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「断罪の令嬢 ― 弁護士の記憶が織りなす逆転劇」  作者: 月白ふゆ
第三章

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第八話 黒幕は軍を使う

軍法務の応接室は、暖房が効いているのに寒かった。

寒いのは空気のせいではない。言葉の省略が多いからだ。省略が多い場所ほど、決まっていることが多い。


机の上には、監査局の紙。軍法務の紙。兵站の紙。門の紙。

紙が増えるほど、人は黙る。黙るほど、紙がしゃべり出す。


「写しが整いすぎている」


伝令の報告は、それだけで十分だった。軍で“整っている”は誉め言葉だ。だからこそ“整いすぎ”は異物になる。異物は、誰かが混ぜた証拠だ。


監査局の書記官は声を変えずに言った。


「写しを作った手が、現場の手ではない可能性があります」


軍法務の担当官は眉をひそめたまま、反射で言い返す。


「疑いに過ぎません。会議は証拠に基づいて――」


宰相ヴィルヘルムが淡々と止めた。


「疑いの話はしていない。経路の話だ。写しは誰の机を通った」


担当官は口を閉じた。

問いが“結論”ではなく“経路”に置かれると、軍は勢いを失う。勢いを失うと、秩序の盾が重くなる。重い盾は、振り回しにくい。


アーデルハイトは、机上の資料を一つずつ指で揃えた。揃える動作は静かだが、意味ははっきりしている。順番を決めるということだ。


「まず、原本の外形確認。拒否の記録を残す。次に、写しの作成者と作成日時。兵站と門の分は、こちらで封印つき写しを確保済み。問題は軍法務が持つ写しだ」


軍法務の担当官が、硬い声で言う。


「軍法務の写しは、規程に基づき整えたものです」


リリアナは、そこで口を挟まない。

否定すると、軍は“外部の攻撃”に変換する。変換されれば、壁が立つ。壁は厚くなる。


代わりに、監査局の書記官が淡々と返した。


「規程なら、規程に基づくログがあるはずです。整えたなら、整えた記録が残ります。残っていないなら、規程ではありません」


軍法務の担当官の口元がわずかに歪む。

その歪みは怒りではなく、計算の狂いだった。


「……準備します」


そう言って担当官が席を外した瞬間、リリアナは宰相へ視線を移した。言葉にしなくても伝わる種類の視線だ。宰相も同じ種類の目で返す。


「会計だ」


宰相が、ほとんど唇を動かさずに言った。


アーデルハイトが小さく頷く。


「兵站と門の数字は、軍の中の数字です。軍の中の数字が動くなら、軍の外の数字も動いている。外の数字は、会計です」


リリアナは淡々と続ける。


「軍需品の横流しは、金の話だと思われがちです。でも金だけなら、こんなに手続きを整える必要はありません。整えるのは、金より大きいものを動かす時です」


宰相の目が細くなる。


「権利だな」


リリアナは頷いた。


「調達権、入札、徴発。軍は“誰から何を取るか”を決められます。そこに権利がくっつく。金は結果で、権利が原因です」



───


宰相府へ戻る道すがら、王都の街はいつも通りの顔をしていた。露店は湯気を出し、馬車は石畳を叩き、祈りの声が遠くに混じる。

平穏は、だいたい顔が上手い。


王太子ユリウスは馬車の中で、外の景色を見ずに言った。


「軍が動いている以上、背後に政治がいると思う者もいるだろう」


宰相が淡々と答える。


「政治ではなく運用です。政治は表に出る。運用は裏で回る」


ユリウスが短く言う。


「運用者を出せるか」


リリアナは、そこで初めて口を開いた。


「出す必要はありません。繋がりを“見える形”にします」


「見える形?」


「会計監督官室のログです。部局横断の“調整”の痕跡は、必ず紙になります。紙にならない調整は、実務では回りません」


ユリウスは頷いた。


「会計監督官室へ当たる。名目は」


宰相が即答する。


「軍需品調達の支払い照合。徴税・徴発の権限運用の確認。結論ではなく照合だ」


照合。

この国で、照合は強い。

照合は誰も否定できない。否定すると、数字そのものを否定することになる。


リリアナは膝の上の紙を一枚、静かに整えた。いつもの紙だ。派手でもなく、長くもなく、ただ刺さるための形をしている。


「先に押さえるもの、もう一つ増えます」


ユリウスが視線を向ける。


「何だ」


「調達の“名義”です」


リリアナは淡々と言った。


「軍需品は数と印で動きます。でも印は、誰の印かが大事です。名義が変われば、権利が移ります。横流しの先が金だとしても、名義の移動は権利です。権利が動けば、徴発の線が引けます」


宰相が小さく息を吐く。


「つまり、軍の事件に見せかけて、領の首を絞れる」


リリアナは頷く。


「横流しの罪で兵士を潰せば終わり、ではない。兵士は入口です。入口から入って、調達権と入札先と徴発の線を変える。そうすれば、この先、同じ構造で何度でも取れます」


ユリウスの声が少し低くなる。


「誰が、そんなことを」


リリアナは言い切らない。言い切るのは危ない。言い切ると、政治になる。

代わりに、宰相が言った。


「会計監督官室の同系統だ。徴税と会計を跨いで動ける者。部局を横断して“整える”者だ」


ユリウスが短く命じる。


「呼ぶ。今夜のうちに」



───


会計監督官室は、神殿ほど荘厳ではなく、軍ほど硬くもない。

その代わり、静かに人を追い詰める匂いがした。

紙の匂いだ。数字の匂いだ。


応接に出たのは会計監督官補佐官の一人、リューディガーという男だった。服は地味だが、細部が整いすぎている。整いすぎる人間は、整えることに慣れている。


「王太子殿下のご用件と伺いました」


声は丁寧で、目は冷たい。

軍の冷たさとは違う。感情がない冷たさだ。


王太子ユリウスは席に着くと、挨拶を省いた。


「軍需品調達の照合に来た。軍法会議の件だ」


補佐官は微笑んだ。


「軍の不祥事が会計へ波及するのは珍しいことではありません。必要な照合は進めましょう」


宰相が淡々と紙を置いた。


「必要なのは、支払いではない。権限だ。調達権と入札運用と徴発の指示系統。誰が、どの紙で動かしたか」


補佐官の微笑みが薄くなる。薄くなるのは驚きではなく、警戒だ。


「それは軍の管轄では」


「軍が実際に動かすのは現場だ。だが権限運用は、会計の紙がないと回らない」


宰相の声は揺れない。揺れない声は、逃げ道を削る。


補佐官は一瞬だけ沈黙し、次に丁寧に言った。


「会計監督官室は、規程に従って運用しています。部局横断の権限など――」


リリアナが、そこで一歩も前に出ずに言った。


「部局横断の権限ではなく、部局横断の“照合”です」


補佐官が視線を向ける。


「照合?」


リリアナは淡々と続けた。


「徴税ライン、徴発ライン、調達ライン。三つが一致しないと、現場の数字は合いません。合っているなら、どこかで照合されています。照合している部署がここです」


補佐官の目がわずかに細くなる。


「大胆な推測です」


「推測を確認しに来ました」


リリアナは言い切った。


「確認にはログが必要です。『いつ』『誰が』『何を照合したか』。照合のログを見せてください」


補佐官は、言葉を選ぶ時間を取りたかったのだろう。だが王太子の前で長い沈黙は危険だ。


「……照合のログは内部資料です」


王太子が低い声で言う。


「内部かどうかは私が決める。王都の秩序に関わる。軍の秩序だけの話ではない」


補佐官は、初めてわずかに表情を硬くした。

王太子の言葉は“命令”ではない。

“範囲の決定”だ。範囲を握られると、運用者は弱い。


宰相が追い打ちをしない形で、淡々と言った。


「見せろとは言っていない。確認させろと言っている」


同じだ。だが言い方が違う。

“見せろ”は攻撃。

“確認させろ”は手続き。


補佐官は短く息を吐いた。


「どの期間を」


アーデルハイトが即答する。


「該当案件の前後一週間。軍の入出庫台帳と門の通行札の動きと一致する期間です」


補佐官の目が、ほんの少しだけ動いた。

一致。

その単語は、会計の人間に刺さる。会計は一致しないものを嫌う。嫌うから、隠したくなる。


補佐官は書類棚の鍵を呼び、別室の準備を命じた。命じ方が慣れている。慣れている者は、普段からこういう“確認”を捌いている。



───


別室に運ばれたのは帳簿ではなく、薄い束だった。

帳簿は重い。重いものは扱いにくい。

運用者は、重いものを嫌う。嫌うから、軽い紙で回す。


束の表紙にはこう書かれていた。


「調達照合記録(摘要)」


摘要。要点だけ。

要点だけで回る仕事は、権限の匂いがする。


監査局の書記官がいない代わりに、アーデルハイトが同じ読み方をした。継ぎ目を見る。連番を見る。空白を見る。


「……ここ、飛んでいる」


アーデルハイトが指を置く。照合番号が一つ欠けている。


補佐官がすぐに言う。


「欠番は、誤記です」


リリアナは否定しない。否定しない代わりに、淡々と問う。


「誤記なら、訂正記録が残ります。訂正欄はどこですか」


補佐官の目が一瞬だけ止まる。止まるのは、そこに訂正欄がないからだ。


宰相が穏やかでもなく、怒りでもなく言った。


「誤記というなら、誤記が起きた理由を出せ。会計は理由のない誤記を嫌うはずだ」


補佐官が硬い声で返す。


「会計は現場の粗さを吸収する部署です。粗さは必ずあります」


リリアナが静かに言った。


「粗さを吸収するなら、粗さのログが残ります。残らない粗さは、粗さではありません」


言葉は軽いのに、逃げ道がない。


アーデルハイトが、次の紙をめくった。


「徴税ラインの照合印がある。ここに。軍の調達照合に、徴税の照合印は本来いらない」


補佐官は微笑もうとして、やめた。


「徴税は王都の財政全体に関わります。関連照合は――」


「関連照合の範囲は、誰が決める」


王太子が問うた。声が低い。


補佐官は答えるしかない。


「……会計監督官室です」


「その範囲決定の根拠は」


補佐官は黙る。

根拠を言えば、根拠の紙を出さねばならない。

根拠の紙を出せば、運用者が見える。


リリアナは、ここでようやく決定打を出す。


机に紙一枚を置く。

彼女の紙だ。短い。必要な項目しかない。


「範囲決定ログをください」


補佐官が眉をひそめる。


「そんなものは――」


「あります」


リリアナは淡々と言う。


「範囲決定が口頭なら、担当者が変わるたびに範囲が揺れます。揺れたら一致が崩れます。会計は一致を崩しません。崩さないためには、範囲決定を固定する紙が必要です。紙がないなら、あなたの部署の仕組みが成立しません」


補佐官の頬がわずかに引きつる。

論破ではない。成立条件の提示だ。成立条件を突かれると、運用者は弱い。


補佐官は低く言った。


「……範囲決定ログは、別管理です」


宰相が淡々と返す。


「別管理なら、なおさら必要だ。別管理は、別の目的がある」


補佐官は、一瞬だけ王太子の顔を見た。

王太子は表情を変えない。変えないから怖い。


補佐官は観念したように言った。


「準備します」



───


範囲決定ログが運ばれてくるまでの間、リリアナは手元の摘要をもう一度だけ見た。

照合の摘要は軽い。軽い紙は速い。速い紙は、現場を置き去りにする。


そして、その軽さが一つの結論に繋がる。


「軍需品の横流しは、金の流れではない」


リリアナが、独り言に近い声で言うと、宰相が視線を向けた。


「どういう意味だ」


「金の流れなら、帳簿で追えます。追えるから隠すのは難しい。でも権利の移動なら、紙一枚で済む。紙一枚なら“整えられる”。整えられた写しが必要になる」


アーデルハイトが頷く。


「写しが整いすぎるのは、権利を動かす紙の形に合わせたからか」


「そうです」


リリアナは淡々と続ける。


「兵站の原本を消すのは、現場の粗さを消すため。粗さが残ると、権利の紙と一致しません。だから原本を消し、写しを整え、会議を速さで終わらせる」


王太子の声が冷える。


「速さで終わらせる理由は」


リリアナは少しだけ間を置いた。間は演出ではない。次の言葉を軽くするための間だ。


「即日結審にすれば、外部記録が揃う前に終わります」


宰相が短く息を吐く。


「つまり、終わらせること自体が目的になる」


「目的は兵士ではありません」


リリアナは言い切る。


「兵士は蓋です。蓋を閉めて、その間に調達権を移す。入札先を変える。徴発の線を引き直す。そうすれば次からは、軍が合法的に“取れる”」


その言葉は重いのに、口調は軽い。

軽いから、余計に怖い。



───


範囲決定ログは、予想より薄かった。

薄いのに、手触りが違う。紙が新しい。

新しい紙は、新しい仕事を隠すのに向いている。


補佐官は丁寧に置いた。


「こちらが範囲決定の記録です。規程に基づいて――」


アーデルハイトがすぐにページを開く。


「規程番号は」


補佐官が答える。


「第三規程、二十七条」


宰相が淡々と尋ねる。


「その条文の写しを」


補佐官が口を噤む。

条文を出すと、条文の改訂履歴も出る。改訂履歴は、運用者の指紋だ。


リリアナは、ログの記載欄を指でなぞった。

決定者欄。

承認者欄。

照合対象部署欄。

そして——「例外適用」の欄。


例外がある。

例外がある制度は、運用者がいる。


リリアナは淡々と言った。


「例外適用、頻度が高いですね」


補佐官は微笑んだ。


「例外は現場を救います」


「救うのは現場ではなく、運用者です」


リリアナは言い切らない形で置く。断罪ではなく、線。


王太子が初めて、机の紙に指を置いた。


「決定者は誰だ」


補佐官は答えた。


「会計監督官室の運用担当者です」


名前が出ない。

役職だけが出る。

役職だけで回る仕事は、個人が消える。個人が消えると、責任が消える。


王太子の声が低くなる。


「名を出せ」


補佐官は一瞬だけ固まった。

だが王太子は、政治で殴っていない。手続きで殴っている。


「記録上の決定者名を確認したい。名が出ない記録は、記録ではない」


補佐官は唇を噛み、そして観念したように言った。


「……決定者は、会計監督官室の“運用官”です。名は――」


その瞬間、扉が叩かれた。


伝令が息を切らしている。息を切らす伝令は、悪い知らせだ。


「王太子殿下、宰相閣下。軍法務より連絡です」


王太子が目だけで促す。


伝令は一気に言った。


「軍法会議、予定が変更されました。本日中に結審する、と」


部屋の空気が、一段下がる。

即日結審。

速度で終わらせる。終わらせるために終わらせる。


宰相が、静かに言った。


「来たか」


リリアナは驚かない。驚かない代わりに、紙を一枚だけ引き寄せた。

紙一枚で、線を引く準備をする。


「今、ここで分かったことだけで十分です」


ユリウスが視線を向ける。


「十分?」


「即日結審にするのは、原本がないからです」


リリアナは淡々と告げた。


「原本がない。写しは整いすぎている。照合の摘要は軽い。例外適用が多い。これで繋がります。軍は“軍の秩序”で押し切る。でも背後は、軍の外の運用です」


補佐官の顔から血の気が引く。

引くのは恐怖ではない。計算が崩れた時の色だ。


宰相が、静かに補佐官へ言った。


「名は後でいい。ログは押さえた。今は軍だ」


王太子が立ち上がる。椅子の音が短い。短い音ほど決意が硬い。


「軍は速さで終わらせる。なら、こちらは速さが通らない条件を突きつける」


リリアナが言う。


「結審はできます。でも“終わらない形”にします。即日で終えても、後で必ず戻る形に」


王太子は頷いた。


「行く」


その背中が扉へ向かう瞬間、宰相が最後に一言だけ落とした。


「黒幕は軍を使う。軍は使われる」


言葉は軽い。

でもその軽さの下に、権利が動く重さがある。


即日結審。

それは裁きの速さではなく、権利の移動の速さだ。


そして、その速さに追いつけるのは、感情ではない。

紙だ。ログだ。順序だ。


リリアナは紙一枚を胸の内で整えながら、静かに廊下へ出た。

会議が“今日中に終わる”なら、今日中に終わらない条件を差し込むだけだ。

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