第八話 黒幕は軍を使う
軍法務の応接室は、暖房が効いているのに寒かった。
寒いのは空気のせいではない。言葉の省略が多いからだ。省略が多い場所ほど、決まっていることが多い。
机の上には、監査局の紙。軍法務の紙。兵站の紙。門の紙。
紙が増えるほど、人は黙る。黙るほど、紙がしゃべり出す。
「写しが整いすぎている」
伝令の報告は、それだけで十分だった。軍で“整っている”は誉め言葉だ。だからこそ“整いすぎ”は異物になる。異物は、誰かが混ぜた証拠だ。
監査局の書記官は声を変えずに言った。
「写しを作った手が、現場の手ではない可能性があります」
軍法務の担当官は眉をひそめたまま、反射で言い返す。
「疑いに過ぎません。会議は証拠に基づいて――」
宰相ヴィルヘルムが淡々と止めた。
「疑いの話はしていない。経路の話だ。写しは誰の机を通った」
担当官は口を閉じた。
問いが“結論”ではなく“経路”に置かれると、軍は勢いを失う。勢いを失うと、秩序の盾が重くなる。重い盾は、振り回しにくい。
アーデルハイトは、机上の資料を一つずつ指で揃えた。揃える動作は静かだが、意味ははっきりしている。順番を決めるということだ。
「まず、原本の外形確認。拒否の記録を残す。次に、写しの作成者と作成日時。兵站と門の分は、こちらで封印つき写しを確保済み。問題は軍法務が持つ写しだ」
軍法務の担当官が、硬い声で言う。
「軍法務の写しは、規程に基づき整えたものです」
リリアナは、そこで口を挟まない。
否定すると、軍は“外部の攻撃”に変換する。変換されれば、壁が立つ。壁は厚くなる。
代わりに、監査局の書記官が淡々と返した。
「規程なら、規程に基づくログがあるはずです。整えたなら、整えた記録が残ります。残っていないなら、規程ではありません」
軍法務の担当官の口元がわずかに歪む。
その歪みは怒りではなく、計算の狂いだった。
「……準備します」
そう言って担当官が席を外した瞬間、リリアナは宰相へ視線を移した。言葉にしなくても伝わる種類の視線だ。宰相も同じ種類の目で返す。
「会計だ」
宰相が、ほとんど唇を動かさずに言った。
アーデルハイトが小さく頷く。
「兵站と門の数字は、軍の中の数字です。軍の中の数字が動くなら、軍の外の数字も動いている。外の数字は、会計です」
リリアナは淡々と続ける。
「軍需品の横流しは、金の話だと思われがちです。でも金だけなら、こんなに手続きを整える必要はありません。整えるのは、金より大きいものを動かす時です」
宰相の目が細くなる。
「権利だな」
リリアナは頷いた。
「調達権、入札、徴発。軍は“誰から何を取るか”を決められます。そこに権利がくっつく。金は結果で、権利が原因です」
───
宰相府へ戻る道すがら、王都の街はいつも通りの顔をしていた。露店は湯気を出し、馬車は石畳を叩き、祈りの声が遠くに混じる。
平穏は、だいたい顔が上手い。
王太子ユリウスは馬車の中で、外の景色を見ずに言った。
「軍が動いている以上、背後に政治がいると思う者もいるだろう」
宰相が淡々と答える。
「政治ではなく運用です。政治は表に出る。運用は裏で回る」
ユリウスが短く言う。
「運用者を出せるか」
リリアナは、そこで初めて口を開いた。
「出す必要はありません。繋がりを“見える形”にします」
「見える形?」
「会計監督官室のログです。部局横断の“調整”の痕跡は、必ず紙になります。紙にならない調整は、実務では回りません」
ユリウスは頷いた。
「会計監督官室へ当たる。名目は」
宰相が即答する。
「軍需品調達の支払い照合。徴税・徴発の権限運用の確認。結論ではなく照合だ」
照合。
この国で、照合は強い。
照合は誰も否定できない。否定すると、数字そのものを否定することになる。
リリアナは膝の上の紙を一枚、静かに整えた。いつもの紙だ。派手でもなく、長くもなく、ただ刺さるための形をしている。
「先に押さえるもの、もう一つ増えます」
ユリウスが視線を向ける。
「何だ」
「調達の“名義”です」
リリアナは淡々と言った。
「軍需品は数と印で動きます。でも印は、誰の印かが大事です。名義が変われば、権利が移ります。横流しの先が金だとしても、名義の移動は権利です。権利が動けば、徴発の線が引けます」
宰相が小さく息を吐く。
「つまり、軍の事件に見せかけて、領の首を絞れる」
リリアナは頷く。
「横流しの罪で兵士を潰せば終わり、ではない。兵士は入口です。入口から入って、調達権と入札先と徴発の線を変える。そうすれば、この先、同じ構造で何度でも取れます」
ユリウスの声が少し低くなる。
「誰が、そんなことを」
リリアナは言い切らない。言い切るのは危ない。言い切ると、政治になる。
代わりに、宰相が言った。
「会計監督官室の同系統だ。徴税と会計を跨いで動ける者。部局を横断して“整える”者だ」
ユリウスが短く命じる。
「呼ぶ。今夜のうちに」
───
会計監督官室は、神殿ほど荘厳ではなく、軍ほど硬くもない。
その代わり、静かに人を追い詰める匂いがした。
紙の匂いだ。数字の匂いだ。
応接に出たのは会計監督官補佐官の一人、リューディガーという男だった。服は地味だが、細部が整いすぎている。整いすぎる人間は、整えることに慣れている。
「王太子殿下のご用件と伺いました」
声は丁寧で、目は冷たい。
軍の冷たさとは違う。感情がない冷たさだ。
王太子ユリウスは席に着くと、挨拶を省いた。
「軍需品調達の照合に来た。軍法会議の件だ」
補佐官は微笑んだ。
「軍の不祥事が会計へ波及するのは珍しいことではありません。必要な照合は進めましょう」
宰相が淡々と紙を置いた。
「必要なのは、支払いではない。権限だ。調達権と入札運用と徴発の指示系統。誰が、どの紙で動かしたか」
補佐官の微笑みが薄くなる。薄くなるのは驚きではなく、警戒だ。
「それは軍の管轄では」
「軍が実際に動かすのは現場だ。だが権限運用は、会計の紙がないと回らない」
宰相の声は揺れない。揺れない声は、逃げ道を削る。
補佐官は一瞬だけ沈黙し、次に丁寧に言った。
「会計監督官室は、規程に従って運用しています。部局横断の権限など――」
リリアナが、そこで一歩も前に出ずに言った。
「部局横断の権限ではなく、部局横断の“照合”です」
補佐官が視線を向ける。
「照合?」
リリアナは淡々と続けた。
「徴税ライン、徴発ライン、調達ライン。三つが一致しないと、現場の数字は合いません。合っているなら、どこかで照合されています。照合している部署がここです」
補佐官の目がわずかに細くなる。
「大胆な推測です」
「推測を確認しに来ました」
リリアナは言い切った。
「確認にはログが必要です。『いつ』『誰が』『何を照合したか』。照合のログを見せてください」
補佐官は、言葉を選ぶ時間を取りたかったのだろう。だが王太子の前で長い沈黙は危険だ。
「……照合のログは内部資料です」
王太子が低い声で言う。
「内部かどうかは私が決める。王都の秩序に関わる。軍の秩序だけの話ではない」
補佐官は、初めてわずかに表情を硬くした。
王太子の言葉は“命令”ではない。
“範囲の決定”だ。範囲を握られると、運用者は弱い。
宰相が追い打ちをしない形で、淡々と言った。
「見せろとは言っていない。確認させろと言っている」
同じだ。だが言い方が違う。
“見せろ”は攻撃。
“確認させろ”は手続き。
補佐官は短く息を吐いた。
「どの期間を」
アーデルハイトが即答する。
「該当案件の前後一週間。軍の入出庫台帳と門の通行札の動きと一致する期間です」
補佐官の目が、ほんの少しだけ動いた。
一致。
その単語は、会計の人間に刺さる。会計は一致しないものを嫌う。嫌うから、隠したくなる。
補佐官は書類棚の鍵を呼び、別室の準備を命じた。命じ方が慣れている。慣れている者は、普段からこういう“確認”を捌いている。
───
別室に運ばれたのは帳簿ではなく、薄い束だった。
帳簿は重い。重いものは扱いにくい。
運用者は、重いものを嫌う。嫌うから、軽い紙で回す。
束の表紙にはこう書かれていた。
「調達照合記録(摘要)」
摘要。要点だけ。
要点だけで回る仕事は、権限の匂いがする。
監査局の書記官がいない代わりに、アーデルハイトが同じ読み方をした。継ぎ目を見る。連番を見る。空白を見る。
「……ここ、飛んでいる」
アーデルハイトが指を置く。照合番号が一つ欠けている。
補佐官がすぐに言う。
「欠番は、誤記です」
リリアナは否定しない。否定しない代わりに、淡々と問う。
「誤記なら、訂正記録が残ります。訂正欄はどこですか」
補佐官の目が一瞬だけ止まる。止まるのは、そこに訂正欄がないからだ。
宰相が穏やかでもなく、怒りでもなく言った。
「誤記というなら、誤記が起きた理由を出せ。会計は理由のない誤記を嫌うはずだ」
補佐官が硬い声で返す。
「会計は現場の粗さを吸収する部署です。粗さは必ずあります」
リリアナが静かに言った。
「粗さを吸収するなら、粗さのログが残ります。残らない粗さは、粗さではありません」
言葉は軽いのに、逃げ道がない。
アーデルハイトが、次の紙をめくった。
「徴税ラインの照合印がある。ここに。軍の調達照合に、徴税の照合印は本来いらない」
補佐官は微笑もうとして、やめた。
「徴税は王都の財政全体に関わります。関連照合は――」
「関連照合の範囲は、誰が決める」
王太子が問うた。声が低い。
補佐官は答えるしかない。
「……会計監督官室です」
「その範囲決定の根拠は」
補佐官は黙る。
根拠を言えば、根拠の紙を出さねばならない。
根拠の紙を出せば、運用者が見える。
リリアナは、ここでようやく決定打を出す。
机に紙一枚を置く。
彼女の紙だ。短い。必要な項目しかない。
「範囲決定ログをください」
補佐官が眉をひそめる。
「そんなものは――」
「あります」
リリアナは淡々と言う。
「範囲決定が口頭なら、担当者が変わるたびに範囲が揺れます。揺れたら一致が崩れます。会計は一致を崩しません。崩さないためには、範囲決定を固定する紙が必要です。紙がないなら、あなたの部署の仕組みが成立しません」
補佐官の頬がわずかに引きつる。
論破ではない。成立条件の提示だ。成立条件を突かれると、運用者は弱い。
補佐官は低く言った。
「……範囲決定ログは、別管理です」
宰相が淡々と返す。
「別管理なら、なおさら必要だ。別管理は、別の目的がある」
補佐官は、一瞬だけ王太子の顔を見た。
王太子は表情を変えない。変えないから怖い。
補佐官は観念したように言った。
「準備します」
───
範囲決定ログが運ばれてくるまでの間、リリアナは手元の摘要をもう一度だけ見た。
照合の摘要は軽い。軽い紙は速い。速い紙は、現場を置き去りにする。
そして、その軽さが一つの結論に繋がる。
「軍需品の横流しは、金の流れではない」
リリアナが、独り言に近い声で言うと、宰相が視線を向けた。
「どういう意味だ」
「金の流れなら、帳簿で追えます。追えるから隠すのは難しい。でも権利の移動なら、紙一枚で済む。紙一枚なら“整えられる”。整えられた写しが必要になる」
アーデルハイトが頷く。
「写しが整いすぎるのは、権利を動かす紙の形に合わせたからか」
「そうです」
リリアナは淡々と続ける。
「兵站の原本を消すのは、現場の粗さを消すため。粗さが残ると、権利の紙と一致しません。だから原本を消し、写しを整え、会議を速さで終わらせる」
王太子の声が冷える。
「速さで終わらせる理由は」
リリアナは少しだけ間を置いた。間は演出ではない。次の言葉を軽くするための間だ。
「即日結審にすれば、外部記録が揃う前に終わります」
宰相が短く息を吐く。
「つまり、終わらせること自体が目的になる」
「目的は兵士ではありません」
リリアナは言い切る。
「兵士は蓋です。蓋を閉めて、その間に調達権を移す。入札先を変える。徴発の線を引き直す。そうすれば次からは、軍が合法的に“取れる”」
その言葉は重いのに、口調は軽い。
軽いから、余計に怖い。
───
範囲決定ログは、予想より薄かった。
薄いのに、手触りが違う。紙が新しい。
新しい紙は、新しい仕事を隠すのに向いている。
補佐官は丁寧に置いた。
「こちらが範囲決定の記録です。規程に基づいて――」
アーデルハイトがすぐにページを開く。
「規程番号は」
補佐官が答える。
「第三規程、二十七条」
宰相が淡々と尋ねる。
「その条文の写しを」
補佐官が口を噤む。
条文を出すと、条文の改訂履歴も出る。改訂履歴は、運用者の指紋だ。
リリアナは、ログの記載欄を指でなぞった。
決定者欄。
承認者欄。
照合対象部署欄。
そして——「例外適用」の欄。
例外がある。
例外がある制度は、運用者がいる。
リリアナは淡々と言った。
「例外適用、頻度が高いですね」
補佐官は微笑んだ。
「例外は現場を救います」
「救うのは現場ではなく、運用者です」
リリアナは言い切らない形で置く。断罪ではなく、線。
王太子が初めて、机の紙に指を置いた。
「決定者は誰だ」
補佐官は答えた。
「会計監督官室の運用担当者です」
名前が出ない。
役職だけが出る。
役職だけで回る仕事は、個人が消える。個人が消えると、責任が消える。
王太子の声が低くなる。
「名を出せ」
補佐官は一瞬だけ固まった。
だが王太子は、政治で殴っていない。手続きで殴っている。
「記録上の決定者名を確認したい。名が出ない記録は、記録ではない」
補佐官は唇を噛み、そして観念したように言った。
「……決定者は、会計監督官室の“運用官”です。名は――」
その瞬間、扉が叩かれた。
伝令が息を切らしている。息を切らす伝令は、悪い知らせだ。
「王太子殿下、宰相閣下。軍法務より連絡です」
王太子が目だけで促す。
伝令は一気に言った。
「軍法会議、予定が変更されました。本日中に結審する、と」
部屋の空気が、一段下がる。
即日結審。
速度で終わらせる。終わらせるために終わらせる。
宰相が、静かに言った。
「来たか」
リリアナは驚かない。驚かない代わりに、紙を一枚だけ引き寄せた。
紙一枚で、線を引く準備をする。
「今、ここで分かったことだけで十分です」
ユリウスが視線を向ける。
「十分?」
「即日結審にするのは、原本がないからです」
リリアナは淡々と告げた。
「原本がない。写しは整いすぎている。照合の摘要は軽い。例外適用が多い。これで繋がります。軍は“軍の秩序”で押し切る。でも背後は、軍の外の運用です」
補佐官の顔から血の気が引く。
引くのは恐怖ではない。計算が崩れた時の色だ。
宰相が、静かに補佐官へ言った。
「名は後でいい。ログは押さえた。今は軍だ」
王太子が立ち上がる。椅子の音が短い。短い音ほど決意が硬い。
「軍は速さで終わらせる。なら、こちらは速さが通らない条件を突きつける」
リリアナが言う。
「結審はできます。でも“終わらない形”にします。即日で終えても、後で必ず戻る形に」
王太子は頷いた。
「行く」
その背中が扉へ向かう瞬間、宰相が最後に一言だけ落とした。
「黒幕は軍を使う。軍は使われる」
言葉は軽い。
でもその軽さの下に、権利が動く重さがある。
即日結審。
それは裁きの速さではなく、権利の移動の速さだ。
そして、その速さに追いつけるのは、感情ではない。
紙だ。ログだ。順序だ。
リリアナは紙一枚を胸の内で整えながら、静かに廊下へ出た。
会議が“今日中に終わる”なら、今日中に終わらない条件を差し込むだけだ。




