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「断罪の令嬢 ― 弁護士の記憶が織りなす逆転劇」  作者: 月白ふゆ
第三章

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第六話 先に押さえるもの

宰相府へ戻る頃には、空の色がもう白んでいた。


夜明けは優しいふりをする。けれど王都の冬の朝は、優しさの皮を一枚剥ぐとすぐ硬い。石畳の冷気が靴底から上がってきて、身体の中の眠気を押し出す代わりに、別のものを入れてくる。焦りだ。


王太子の馬車は表口へ向かわず、宰相府の脇へ回った。目立つ動きは、余計な火種になる。火種は暖かいが、燃え広がると面倒だ。


執務室に入ったユリウスは、椅子に座るより先に窓を一度だけ見た。夜を越えた街は静かで、静かなぶん何かが動く気配が濃かった。


「移送は止めなかった」


言い訳でも反省でもない、事実の確認の声だった。


宰相ヴィルヘルムは頷き、机の上の封書を指で揃えた。


「止めれば政治になる。止めなかったのは正しい。ただし、移送の手続きは残させる」


アーデルハイトが外套の襟を整えながら言う。


「軍は残したがりません。残せば、後で刺さるから」


「刺さるから残させる」


宰相は淡々と言った。刺すつもりでいる者は、刺される紙を嫌う。それだけだ。


リリアナは部屋の隅で、一本の鉛筆を手の中で転がしていた。夜通し動いたはずなのに、顔色は崩れていない。崩れるのは感情ではなく順序だと、彼女はどこかで決めている。


「次に押さえるものは、裁きじゃありません」


鉛筆が止まり、目線が机の上の空白へ落ちる。


「数です」


ユリウスが視線を向けた。


「数?」


「軍需品は、言い訳で動きません。数と印で動きます。だから矛盾は、数の方に残ります」


宰相が短く促す。


「続けろ」


リリアナは息を整えるでもなく言葉を並べた。軽い口調に見えるのに、内容は逃げ道がない。


「証言は揃えられます。揃っているほど、作る側が上手い。供述も整えられます。整えられるほど、書式が優秀。だからその二つに触れている間は、軍の速度に負けます」


彼女は机の空白に鉛筆を置き、白い紙を一枚引き寄せた。


「先に押さえるのは、外側の記録です。兵站の帳簿。入出庫記録。門の通行札。運搬の引き渡し。印の履歴」


アーデルハイトが即座に頷く。


「兵站は軍の中でも別系統。現場の班や憲兵の手から少し離れてる」


「離れているから残ります」


リリアナは答えた。


「縦割りは敵です。でも縦割りには、癖があります。壁がある分、壁の向こうの紙までは整えきれない」


ユリウスは机に手をつき、少し身体を乗り出した。


「軍は証拠閲覧を渋っている。兵站の帳簿も渋られるだろう」


「渋らせない」


宰相が短く言った。政治ではなく、手続きで穴を開ける。その顔だ。


「どうやって」


ユリウスが問うと、リリアナが紙に書き始めた。


文字は大きくない。装飾もない。線も引かない。

ただ、必要な項目だけが、順番に並ぶ。


「理由を、会議の結論ではなく保全に置きます。兵站の帳簿は、軍法会議の前提資料です。前提資料の保全を確認するのは、秩序を守る行為です」


言い方で勝つ。言い方だけで勝つのではなく、言い方がそのまま手続きになるように作る。


宰相が頷いた。


「『会議の判断材料を汚染しないための保全確認』なら、軍も拒みにくい」


アーデルハイトが補足する。


「拒めば拒むほど、何を隠したのかという形になる。軍は体面が大事」


リリアナは鉛筆を止めずに続けた。


「兵站側が扱うのは、口じゃなくて数です。軍需品は“数”で出て“印”で閉じます。だから改ざんするなら、癖が出ます」


「癖?」


ユリウスが問う。


「数字の癖です。例えば、ある数量だけ欠けている。帳簿の連番が飛ぶ。印影が二重。押し直しの跡。筆圧の違い。紙の種類の違い。補正線の引き方」


リリアナの声は淡々としているのに、室内の誰もが黙って聞いていた。

兵舎の空気は「疑うな、従え」だった。

ここは違う。疑うために、従う順序を作る。


「門の通行札も同じです。門は“通す”部署で、裁く部署じゃない。通した事実は、後から消しにくい。消すなら、消した跡が残る」


宰相が指先で机を一度叩いた。


「なら、まず門だ」


リリアナは頷く。


「門と、兵站。先に押さえます。現場や憲兵は後でいい。先に押さえれば、後から整えられた証言を“切り分け”できます」


ユリウスが静かに言う。


「勝ち筋は、会議で勝つことじゃない」


「会議の速度に負けないことです」


リリアナは自然に言い換えた。


「負けないためには、速さが通らない条件を先に作る。条件は紙です。紙があれば、速さは一度止まります」


彼女は紙の中央に、短い見出しを書いた。


――先に押さえるもの


その下に箇条書きが増えていく。増えるほどに、呼吸が整っていくように見えた。順序ができると、人は落ち着く。落ち着くのは気持ちではなく、動線が見えるからだ。


リリアナは書いた。


・兵站監督室:日次入出庫台帳(原本)

・補給庫:出庫伝票(控)/受領票(控)

・搬送係:搬送指示書/引き渡し署名簿

・門衛:通行札の控え(束)/通行記録(当直簿)

・印章:印影帳(いつ、誰が、どの印を使ったか)

・封印:庫の封印記録(封蝋の番号、検印者)

・修正:訂正履歴(いつ、誰が、何を直したか)


書き終えたところで、彼女は鉛筆を置いた。紙一枚だ。内容は重いのに、見た目は軽い。軽いから通る。


宰相が紙を取り上げ、目を走らせた。


「これを、王太子付からの指針として出す」


ユリウスが頷く。


「私の名で」


「殿下の名で出せば、軍は受け取る」


宰相の言葉は断言だった。受け取ることと従うことは別だが、受け取らせた時点で線は引ける。


アーデルハイトが言った。


「兵站側に直接当たるのは、私がいい。軍法務は渋るが、兵站は“会議の正当性”を盾にされると弱い。兵站は体面より手順の方が好き」


リリアナが軽く頷く。


「兵站は“遅れること”を嫌います。遅れると現場が止まる。現場が止まると怒鳴られる。だから彼らは、必要書類を揃える癖がある。揃っている癖は、こちらにとって味方になります」


「味方になる癖を先に使う」


宰相が言って、すぐに決めた。


「今から動く。会議の開始まで、時間がない」


ユリウスは外套を羽織り、扉へ向かった。

その背中は焦っていない。焦ると、相手が喜ぶ。


「リリアナ」


歩きながらユリウスが呼ぶ。


「はい」


「君は宰相府に残れ。表に出るな」


リリアナは頷く。


「はい。私は紙を整えます」


「整えろ。線を引け。外部記録を押さえる順序が、ここから先の根拠になる」


「根拠があれば、速度は止まります」


その答えは、淡々としているのに心強かった。



───


兵站監督室は、軍法務庁舎の派手さとは違って地味だった。


地味な場所ほど、紙が多い。紙が多い場所ほど、真実は残りやすい。

残るのは良心ではない。慣習だ。慣習は、人より強い。


アーデルハイトは宰相の署名入りの書面と、王太子付の指針の写しを持って兵站監督室へ入った。正面からだ。正面から入ると、拒む側の言い訳が減る。


応対に出たのは、兵站監督官補佐の中年男だった。肩の力が抜けているようで、視線は鋭い。仕事ができる人間の目だ。


「軍法会議の前に兵站の台帳? 珍しい」


彼はそう言いながらも、書面の印を見て口を閉じた。王太子の名は、疑問を口にしにくくする。


アーデルハイトは丁寧に言う。


「結論ではなく保全の確認です。会議に供される前提資料の整合性だけ、確認させてください」


補佐は鼻で笑うほどでもなく、淡々とした。


「うちは数で動いてます。嘘はつけないですよ。ついたら庫が合いません」


「だから来ました」


アーデルハイトは即答した。


補佐は肩をすくめる。


「ただし、軍法務が嫌がる。うちが出すと、向こうの顔が潰れる。面倒は嫌だ」


面倒。

兵站は面倒が嫌いだ。面倒が嫌いだから、手順を揃える。揃えるから残る。


アーデルハイトは言う。


「面倒にならない形でやります。原本は持ち出しません。こちらが写しを取るのではなく、兵站側で写しを作成し、兵站の封印で渡してください。受領記録も残してください」


補佐の目が一瞬だけ光った。


「……筋がいい」


筋がいい。

それは兵站の褒め言葉だ。


「分かりました。うちの手順でやる。日次入出庫台帳、出庫伝票、受領票、搬送指示、引き渡し署名簿、印影帳、封印記録。必要な日付は」


アーデルハイトは短く言った。


「事件の前後一週間。該当の庫番と当直の記録も」


補佐は頷き、すぐに部下へ指示を飛ばした。声が短い。短いのは、無駄がないからだ。無駄がないのは、慣れているからだ。


紙の束が運ばれ、机に置かれる。

インクの匂いが濃い。

数字が並び、印が押され、欄が埋まっている。


ここには、叫びも涙もない。

あるのは、数だけだ。



───


宰相府の文書室では、リリアナが同じように紙を整えていた。


一枚で足りると思っているから、一枚で足りるように作る。

足りないなら、足りない理由を削る。


彼女は兵站用、門衛用、搬送係用に、同じ骨格の書面を三枚作った。書き方も統一する。統一すると、相手の拒否理由が減る。


書き終えると、彼女は机の上に手を置き、少しだけ目を閉じた。休息ではない。次の線を頭の中で引いている。


扉が叩かれたのは、その時だった。


侍従が顔を出す。


「王太子付法務参事殿。軍より連絡が」


「通してください」


リリアナは即答した。


伝令は短く息を整え、封書ではなく口で言った。口で言うのは、残したくないからだ。


「兵站監督室の記録の一部が……紛失したとの報告です」


言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が少しだけ冷えた。冬の冷え方ではない。意図の匂いだ。


リリアナは驚かない。驚かない代わりに、質問を一つだけ投げる。


「どの記録ですか」


伝令が視線を泳がせる。泳ぐのは、覚えていないのではなく、言いたくないからだ。


「……出庫伝票の控え、数枚。該当日の分だと」


「紛失の理由は」


「棚替えの際に、束が崩れた可能性がある、と」


可能性。

便利な言葉。責任を薄める言葉。


リリアナは鉛筆を手に取り、紙の端に小さく書いた。


――紛失(出庫伝票控え)


それから、伝令に目を上げた。


「報告者は誰ですか。兵站監督官補佐?」


「……はい」


リリアナは頷いた。

兵站の人間が“紛失”と言う時、それは本当に紛失か、紛失と扱うしかない圧がかかった時だ。


「分かりました。追加で確認します」


伝令がほっとしたように息を吐く。責められないだけで、人は安心する。責めることは目的じゃない。線を引くことが目的だ。


リリアナは、机の上の「先に押さえるもの」の紙を指で一度撫でた。


先に押さえる。

その言葉の意味が、今ようやく重くなる。


押さえる前に、消される。

消されるなら、消した跡を押さえる。


リリアナは立ち上がり、宰相府の廊下へ出た。歩く速度は変えない。速くすると、相手が焦りを嗅ぐ。焦りは、狙われる。


彼女の手元には、紙一枚。


そこに引かれた線は、まだ薄い。

だが薄い線ほど、消そうとした者の指紋が残る。


そして今、消そうとした匂いが、確かに漂っていた。

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横領の被害がそもそも書類で確認出来ない、となればレオンの〈犯罪〉の根拠すら消滅しかねませんね。 しかしコレ、やらかしてる側が好き放題出来る構造が整えば、それこそ、権限を持ってる人間の横領や恣意的配分が…
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