず、表題だけを見た。
“神託付記 軍法会議関係資料”
付記。便利な言葉だ。付け足しのように見せて、中心へ潜り込む。
宰相ヴィルヘルムが低い声で言う。
「やる気だな。押し切るつもりだ」
「押し切るなら、押し切れる形にする」
ユリウスの返事は短い。短い返事の時は、もう決めている。
リリアナはその横で、紙を一枚だけ引き寄せた。いつもの白い紙。神殿の紙より、ずっと軽い。
「殿下」
ユリウスが視線を向ける。視線は優しくはないが、逃げない。逃げないから、釘が刺さる。
リリアナは一息だけ置いて、短く言った。
「信仰は否定しません。裁きの根拠にしない。前回と同じ線です」
言葉は軽い。中身は重い。
神殿の面子を叩かない。でも、裁きの椅子には座らせない。
ユリウスは頷いた。
「同じ線で行く」
宰相が口を挟む。
「軍は“秩序”で神託を取り込みたがる。便利だからな」
「便利だからこそ、採用しないと明文化します」
リリアナはそう言って、机上の白紙に項目だけを書いた。余計な修飾はしない。修飾は反論の隙になる。
――証拠採用基準(軍法会議用/暫定)
一、神託・神殿付記は“意見”として受理し得るが、事実認定の根拠としない
二、事実認定は、記録・物証・保管ログ・出納記録に基づく
三、供述は補助資料とし、採否は採取条件(立会・封印・保管)を満たす場合に限る
四、神殿文書局が作成した書式支援文書は、作成者・作成日時・改訂履歴を添付し、原本所在を確認する
宰相が目を走らせ、低く息を吐いた。
「痛いところを全部踏んでいる」
「踏まないと、また滑ります」
リリアナは淡々と返した。滑るのは人だ。人は滑る。だから紙で止める。
ユリウスが紙を受け取り、署名の位置を確かめる。
「王太子付通達にする。軍法務へ。今日中に」
「紙の扱いも入れてください」
リリアナはもう一行だけ付け足す。
――神殿付記を添付する場合、封印のまま保管し、会議場での朗読・引用をしない(煽動防止)
ユリウスが薄く笑った。笑いは軽いが、理解は重い。
「分かった。読ませない。紙は読ませると勝つからな」
───
軍法務の会議室は、木の匂いがする。
神殿の香と違う。ここは祈りの場所ではなく、命令の場所だ。
准将は通達書を受け取った瞬間、顔を固くした。
言葉は丁寧だが、目が鋭い。鋭い目は、縦割りの目だ。
「殿下の通達は承りました。しかし、神殿は国の柱です。神託を“根拠にしない”と明文化するのは——」
「否定していない」
ユリウスが遮る。遮り方が上手い。否定ではなく、位置の変更。
「神託を否定していない。裁きの根拠にしないだけだ」
准将が言葉を選ぶ。
「軍は兵の心を保つ必要があります。神託は、兵にとって——」
「心の支えは奪わない」
ユリウスは淡々と言った。
「裁きの椅子から降ろすだけだ。支える場所と裁く場所を分ける。分けられないなら、軍の秩序は信仰に飲まれる」
“飲まれる”。軍はその言葉が嫌いだ。嫌いだから反射で反論したくなる。だが相手が王太子だと、反論が“秩序への反抗”になる。
准将の口が閉じる。
アーデルハイトが横から、記録係にだけ聞こえる声で言った。
「今のやり取りも記録に残せ。後で効く」
記録係が頷く。頷いた瞬間に、紙の味方が一人増える。
ユリウスが通達書の二枚目を机に置いた。
そこには短い命令があった。
――本件に関し、神殿付記の朗読・引用・採用理由の記載を禁ず
――違反があれば、会議資料の採否を留保し、会議の結論を保留とする
准将の喉が動いた。
「……保留は、軍の面子が」
「面子を守るために成立条件を守れ」
ユリウスの声が低くなる。
「成立しない裁きは、面子ではなく傷だ。傷は後で膿む」
准将は深く頭を下げた。
「承知しました。通達に従います」
従う。口では従う。
問題は、従うふりをした後に何が起きるかだ。
リリアナは准将の視線の端に、神殿の封蝋箱が置かれているのを見た。まだ開けていない。開けられないようにした。ここまでは勝ち筋。
でも、神殿は別の圧をかける。
───
その日の夕方、神殿からの使者が来た。
正確には「使者」ではない。神官ではなく、文書局の官だ。文書局の官は、祈らない。紙を運ぶ。
男は深く礼をし、柔らかな声で言う。
「王太子殿下。神殿は、殿下のご判断を尊重いたします」
尊重。
尊重という言葉が出た時は、別の刃が隠れている。
ユリウスは動じない。
「用件は」
「軍に付随する祈祷班の件です」
宰相が目を細めた。
祈祷班。戦地の前に清めをする。傷兵に祈る。死者を弔う。兵の心の柱だ。
文書局の官が続ける。
「神殿は、軍法会議が“神意を軽んじる”という誤解を生まぬよう、祈祷班の派遣を一時見直すことを検討しております」
見直す。検討。柔らかい言葉で、兵の心臓を握る。
リリアナはそこで、言葉を挟んだ。強い言葉ではない。順序の言葉。
「誤解です」
文書局の官が微笑む。
「誤解なら、誤解を解けばよろしい。神託を裁きの根拠として扱わぬ、という文言が——」
「信仰は否定しない。根拠にしない」
リリアナは同じ線を、同じ温度で繰り返した。
繰り返すのは、揺れないためだ。
「裁きは事実認定の技術です。信仰は心の支えです。役割が違います。役割を混ぜれば、どちらも壊れます」
文書局の官は、微笑みを崩さない。
「神殿は、壊す意図はございません。ただ、兵の間で不安が広がっております」
「不安は広げられる」
宰相が淡々と言った。
淡々とした声は、相手の笑みの裏を剥がす。
文書局の官の目が僅かに細くなる。
「宰相閣下のお言葉は重うございます。ただ、神殿は面子を守る必要もございます。神託が“読まれない紙”として封印されるのは——」
「封印は否定ではない」
ユリウスが言った。
「封印は保全だ。保全は秩序だ。秩序を守ることを、神殿は否定しないはずだ」
文書局の官は、一瞬だけ黙り、そして柔らかく頭を下げた。
「承知いたしました。神殿へ持ち帰ります」
持ち帰る。
その言葉は、次の圧が来る合図でもある。
文書局の官が去ったあと、宰相が低く言う。
「兵の心を盾にする。正面からは来ないな」
「正面から来ない方が痕跡が残ります」
リリアナは淡々と返した。
「派遣見直しの検討。誰が提案し、誰が承認し、いつ文書にしたか。文書局は紙で動きます。紙は追えます」
ユリウスが頷く。
「追う。だがその前に、被告を守る」
守る。
守ると言っても、抱え込む話ではない。折れない条件を積む話だ。
───
夜。医務官の追加記録が来た。
封印番号は一致。だが中身は一致しない。
リリアナは封を切った。
切る行為は痕跡になる。でも必要だ。必要な痕跡は、こちらの武器になる。
記録は短い。
――睡眠:断続的(合計二時間未満)
――食事:提供あり/摂取少量
――手の震え:あり
――脈:速い
――精神状態:会話成立するが、反応遅延あり
折れかけている。
「まだ生きている」だけの状態に近づいている。
リリアナは机の端で、紙を一枚だけ書いた。医務官宛。短く。
――睡眠確保。灯りを落とす。声をかけない。
――必要なら鎮静。投薬ログと立会の記録を残す。
――供述採取は停止。聴取も停止。
アーデルハイトが部屋に入ってきた。
夜戻ってくる足音は疲れている。疲れているのに、目が冴えている。冴えは危ない。眠れていない冴えは、焦りの冴えだ。
「神殿が動いた」
リリアナが頷く。
「祈祷班です」
アーデルハイトの口元が歪む。
「兵は揺れる。揺れた兵は、被告に当たる」
「当たらせない」
リリアナは淡々と言った。
「当たる前に、会議場から被告を遠ざける理由を作ります。医務官記録がある。これは“秩序のための保護”です」
アーデルハイトが頷きかけた、その時。
廊下が騒がしくなった。
伝令が息を切らして駆け込む。
「王太子殿下、宰相閣下。至急——軍の憲兵が、民間人を拘束しました」
ユリウスが立つ。動きが速い。速いのに乱れない。王太子の速度だ。
「誰だ」
伝令の声が震える。
「被告レオン・ハルツの……同郷の者です。門前で取り押さえられました。『共犯の可能性』と……」
宰相が低く息を吐いた。
来た。別の圧だ。被告が折れないなら、周辺を折る。人間はそこが一番弱い。
リリアナは一瞬だけ目を閉じて、順番を組み直した。
神殿は面子を守りたい。軍は秩序を守りたい。
守りたいものがある人間ほど、他人の弱点を握る。
ユリウスが低く言う。
「神殿の動きと連動している可能性がある。憲兵の拘束理由と手続を確認する」
「先に押さえるのは、拘束の紙です」
リリアナが言った。
「逮捕状の類。命令系統。立会。時間。場所。誰が指示したか。指示は必ず紙になります。紙にならない指示は、後で切り捨てられます」
アーデルハイトがすぐに頷く。
「行く。憲兵詰所へ」
ユリウスが宰相を見た。
「宰相、軍法務に通達だ。被告周辺への圧力を“捜査”として許さない。手続違反なら、会議は保留どころか停止にする」
宰相が静かに頷く。
「止める。壊さずに止める」
リリアナは机の上の白紙を一枚取り、短く書いた。
“関係者拘束に関する照会”
そして項目だけを並べる。
――拘束の根拠文書
――命令者
――執行者
――時刻
――場所
――立会
――被拘束者の身元確認
――押収物
――押収物の封印番号
紙一枚。
この紙が、誰かの生活を守るとは限らない。
でも、この紙が無いと、誰かの生活は簡単に壊れる。
伝令が言いかけた。
「拘束された者は……レオンの妹だと名乗っています。王都へ来た理由は——」
その先は聞かなくていい。聞けば物語になる。物語は感情を動かす。感情が動くと、判断が鈍る。
リリアナは立ち上がった。
「行きます」
ユリウスが短く言う。
「行こう」
部屋を出る瞬間、リリアナは医務官の記録を封筒に戻し、封印番号をもう一度控えた。
折れかけの被告。巻き込まれた家族。
どちらも、最後は紙で守るしかない。
廊下の空気は冷たい。
冷たい空気ほど、痕跡が残る。息が白くなるからだ。
白い息は、そこに人がいた証拠になる。
神殿が別の圧をかけるなら、こちらも別の角度で止める。
信仰は否定しない。根拠にしない。
その線を守るために、今度は“家族”という弱点を、手続きの鎧で包む。
扉の向こうで、憲兵の金具の音がした。
音は小さいのに、胃が重くなる音だ。
リリアナは足を止めない。
止まった瞬間に、誰かが折れる。




