第九話 裁けない形へ引きずる
軍法会議の朝は、音が少ない。
兵舎の起床ラッパはいつも通り鳴ったはずなのに、耳に残らない。人の声も足音も、どこか抑えられている。抑えられているのに、動きは速い。速いのに、雑ではない。雑にならない速度は、最初から終わりが決まっている時の速度だ。
会議場の前の廊下に、木箱が二つ積まれていた。封蝋が光る。封印があるから安全、という顔をしている。封印は便利だ。中身が正しいことを証明しないのに、正しそうに見える。
リリアナはその箱を見て、目を逸らさずに歩いた。逸らすと、気づいていないふりになる。気づいていないふりは、相手に時間を渡す。
横に並ぶアーデルハイトの歩幅は、いつもより半歩だけ短い。苛立ちでも焦りでもなく、壁の厚みを測っている歩幅だった。
「即日結審に変えた理由は、これで説明がつく」
彼が小声で言う。
「説明がつく?」
「議論の余地がある証拠を積み増すと、速度が落ちる。だから速度を維持するために、証拠を“整った写し”で固定する。固定したら、あとは結論まで走れる」
走れる。走れるが、走った先が正しいかどうかは別だ。軍は別を気にしない。気にするのは、止まることだ。
廊下の突き当たりで、軍法務の准将が待っていた。礼は完璧で、視線は冷たい。礼が完璧なほど、拒否が上手い。
「王太子殿下は?」
准将が探るように言う。
リリアナは答えない。答えるのは政治になる。政治になると、軍は被害者の顔を作れる。
代わりに、宰相ヴィルヘルムが淡々と告げた。
「殿下は必要な時に出る。今日の会議は、軍の秩序に従って進めればいい」
准将の口元が僅かに上がった。勝ちではない。やりやすさだ。
「承知しました。では、予定通り――」
「予定は変わる」
宰相は遮らない。遮ると感情になる。だから、言葉の位置だけを変える。
「結審の予定は、いまここで“予定”に戻す」
准将の眉が動く。
「即日結審は、軍の迅速な裁きのために――」
「迅速であることと、根拠が足りていることは別です」
リリアナがそこで口を挟んだ。声は低く、短い。否定ではなく、切り分け。
准将は視線を向ける。
「王太子付法務参事殿。軍の裁きは速さが命です。遅れは秩序を損ねる」
「秩序を守るために、止める話です」
リリアナは淡々と返した。
准将の口元の笑みが消える。止める、という単語は嫌われる。嫌われるからこそ、言い方を間違えると壁になる。
リリアナは壁を立てない言い方だけを選ぶ。
「結論を止めません。結論が“裁き”として成立する条件を確認するだけです」
准将が冷たく言う。
「条件など、軍が決めます」
「決めていい。だからこそ、決めた責任を守ってください」
リリアナは一枚の紙を差し出した。紙は軽い。軽いものは通る。通ってしまうから怖い。
准将は受け取らない。受け取らないことで、外部を排除したい。しかし宰相が紙の角を机に置くように差し入れる。置かれた紙は、もう“存在”になる。
「何です」
准将が問うた。
「記録保全義務違反の疑義に関する申立書」
宰相が淡々と答える。
准将が鼻で笑う。
「軍に、そんな申立の枠は――」
「枠はある」
言ったのは、監査局の書記官だった。いつの間にか廊下に立っている。存在感が薄いのに、言葉が重い人間は、こういう場で強い。
准将が不快そうに目を細める。
「監査局が軍法会議に?」
「会議に来たのではありません。保管に来ました」
書記官は淡々と続けた。
「会議資料の原本保全、鍵の出納、封印番号、出庫記録。そこに疑義がある。疑義がある状態で結審すれば、会議の結論は“会議自身の秩序”を傷つけます。だから会議のために確認します」
“会議のため”。それは軍に刺さる。軍は自分のためなら動く。他人のためには動かない。
准将は一瞬だけ言葉を失い、それから硬い声で言った。
「疑義があると言っても、証拠は揃っている」
「揃っているのが問題です」
リリアナは軽く言った。軽く言ったのに、准将の目が止まる。
「揃っているのは優秀だ。軍では、揃っている=真実に近い」
「揃っている=同じ、になった時に死にます」
リリアナは表情を変えずに続けた。
「現場の写しは揃いません。揃うとしたら、揃えた人がいる。揃えた人がいるなら、その人の机がどこかにある。机を押さえるのは軍ではなく、保管ログです」
准将の視線が宰相へ移る。宰相は動じない。
「この話を会議場の前でやる意味は?」
「会議場の中へ持ち込まないためです」
リリアナは答えた。
「裁きの場で争うと、軍の秩序が傷つきます。だから裁きの外で、裁きが成立する条件を整えます。これなら秩序は壊れません」
准将は口元を引き結び、そして吐き捨てるように言った。
「結局、止めたいだけでしょう」
リリアナは否定しない。否定すると攻撃になる。攻撃になると、軍は反撃の口実を得る。
「止めます。壊さずに止めます」
そう言って、彼女はもう一枚の紙を出した。
「再審手続の仮適用」
准将が眉を跳ね上げる。
「再審? 軍にそんな――」
「ある」
宰相が淡々と言った。
「名は違っても、手続きはある。結論を出した後に争われるより、結論を出す前に条件を整えた方が、軍の顔は守られる」
准将は唾を飲む。顔。軍は顔で動く。
リリアナは紙の内容を、必要な部分だけ短く口にした。
「保全義務違反の疑義がある場合、会議は結審を“延期”し、当該資料の原本所在確認と保管ログの照合を行う。照合の間、被告の供述は追加採取しない。採取する場合は、医務官立会いと記録係の指定を必須とする」
准将が噛みつく。
「被告の供述は軍の秩序の根幹だ。止めれば――」
「供述を止めるのではありません」
リリアナは淡々と切り分けた。
「供述を“証拠”として使う条件を整えるだけです。条件が整っていない供述は、軍の秩序を汚します。汚れた秩序は、後で必ず割れます」
准将が黙った。黙るのは反論がないからではない。反論すると、軍自身の不備を認める形になるからだ。
宰相が低い声で言う。
「今日ここで争いはしない。殿下が線を引く」
その言葉と同時に、廊下の奥が静かに割れた。人が左右へ寄る。寄る動きに無駄がない。無駄がないのは、慣れているからだ。慣れている動きは、権力の匂いがする。
王太子ユリウスが来た。
外套を纏っているだけなのに、空気の温度が一段変わる。軍は王太子を嫌うわけではない。ただ、王太子が来ると“軍だけの話”ができなくなる。
ユリウスは准将を見て、余計な前置きを捨てた。
「即日結審は取り下げろ」
准将が硬い声で返す。
「殿下、軍の迅速な裁きは――」
「迅速であることは否定しない」
ユリウスは淡々と言った。否定しないから、続く言葉が刺さる。
「迅速であることを根拠にしない。根拠は記録だ。記録に疑義がある」
准将が反射で言う。
「疑義に過ぎません。写しは揃って――」
「揃っているなら、原本を出せ」
ユリウスの声は低い。
「出せないなら、結審はできない。結審しても、それは軍の秩序ではなく、軍の都合だ」
都合。王太子の口から出たその単語で、准将の顔が一瞬だけ固くなる。軍は都合で動いていると言われるのが嫌いだ。嫌いだからこそ、顔を守るために動く。
ユリウスは続ける。
「延期の根拠は二つだ。記録保全義務違反の疑義。そして、王太子付による再審準備手続の仮適用。これは軍の裁きを否定しない。軍の裁きが裁きとして成立する条件を守る」
准将は口を閉じた。閉じるしかない。王太子が“否定しない”と言ったのが効いている。否定されないなら、軍は面子を保てる。面子が保てるなら、延期は“負け”ではなく“整備”になる。
「期間は」
准将がようやく言った。
ユリウスは即答する。
「四十八時間」
短い。短いから通る。長いと、軍が嫌がる。短いと、軍は呑む。呑んだ瞬間に、外部記録が揃う時間が生まれる。
「その間、被告は」
准将が言いかけた時、リリアナが先に落とした。
「折らせません」
言い切りではない。条件提示だ。
「医務官立会い。睡眠と食事の記録。面会記録。供述採取は停止。どうしても必要なら、監査局指定の記録係と封印つき写し。供述調書の原本は、封印番号と保管ログを付けたまま動かさない」
准将が唇を噛む。屈辱ではない。面倒だ。軍は面倒が嫌いだ。嫌いだから、“面倒を避けるための即日結審”に走る。今、その逃げ道が塞がれた。
ユリウスが静かに念を押す。
「これは軍の秩序を壊す命令ではない。軍の秩序を守る命令だ。異議があるなら、異議は文書で出せ。口では受けない」
文書。軍が嫌うもの。嫌うから、異議は出ない。
准将は深く頭を下げた。
「承知しました。即日結審は撤回し、結審は延期といたします」
延期。通った。
通った瞬間、廊下の空気が少しだけ緩む。緩むのは安心ではない。次の動きが決まったからだ。決まると、人は楽になる。楽になるのは危ない。隙が生まれる。
宰相が准将を見て淡々と告げる。
「会議は続けろ。続けるが、結審はしない。証拠の採否も保留だ。保留にして、保全の確認に回せ」
准将は硬く頷く。
「その通りに」
リリアナは息を吐かない。吐くと緩む。緩みは敵に拾われる。拾われないために、彼女は次の紙を準備する。
王太子が動いたことで、軍は延期を受け入れた。だが受け入れたからといって、軍が“折る”のをやめるわけではない。結審が延びた分、折る時間も伸びる。折る先は、被告だ。
───
会議場の中は、速さのままだった。
議場は整っている。椅子が整列し、机の位置が決まっている。決まっている場所は、結論が入りやすい。
被告席のレオン・ハルツは、まっすぐ座っていた。まっすぐ座っているのに、背骨が折れかけているのが分かる。折れかけた人間は、姿勢だけで自分を支える。姿勢が崩れた瞬間に崩れると知っているからだ。
彼の目は乾いている。乾いているのに、視線が泳ぐ。泳ぐのは嘘ではなく、睡眠の不足だ。眠れない夜を越えた目は、焦点を合わせる力を失う。
軍の検察官役の将校が、淡々と読み上げる。
「軍需品横流し。証言多数。供述の一致。写しの整合。以上により――」
“以上により”。結論へ行く言葉だ。だが結論は出ない。出ないはずなのに、言葉は結論へ走り続ける。止まったのは手続きであって、空気ではない。
ユリウスは傍聴席の端に立ち、視線だけで会議を見た。立つ位置が絶妙だった。中央に立てば政治になる。端に立てば圧だけが残る。
将校が区切りの言葉を置く。
「本件は本日中に結審の――」
准将が咳払い一つで止めた。止め方が上手い。命令ではなく、空気の修正に見せる。
「結審は延期とする。王太子殿下の命により、記録保全の確認を優先する」
会議場の空気が一瞬だけざわつく。ざわつきは不満ではなく、予定の書き換えだ。予定が書き換わると、現場は心の中で舌打ちする。舌打ちを飲み込みながら、秩序の顔を作る。
レオンの肩が僅かに落ちた。安心ではない。力が抜けた。抜けた力は、次に奪われやすい。
リリアナは、レオンを見ないようにして見た。見つめると救いに見える。救いに見えると、折れた時の落差が大きい。落差が大きいと、人は壊れる。
会議は“保全確認”という名目で続き、質問が変わった。罪を詰める質問ではない。だが、それは優しさではない。質問が変わっても、被告の時間は削られていく。削られるほど、判断力が落ちる。
休廷が宣言されたのは、昼を過ぎてからだった。
廊下へ出されたレオンの歩き方は、昨日より遅い。遅いのは疲労だ。疲労は折れやすさに直結する。
護送の憲兵が彼の横に付き、淡々と指示する。
「医務官の診察へ」
リリアナの指示が通っている。通っているが、通っているだけでは足りない。制度が通っても、身体は通らない。身体は限界を迎える。
医務室の前で、アーデルハイトが憲兵に短く言った。
「診察記録を残せ。食事と睡眠の記録も。封印して提出しろ」
憲兵は頷く。頷くが、目は冷たい。軍の目だ。軍の目は、人を“部品”に戻す。部品に戻された人間は壊れやすい。
レオンが診察室へ入る前、彼の視線がふとリリアナを捉えた。
何か言いたい目だった。助けてではない。許してでもない。
“もう持たないかもしれない”という目だ。
その目に対して、リリアナは言葉を選ばない。選ぶ時間を与えると、希望を与えてしまう。希望は裏切りになりやすい。
だから短く言った。
「息だけして」
レオンが瞬きをした。理解したかどうかは分からない。でも言葉は短いほど、折れかけの人間に届く。
「今、あなたが守るのは立派な弁明じゃない。生きていることと、記録です」
それだけ言って、彼女は視線を外した。外すのは冷たさではない。依存を作らないためだ。依存を作ると、折れた時に崩れる。
診察室の扉が閉まり、廊下に残ったのは、紙と空気と、時間だけだった。
───
宰相府へ戻る途中、ユリウスは馬車の中で何も言わなかった。沈黙は重いが、重い沈黙ほど役に立つこともある。考える時間になる。
リリアナが膝の上で、次の紙を整える音だけがする。鉛筆の先が紙を擦る小さな音。あれは、戦いの音だ。
宰相が低い声で言った。
「延期は通った。だが、敵は動く」
リリアナは頷く。
「敵は“結論を出す”のではなく、“結論が出る形”を維持します」
「維持するために何をする」
「原本を出さない」
リリアナの答えは短い。
「出さない理由を増やします。封印担当者が不在。規程が違う。別管理。緊急。秩序。そういう言葉で時間を潰す。その間に被告を折る」
ユリウスが視線を向けた。
「折らせない条件は出した」
「条件は紙に残ります。でも紙が人を守るには、監視が必要です」
リリアナは淡々と続けた。
「監視は軍の中では敵視されます。だから監視ではなく、保全確認の“通常作業”としてやります。医務官の記録も、食事も睡眠も、全部“保全確認の付随資料”にする。付随資料なら、軍は拒みにくい」
宰相が頷く。
「良い。軍の秩序を壊さずに縛れる」
ユリウスが言った。
「再審準備手続の仮適用を、今夜のうちに文書化する。軍に“次からも使える線”として渡す」
線が引かれる。線が引かれると、軍は次からも逃げ道が減る。逃げ道が減ると、敵は別の道を探す。別の道を探すから、動きが見える。見えれば潰せる。
リリアナは紙を一枚、宰相へ渡した。
「これを追加します。結審延期の根拠を、もう一つだけ」
宰相が目を走らせる。
「保管庫の外形確認拒否の記録。拒否が続く場合、会議は“証拠の採否”を留保し、採否留保のまま結審できない」
宰相が低く笑った。笑いというより、感心の息だ。
「裁けない形に引きずる、か」
「勝つのではなく、裁けない形へ」
リリアナは淡々と言った。
「軍は速い。速い軍に勝つのは難しい。でも速い軍が“裁きとして成立するための条件”は、速さと相性が悪い。そこへ連れていきます」
ユリウスが静かに頷いた。
「良い。秩序の言葉で秩序を縛る。これなら軍は反発しにくい」
───
夜、医務官からの記録が封印されて届いた。
封印は完璧だ。番号も揃っている。揃っているのは良い。だがリリアナは、揃っているものほど慎重に扱う。
封印を切らずに、番号だけを控え、提出ログに記した。その上で、医務官へ短い指示を書いた。
――睡眠時間の記録は“推定”ではなく“観測”で。
――食事摂取は“提供”ではなく“摂取”で。
――供述採取の有無は“聴取”の有無も含めて。
言い方が軽いのに、要求が厳しい。厳しいから、後で刺さる。
宰相が机の向こうで言った。
「被告はどうだ」
リリアナは封印の番号から目を離さずに答える。
「折れかけています。折れてはいません。でも“折れていない”のは、まだ言葉が残っているという意味ではありません。身体が残っている、という意味です」
宰相が静かに言う。
「身体が残っていれば、立て直せるか」
「立て直すのは、本人です」
リリアナは淡々と返した。
「こちらができるのは、潰す速度を落とすこと。潰す道具を減らすこと。潰した後に戻れない形にしないこと。それだけです」
宰相は頷いた。分かっている。救いの物語ではなく、手続きの物語だ。手続きは人を救わないことがある。でも潰さないことはできる。
ユリウスが入ってきた。外套の肩に夜気が残っている。彼は机に一枚の文書を置いた。
「軍へ通達する。仮適用の枠組みを正式化した」
リリアナは文書に目を走らせ、頷いた。
余計な言葉がない。軍が嫌がる表現を避け、軍の顔を潰さず、しかし逃げ道は削る。線が綺麗だ。
ユリウスが言った。
「明日、保管庫の外形確認を再要求する。拒否するなら、拒否の理由を文書で出させる」
「出させた瞬間に、逃げ道が減ります」
リリアナが答えると、ユリウスは短く頷いた。
「そして被告には、医務官の監督下で睡眠を取らせる。供述は採らない。採らせない」
言葉が少ないのに、強い命令だった。
その夜、リリアナは執務机の端で、もう一枚だけ紙を作った。誰に渡す紙でもない。自分のための紙だ。
――裁けない形へ引きずる
その下に、二つだけ書いた。
・保全義務違反の疑義=延期の根拠
・再審準備手続の仮適用=戻れない結論を出させない
最後に、小さく付け足した。
――人は紙ほど強くない
書き終えた瞬間、彼女は鉛筆を置いた。置いた音は小さいのに、部屋の中の空気が少しだけ締まる。
延期は通った。線も引けた。
それでも、被告は折れかけている。
勝ったのではない。
ただ、潰される速度を落としただけだ。
そして速度が落ちた分だけ、今度は“持つかどうか”が問われる。
制度ではなく、人が。
リリアナは窓の外の暗い王都を見ずに、机の紙だけを見た。紙の上なら、まだ順序がある。順序がある限り、次の一手は作れる。
明日は、原本の外形確認。
拒否されてもいい。拒否されるほど、拒否の形が残る。
残った形が、次の裁きを“裁けない形”のまま縛り続ける。
それが、彼女の仕事だった。




