第六話 先に押さえるもの
宰相府へ戻る頃には、空の色がもう白んでいた。
夜明けは優しいふりをする。けれど王都の冬の朝は、優しさの皮を一枚剥ぐとすぐ硬い。石畳の冷気が靴底から上がってきて、身体の中の眠気を押し出す代わりに、別のものを入れてくる。焦りだ。
王太子の馬車は表口へ向かわず、宰相府の脇へ回った。目立つ動きは、余計な火種になる。火種は暖かいが、燃え広がると面倒だ。
執務室に入ったユリウスは、椅子に座るより先に窓を一度だけ見た。夜を越えた街は静かで、静かなぶん何かが動く気配が濃かった。
「移送は止めなかった」
言い訳でも反省でもない、事実の確認の声だった。
宰相ヴィルヘルムは頷き、机の上の封書を指で揃えた。
「止めれば政治になる。止めなかったのは正しい。ただし、移送の手続きは残させる」
アーデルハイトが外套の襟を整えながら言う。
「軍は残したがりません。残せば、後で刺さるから」
「刺さるから残させる」
宰相は淡々と言った。刺すつもりでいる者は、刺される紙を嫌う。それだけだ。
リリアナは部屋の隅で、一本の鉛筆を手の中で転がしていた。夜通し動いたはずなのに、顔色は崩れていない。崩れるのは感情ではなく順序だと、彼女はどこかで決めている。
「次に押さえるものは、裁きじゃありません」
鉛筆が止まり、目線が机の上の空白へ落ちる。
「数です」
ユリウスが視線を向けた。
「数?」
「軍需品は、言い訳で動きません。数と印で動きます。だから矛盾は、数の方に残ります」
宰相が短く促す。
「続けろ」
リリアナは息を整えるでもなく言葉を並べた。軽い口調に見えるのに、内容は逃げ道がない。
「証言は揃えられます。揃っているほど、作る側が上手い。供述も整えられます。整えられるほど、書式が優秀。だからその二つに触れている間は、軍の速度に負けます」
彼女は机の空白に鉛筆を置き、白い紙を一枚引き寄せた。
「先に押さえるのは、外側の記録です。兵站の帳簿。入出庫記録。門の通行札。運搬の引き渡し。印の履歴」
アーデルハイトが即座に頷く。
「兵站は軍の中でも別系統。現場の班や憲兵の手から少し離れてる」
「離れているから残ります」
リリアナは答えた。
「縦割りは敵です。でも縦割りには、癖があります。壁がある分、壁の向こうの紙までは整えきれない」
ユリウスは机に手をつき、少し身体を乗り出した。
「軍は証拠閲覧を渋っている。兵站の帳簿も渋られるだろう」
「渋らせない」
宰相が短く言った。政治ではなく、手続きで穴を開ける。その顔だ。
「どうやって」
ユリウスが問うと、リリアナが紙に書き始めた。
文字は大きくない。装飾もない。線も引かない。
ただ、必要な項目だけが、順番に並ぶ。
「理由を、会議の結論ではなく保全に置きます。兵站の帳簿は、軍法会議の前提資料です。前提資料の保全を確認するのは、秩序を守る行為です」
言い方で勝つ。言い方だけで勝つのではなく、言い方がそのまま手続きになるように作る。
宰相が頷いた。
「『会議の判断材料を汚染しないための保全確認』なら、軍も拒みにくい」
アーデルハイトが補足する。
「拒めば拒むほど、何を隠したのかという形になる。軍は体面が大事」
リリアナは鉛筆を止めずに続けた。
「兵站側が扱うのは、口じゃなくて数です。軍需品は“数”で出て“印”で閉じます。だから改ざんするなら、癖が出ます」
「癖?」
ユリウスが問う。
「数字の癖です。例えば、ある数量だけ欠けている。帳簿の連番が飛ぶ。印影が二重。押し直しの跡。筆圧の違い。紙の種類の違い。補正線の引き方」
リリアナの声は淡々としているのに、室内の誰もが黙って聞いていた。
兵舎の空気は「疑うな、従え」だった。
ここは違う。疑うために、従う順序を作る。
「門の通行札も同じです。門は“通す”部署で、裁く部署じゃない。通した事実は、後から消しにくい。消すなら、消した跡が残る」
宰相が指先で机を一度叩いた。
「なら、まず門だ」
リリアナは頷く。
「門と、兵站。先に押さえます。現場や憲兵は後でいい。先に押さえれば、後から整えられた証言を“切り分け”できます」
ユリウスが静かに言う。
「勝ち筋は、会議で勝つことじゃない」
「会議の速度に負けないことです」
リリアナは自然に言い換えた。
「負けないためには、速さが通らない条件を先に作る。条件は紙です。紙があれば、速さは一度止まります」
彼女は紙の中央に、短い見出しを書いた。
――先に押さえるもの
その下に箇条書きが増えていく。増えるほどに、呼吸が整っていくように見えた。順序ができると、人は落ち着く。落ち着くのは気持ちではなく、動線が見えるからだ。
リリアナは書いた。
・兵站監督室:日次入出庫台帳(原本)
・補給庫:出庫伝票(控)/受領票(控)
・搬送係:搬送指示書/引き渡し署名簿
・門衛:通行札の控え(束)/通行記録(当直簿)
・印章:印影帳(いつ、誰が、どの印を使ったか)
・封印:庫の封印記録(封蝋の番号、検印者)
・修正:訂正履歴(いつ、誰が、何を直したか)
書き終えたところで、彼女は鉛筆を置いた。紙一枚だ。内容は重いのに、見た目は軽い。軽いから通る。
宰相が紙を取り上げ、目を走らせた。
「これを、王太子付からの指針として出す」
ユリウスが頷く。
「私の名で」
「殿下の名で出せば、軍は受け取る」
宰相の言葉は断言だった。受け取ることと従うことは別だが、受け取らせた時点で線は引ける。
アーデルハイトが言った。
「兵站側に直接当たるのは、私がいい。軍法務は渋るが、兵站は“会議の正当性”を盾にされると弱い。兵站は体面より手順の方が好き」
リリアナが軽く頷く。
「兵站は“遅れること”を嫌います。遅れると現場が止まる。現場が止まると怒鳴られる。だから彼らは、必要書類を揃える癖がある。揃っている癖は、こちらにとって味方になります」
「味方になる癖を先に使う」
宰相が言って、すぐに決めた。
「今から動く。会議の開始まで、時間がない」
ユリウスは外套を羽織り、扉へ向かった。
その背中は焦っていない。焦ると、相手が喜ぶ。
「リリアナ」
歩きながらユリウスが呼ぶ。
「はい」
「君は宰相府に残れ。表に出るな」
リリアナは頷く。
「はい。私は紙を整えます」
「整えろ。線を引け。外部記録を押さえる順序が、ここから先の根拠になる」
「根拠があれば、速度は止まります」
その答えは、淡々としているのに心強かった。
───
兵站監督室は、軍法務庁舎の派手さとは違って地味だった。
地味な場所ほど、紙が多い。紙が多い場所ほど、真実は残りやすい。
残るのは良心ではない。慣習だ。慣習は、人より強い。
アーデルハイトは宰相の署名入りの書面と、王太子付の指針の写しを持って兵站監督室へ入った。正面からだ。正面から入ると、拒む側の言い訳が減る。
応対に出たのは、兵站監督官補佐の中年男だった。肩の力が抜けているようで、視線は鋭い。仕事ができる人間の目だ。
「軍法会議の前に兵站の台帳? 珍しい」
彼はそう言いながらも、書面の印を見て口を閉じた。王太子の名は、疑問を口にしにくくする。
アーデルハイトは丁寧に言う。
「結論ではなく保全の確認です。会議に供される前提資料の整合性だけ、確認させてください」
補佐は鼻で笑うほどでもなく、淡々とした。
「うちは数で動いてます。嘘はつけないですよ。ついたら庫が合いません」
「だから来ました」
アーデルハイトは即答した。
補佐は肩をすくめる。
「ただし、軍法務が嫌がる。うちが出すと、向こうの顔が潰れる。面倒は嫌だ」
面倒。
兵站は面倒が嫌いだ。面倒が嫌いだから、手順を揃える。揃えるから残る。
アーデルハイトは言う。
「面倒にならない形でやります。原本は持ち出しません。こちらが写しを取るのではなく、兵站側で写しを作成し、兵站の封印で渡してください。受領記録も残してください」
補佐の目が一瞬だけ光った。
「……筋がいい」
筋がいい。
それは兵站の褒め言葉だ。
「分かりました。うちの手順でやる。日次入出庫台帳、出庫伝票、受領票、搬送指示、引き渡し署名簿、印影帳、封印記録。必要な日付は」
アーデルハイトは短く言った。
「事件の前後一週間。該当の庫番と当直の記録も」
補佐は頷き、すぐに部下へ指示を飛ばした。声が短い。短いのは、無駄がないからだ。無駄がないのは、慣れているからだ。
紙の束が運ばれ、机に置かれる。
インクの匂いが濃い。
数字が並び、印が押され、欄が埋まっている。
ここには、叫びも涙もない。
あるのは、数だけだ。
───
宰相府の文書室では、リリアナが同じように紙を整えていた。
一枚で足りると思っているから、一枚で足りるように作る。
足りないなら、足りない理由を削る。
彼女は兵站用、門衛用、搬送係用に、同じ骨格の書面を三枚作った。書き方も統一する。統一すると、相手の拒否理由が減る。
書き終えると、彼女は机の上に手を置き、少しだけ目を閉じた。休息ではない。次の線を頭の中で引いている。
扉が叩かれたのは、その時だった。
侍従が顔を出す。
「王太子付法務参事殿。軍より連絡が」
「通してください」
リリアナは即答した。
伝令は短く息を整え、封書ではなく口で言った。口で言うのは、残したくないからだ。
「兵站監督室の記録の一部が……紛失したとの報告です」
言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が少しだけ冷えた。冬の冷え方ではない。意図の匂いだ。
リリアナは驚かない。驚かない代わりに、質問を一つだけ投げる。
「どの記録ですか」
伝令が視線を泳がせる。泳ぐのは、覚えていないのではなく、言いたくないからだ。
「……出庫伝票の控え、数枚。該当日の分だと」
「紛失の理由は」
「棚替えの際に、束が崩れた可能性がある、と」
可能性。
便利な言葉。責任を薄める言葉。
リリアナは鉛筆を手に取り、紙の端に小さく書いた。
――紛失(出庫伝票控え)
それから、伝令に目を上げた。
「報告者は誰ですか。兵站監督官補佐?」
「……はい」
リリアナは頷いた。
兵站の人間が“紛失”と言う時、それは本当に紛失か、紛失と扱うしかない圧がかかった時だ。
「分かりました。追加で確認します」
伝令がほっとしたように息を吐く。責められないだけで、人は安心する。責めることは目的じゃない。線を引くことが目的だ。
リリアナは、机の上の「先に押さえるもの」の紙を指で一度撫でた。
先に押さえる。
その言葉の意味が、今ようやく重くなる。
押さえる前に、消される。
消されるなら、消した跡を押さえる。
リリアナは立ち上がり、宰相府の廊下へ出た。歩く速度は変えない。速くすると、相手が焦りを嗅ぐ。焦りは、狙われる。
彼女の手元には、紙一枚。
そこに引かれた線は、まだ薄い。
だが薄い線ほど、消そうとした者の指紋が残る。
そして今、消そうとした匂いが、確かに漂っていた。




