第十話 折れない証拠は軍にもある
会議の延期が通っても、空気は変わらない。
軍は速さを失った分、別の方法で終わらせようとする。終わらせる道具は、いつも人だ。
医務官の記録は封印されたまま机の端に積まれていた。封印番号、出納の印、受領者の署名。どれも整っている。整っているのに、安心できない。整っているものほど“整えられる”。
リリアナは封印に触れず、番号だけを控えた。
触れないのは臆病だからではない。余計な“行為”を増やさないためだ。行為は痕跡になる。痕跡は武器にもなるが、敵にも渡る。
宰相ヴィルヘルムが紙束を机に置いた。
「四十八時間。軍が嫌がる時間だ。だから軍は、その四十八時間で“折る”」
「折らせません」
リリアナは軽く言った。軽いから強い。言葉が重いと、誓いになる。誓いは破れやすい。
「折れない材料を出します。人ではなく、物で」
王太子ユリウスが視線を向けた。
「何がある」
リリアナは、膝の上の紙を一枚差し出した。いつもの、紙一枚。項目だけが並ぶ。
「兵站台帳。封印印。出庫の立会記録。輸送隊の行軍記録。あと門の通行札。これで“物の流れ”を作ります」
宰相が低く頷く。
「物の流れが作れないなら、事件は成立しない」
「成立しません」
リリアナは淡々と言った。
「軍需品は、数と印と時間で動きます。動くなら必ず通る。通るなら必ず残る。残るものが残っていないなら、動いていない」
王太子が短く言った。
「取りに行く」
───
兵站は、軍の胃袋だ。
胃袋は目立たない。目立たないのに、止まると全員が困る。困るから、誰も正面から触りたがらない。
兵站庫の前で、リリアナは門番の兵へ、宰相府の通達書を見せた。
通達書は武器だが、刃物ではない。刃物に見せると反発が出る。だから、淡々と。
門番は一瞬だけ迷い、そして奥へ走った。迷うのは悪意ではない。慣れていないだけだ。慣れていない場所ほど、痕跡が残りやすい。
出てきたのは兵站係の下士官だった。腕まくりして、指先が黒い。黒い指先は現場の証だ。現場の証は、書式の整った嘘に弱い。弱いが、味方にもなる。
「原本の外形確認と、出納の照合です」
アーデルハイトが用件を言う。短い。短いと通る。
下士官は顔をしかめた。
「原本は……写しで」
「写しはある。だから原本を見たい」
リリアナは優しくもなく冷たくもなく言った。
「写しが正しいなら、原本を見るのが一番早いです。原本を見せれば終わります」
“終わる”。軍はその言葉が好きだ。好きだから、口を滑らせる。
下士官は口元を引きつらせた。
「……倉庫長に確認を」
倉庫長が来るまで、リリアナは倉庫の扉に貼られた封印札を見た。封印札の角が少しだけ浮いている。浮きは軽い。軽いものほど強い。軽いものは、見落とされるから。
倉庫長は、遅れてやってきた。遅れは計算だ。計算の遅れは“時間稼ぎ”の痕跡になる。
「宰相府の確認と伺いましたが、兵站は現場が忙しい。写しで足りませんか」
倉庫長の言葉は丁寧だ。丁寧な言葉は拒否を隠す。
リリアナは拒否を叩かない。叩くと壁になる。壁は厚い。
「写しで足りるなら、写しを作った手順を確認します」
倉庫長の眉が僅かに動く。
「手順?」
「封印番号。出庫の立会。受領者の署名。写し作成者の印。写しの作成日時。これが全部揃っていれば、写しでも足ります」
リリアナは淡々と並べた。
「揃っていないなら、原本が必要です。どちらにしても、今日は終わります」
倉庫長は“終わる”に反応した。軍は終わらせたい。終わらせたいから、余計な手間を嫌う。
「……分かりました。外形だけです。中身は――」
「外形で十分です」
リリアナは頷いた。外形で十分な戦いは、勝ちやすい。
扉が開く。油と鉄の匂いが出る。
箱が並んでいる。封印印がある。印は綺麗だ。綺麗すぎる印は、押した人が急いでいない印だ。急いでいない印は、現場では珍しい。
リリアナは封印印を一つずつ見ていく。印影の角度。押し込みの深さ。乾き方。
印は同じでも、押す手は違う。違うと、癖が出る。
アーデルハイトが、低い声で言った。
「……同じ手だ」
リリアナは頷いた。封印印が、複数の箱で“同じ癖”を持っている。
本来は、複数の係が押す。押す手が変わる。変われば癖が散る。散らないなら、まとめて押した。まとめて押したなら、現場の時間ではない。
「出庫の立会記録を」
リリアナが言うと、倉庫長は渋々、帳面を出した。帳面は厚い。厚い帳面は嘘に向かない。だから敵は、厚い帳面を嫌う。
ページを開く。出庫の欄に、同じ名前が続く。立会者の欄も同じ。受領者も同じ。
同じが続くと、現場の匂いが消える。消えた現場は、作られた現場だ。
リリアナはページの端を指で押さえた。
「この日、輸送隊は動いていません」
倉庫長が反射で言う。
「動いています。ここに記録が――」
「輸送隊の行軍記録をください」
リリアナは淡々と返す。
記録で殴ると、記録で返すしかなくなる。返せないと、終わる。
倉庫長は一瞬だけ固まり、そして言った。
「行軍記録は輸送隊の管轄で」
「なら、輸送隊に行きます」
王太子ユリウスが低く言った。
その声で、倉庫長の言い訳は封じられる。王太子の一言は、管轄を薄くする。
───
輸送隊の詰所は、兵站より空気が乾いていた。
乾いた空気は、嘘を早く乾かす。乾いた嘘は割れやすい。
隊長は若い。若いのに疲れている。疲れた若さは、誰かの決定に従っているだけの若さだ。
「行軍記録の提示を」
アーデルハイトが言うと、隊長は喉を鳴らした。
「それは……軍法務の案件です。ここに来られても」
「ここに来たのは、あなたの記録が必要だからです」
リリアナが淡々と言った。
「あなたの隊が動いたなら、記録がある。動いていないなら、動いたことにされた理由がある」
隊長は顔色を変えた。“動いたことにされた”。
現場は、その言い方が一番怖い。自分が嘘の材料にされていると気づくから。
隊長は、迷ってから、帳面を出した。
「……これが行軍記録です。日付、目的地、人数、馬車の数、通行札番号」
帳面を開く。
問題は、ここからだ。
リリアナは最初から矛盾を探さない。矛盾は、探し方を間違えると“こじつけ”に見える。
代わりに、成立条件だけを見る。
「通行札番号が、連番ではない」
彼女が言うと、隊長が慌てて言った。
「通行札は……発行が不規則で」
「不規則でも、配布には規則があります」
リリアナは淡々と返した。
「札は“門”で配られます。門で配られるなら、門の発行台帳に残ります。残っていないなら、札はこの世にありません」
隊長が黙った。
黙ると、書くしかない。書くと、痕跡になる。
リリアナは次の項目へ移る。
「馬車の数が多い。なのに、補給の記録が薄い」
隊長が言い訳しようとした瞬間、ユリウスが短く言った。
「薄いなら、薄い理由を出せ。理由がなければ、虚構だ」
隊長の肩が落ちた。若い肩の落ち方は、現実だ。
「……その日、隊は動いていません」
言った瞬間、隊長は自分で自分を殴ったような顔になった。言えば終わる。でも言わないと、もっと悪い形で終わる。現場は、それを知っている。
リリアナは責めない。責めると、口が閉じる。口が閉じると、紙が取れない。
「誰の指示でした」
隊長は震える息で答えた。
「軍法務から……“書式支援”が入ってきて、整えた写しを置いていきました。署名と印だけ、こちらで合わせろと」
整えた写し。やはりそこだ。
現場は、整えられる。
リリアナはゆっくり頷いた。
「証言は今ので十分です」
それ以上は要らない。証言は最後に添えるだけ。主役は、外部記録だ。
彼女は隊長の帳面から、通行札番号を控えた。
控える行為が、次の扉を開ける。
───
門の発行台帳は、兵站より硬い。門は秩序の入口で、秩序の入口には、必ず番号がある。
門番は王太子の徽章を見て即座に頭を下げた。軍は王太子に逆らえない。逆らえないから、逆らわない形で抵抗する。
「発行台帳を」
リリアナが言うと、門番は即答した。
「あります。ただし閲覧は……」
「閲覧でいいです。写しは要りません」
リリアナが軽く言うと、門番は僅かに戸惑った。写しを取られるのが怖いと思っていたのだろう。怖いものは、だいたい弱点だ。
台帳を開く。通行札番号。発行日時。発行先部隊。受領者。
淡々と並ぶ数字は、感情を持たない。感情を持たないものは強い。
リリアナは控えた番号を探し、指を止めた。
「……ありません」
門番が息を呑む。
「あり得ません。札は必ず――」
「必ず残ります」
リリアナは淡々と言った。
「残っていないなら、札は発行されていない。発行されていない札が行軍記録に載っているなら、行軍記録は虚構です」
虚構。
軍は虚構を嫌う。嫌うのに、虚構で人を潰す。矛盾が胸に刺さる。
アーデルハイトが言った。
「これで“物の流れ”が成立しない」
兵站の出庫は、行軍の札に繋がる。札がないなら、出庫は届け先を持たない。届け先がない出庫は、横流しではなく、作られた罪だ。
リリアナは最後に、兵站の封印印を思い出した。
同じ癖の印。まとめ押し。現場の時間ではない時間。
全部が一本の線になる。
「決定打は出ました」
彼女は王太子へ向けて言った。
「証言は最後に添えるだけ。主役は台帳です。台帳が“無い”と言った。それで終わります」
ユリウスは頷いた。
短く頷くのは、迷いがないからではない。迷う余地がないからだ。数字の前では、迷いは贅沢になる。
───
宰相府へ戻ると、宰相ヴィルヘルムはすぐに紙を揃えた。
兵站台帳の出庫欄。封印印の照合。出庫立会記録。輸送隊の行軍記録。門の発行台帳。
“物の流れ”が途中で断絶していることが、誰の目にも分かる形で並ぶ。
リリアナはその横に、隊長の短い証言を添えた。証言は飾りではない。接着剤だ。記録と記録の間に、現場の息を挟む。
ユリウスが線を引く。
「結審はできない。成立しない」
宰相が静かに言った。
「軍は反発するだろう。だが、反発しても形が残る。形が残れば、次の段で潰せる」
リリアナは頷いた。
勝つのではない。裁けない形を維持する。維持すれば、敵は動く。動けば、痕跡が増える。
その時、執務室の扉が叩かれた。
伝令の声が、少しだけ緊張している。緊張は良い知らせではない。
「王太子殿下、宰相閣下。神殿より文書が」
神殿の文書。
紙は紙でも、別の種類の紙だ。数字ではなく、信仰の紙。
ユリウスが受け取り、目を通す。読んでいる間、部屋の空気が一段重くなる。
読み終えた王太子が、淡々と言った。
「神殿が動いた。神託の付記を軍へ送るそうだ」
宰相の目が細くなる。
「押し切る気か」
リリアナは驚かない。驚かない代わりに、心の中で順番を決める。
信仰を否定しない。だが裁きの根拠にしない。
ここで線がぶれると、今までの積み上げが崩れる。
ユリウスが紙を机に置き、短く言った。
「次は、信仰が裁きを飲み込む」
リリアナは頷いた。
外部記録で矛盾は固定した。固定したからこそ、相手は別の軸で押してくる。
紙と紙の戦いは、まだ終わらない。




