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「断罪の令嬢 ― 弁護士の記憶が織りなす逆転劇」  作者: 月白ふゆ
第三章

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第五話 管轄の壁

王都の朝は、いつもより静かだった。


静かというより、人が音を出すのを控えている。軍法会議がある日、声は軽くなるほど危ない。重い声は目立つ。目立つものは、潰されやすい。


宰相府の執務室では、机の上の紙が一枚だけ、ずれて置かれていた。わざとだ。視線がそこへ吸い込まれる位置。紙は言葉より速い。


リリアナ・ド・ヴァルフォードは、その紙に目を落としたまま言った。


「軍は、こちらの意図を疑います」


宰相ヴィルヘルムは椅子に深く座り、指を組んで答える。


「疑わせておけばいい。疑いは感情だ。今必要なのは、拒めない順序だ」


王太子ユリウスは窓の外を一度だけ見て、すぐに机へ視線を戻した。


「軍は受領した。だが従うとは言っていない」


アーデルハイトが頷く。


「上官の口ぶりは明確でした。外部の口出しは拒む、と」


リリアナは淡々と返す。


「外部かどうかは、彼らの言い方次第です。だから言い方で勝ちます。外部ではなく、順序の確認です」


宰相が短く言った。


「行く」


王太子が立つ。


「私も出る。顔を見せるだけで、軍の言い訳は減る」


リリアナは首を振らない。否定しない。否定すると、争いの形が生まれる。


「殿下が出るなら、私は前に出ません」


王太子が眉を上げる。


「出ないのか」


「出ると、争いになります。殿下が立って、私は紙で線を引きます。順番です」


宰相が頷く。


「それでいい。政治ではなく手続きだ」



───


軍法務庁舎の門は、朝から硬かった。


衛兵の槍が斜めに入る。入る角度が、昨日より少しだけ鋭い。威嚇ではなく、境界線の提示だ。


王太子の馬車が止まると、衛兵はさすがに槍を戻した。戻すが、姿勢は崩さない。敬意と抵抗は両立する。


出迎えに出たのは軍法務の長、ガルツェン准将だった。礼は完璧で、目は冷たい。


「王太子殿下。ご足労、痛み入ります」


王太子は礼を受け、余計な挨拶を捨てた。


「手続きの確認に来た。結論に口を出す気はない」


准将の口元がわずかに動く。安心ではない。計算だ。


「承知しました。軍の秩序を乱さぬ範囲で、お答えいたします」


乱さぬ範囲。

その言葉が、門の内側の壁を示していた。


宰相が一歩前へ出た。


「乱さぬ範囲、というのは曖昧だ。確認するべきは秩序ではなく、保全だ」


准将は視線を宰相へ向け、丁寧に言う。


「宰相閣下、軍の秩序こそ保全です。秩序が崩れれば証拠も守れません」


言い返しは上手い。正しさの顔をしている。

だが、宰相は正しさを争わない。


「では、証拠を見せてください」


宰相は淡々と言った。短い。攻撃ではなく手順。


准将が、ほんの一瞬だけ間を置く。


「証拠閲覧は、軍法務の規定に従います。外部の閲覧は原則として――」


王太子が遮った。


「外部ではない。私の付属官が作成した保全指針に基づく確認だ」


准将が、視線を横にずらす。

そこにリリアナがいた。外套を纏い、前に出ない位置。だが視線は一点に定まっている。


准将は言葉を選ぶ。


「……王太子付の職務であることは承知しております。ただ、軍法会議に向けた証拠は軍の管理下にあります。閲覧は、会議の秩序を乱しかねません」


乱す、という言葉は拒否の柔らかい形だ。

柔らかいから、握り返しにくい。


宰相は言い返さない。代わりに書面を一枚出した。


「閲覧ではない。保全の確認だ。原本の所在、写しの管理、証言採用の前提となる独立性確認の手順。これらを提示してもらうだけでいい」


准将の目が細くなる。


「独立性確認?」


「証言が複数あるなら、なおさら必要です」


宰相の声は淡々としている。否定ではない。順序だ。


准将は、少しだけ笑った。礼儀の笑いだ。


「軍の証言は、軍の規律のもとで提出されます。規律が独立性です。揃っているのは、教育と秩序が機能している証です」


リリアナが、そこで初めて口を開いた。


声は小さい。だが室内の空気が、一段落ちる。


「規律は、同じ方向を向かせます」


准将が視線を向ける。


「王太子付法務参事殿。規律があるから軍は勝てます」


リリアナは頷いた。肯定から入る。否定しない。


「勝つための規律と、裁くための規律は違います」


准将の目が一瞬止まる。反射で反論しそうになり、言葉が遅れる。


リリアナは続けた。


「裁くなら、同じ方向を向いた証言が揃うことは“利点”ではなく“条件”です。条件が揃っているからこそ、確認が必要になります」


准将が硬い声で言った。


「確認は軍で済みます。外からの確認は、軍の秩序を乱します」


リリアナは、淡々と紙を差し出した。

一枚。

文字は少ない。余計な修飾がない。


「乱すのではなく、整えます。会議の前に、これだけ提示してください」


准将が紙を見る。視線が走る。

原本保全の所在と封印。

写しの作成者と保管者。

供述調書の作成過程。

証人の聴取の順番と、事前確認の有無。

神殿文書局の関与範囲。


そして最後に、淡い一文。


――保全に疑義がある場合、結論は再審対象となる。


准将の頬が、わずかに引きつった。

拒否すれば、再審の影が残る。

従えば、速度が落ちる。

速度が落ちれば、今日の会議が崩れる。


王太子が言った。


「軍の結論に口は出さない。だが、私の名で出した順序は無視させない」


准将は、礼を崩さずに言った。


「……承知しました。提示できる範囲で整えます」


提示できる範囲。

まだ逃げ道が残っている。


宰相は、そこを突かない。突けば政治になる。政治にすれば、軍は被害者の顔をする。


「範囲でいい。範囲を文書にして出せ」


宰相の言い方は、淡々としているのに逃げ道を削る。

範囲を文書にすると、後から見える。見えると、責任になる。


准将の目がわずかに揺れた。

だが、それ以上は揺れない。軍は揺れを見せない。



───


応接室に通され、提出を待つ間、廊下の奥が騒がしくなった。


足音が速い。命令の声が短い。革の擦れる音が重なる。

この時間に動くのは、会議の準備か、別の処理だ。


アーデルハイトが小さく言う。


「動きが早い……」


宰相は答えない。王太子も答えない。

答えない代わりに、リリアナが立ち上がった。


「確認します」


王太子が視線だけで許可する。

彼女は前に出ないと言ったが、前に出る必要のない場所に立つだけだ。


廊下へ出ると、憲兵が二列で歩いてきた。中央に一人。手首は縛られていない。だが、囲まれている。歩く速さが、物の移動のように一定だ。


レオン・ハルツだった。


顔色が悪い。目が焦点を結びきれていない。眠っていない目だ。眠れない夜を積み重ねた目。首元には薄い汗が光る。寒いのに汗をかくのは、身体が逃げ場を失っている証だ。


リリアナは足を止めた。止めただけで、空気が変わる。

憲兵の視線が瞬時に寄る。寄るが、止めない。止める理由を探している。


「どこへ」


リリアナは憲兵に問うた。声は静かだ。質問の形で、線を引く。


憲兵の一人が言う。


「移送です」


「移送先は」


「軍管轄の拘禁施設」


リリアナが言葉を選ぶ。


「会議前の移送は、供述と証拠の保全に影響します。誰の命令ですか」


憲兵が一瞬だけ黙り、次に言った。


「上官の命令です」


上官。

名前が出ない。名前が出ない命令は、責任が逃げる。


アーデルハイトが一歩出る。


「会議の前に移送? 予定にないはずだ」


憲兵は視線を逸らさずに言った。


「軍の秩序のためです」


また秩序。

秩序は万能の盾だ。


王太子が廊下に出てきた。空気がさらに固くなる。憲兵の背筋が一段上がる。


王太子が言った。


「移送の理由を文書で出せ」


憲兵は一瞬だけ戸惑う。文書は嫌がる。文書にすると責任になる。


「……後ほど」


「後ほどでは遅い」


王太子は低い声で言った。

低い声は、命令の形になる。


リリアナが、そこで言葉を足した。


「移送するなら、現場の保全記録も一緒に移送してください。供述調書の原本、作成過程の記録、面会記録、食事と睡眠の管理記録」


憲兵が目を見開く。


「それは……」


「順序です」


リリアナは淡々と返した。


「人を動かすなら、紙も動かす。紙が動かない移送は、保全に疑義が生じます」


疑義。

その単語が、廊下の空気を切った。


憲兵が、反射で後方の上官を探すように視線を動かす。

上官は廊下の端にいた。顔を出していない。出していないのに、命令は動いている。


宰相が遅れて廊下に出た。

一歩で状況を見て、言葉を削って言う。


「止めろとは言わない。だが、手続きを残せ」


止めろと言えば政治になる。

手続きを残せと言えば順序になる。


上官が、ついにこちらを向いた。目が冷たい。

彼は、王太子の前でも軍の顔を崩さない。


「軍の裁きに外部が口を出すのは不要です」


その言い方は、昨日と同じだった。

外部。

口出し。

不要。


王太子が答える。


「外部ではない。王太子付の職務だ」


上官は、わずかに口元を歪めた。


「言い換えただけです」


リリアナは、その言葉を否定しない。否定すると、敵の台を作る。


「言い換えではありません」


声は低く、短い。


「順序の確認です。結論に触れていません」


上官が言い返す。


「順序も軍のものです」


リリアナは、紙を一枚だけ取り出した。

さっき准将に見せたものと同じ形式。短い。硬い。


「移送命令書。移送先。理由。保全対象の一覧。担当者の署名。これを添えてください」


上官の目が一瞬動く。

紙は嫌いだ。

紙は後で刺さる。


「軍の内部規程に従います」


上官が吐き捨てるように言った。


宰相が返す。


「従えばいい。その規程を提示しろ」


上官は黙った。黙ると、余計なことを言わないで済む。

だが黙ると、宰相が勝つ。

宰相は沈黙に強い。


結局、上官は短く言った。


「……文書は出す。だが移送はする」


王太子が頷く。


「移送は止めない。手続きは止めさせない」


リリアナは、レオンの横顔を見た。

彼は何も言わない。言わせない空気がある。

だが目は、まだ折れていない。折れかけているだけだ。


憲兵が彼を連れて歩き出す。足音が遠ざかる。

遠ざかるほど、嫌な匂いが残る。


会議の前の移送。

それは秩序の名で行われる。

秩序は、口封じにも使える。


リリアナは、廊下の冷気の中で小さく言った。


「間に合うかどうかではなく、残るかどうかです」


王太子が視線を向ける。


「残す?」


「移送の文書が残れば、後で線が引けます。引ければ、再審の入口が生まれます。入口が生まれれば、速さは止まる」


宰相が頷いた。


「穴はできた」


アーデルハイトが苦く言う。


「軍は穴を塞ぎに来ます」


王太子が短く言った。


「塞がせない。だが政治にはしない」


その言葉は、今日の方針を決める。


軍の敵は人ではない。

命令を出した上官でもない。

神殿でもない。


縦割りだ。

管轄の壁だ。

それがある限り、正しさは届かない。


だからこそ、届かせるのは正しさではなく、順序。

順序だけが壁の隙間を通る。


遠ざかる足音の先で、被告が移されていく。

移送は、ただの手続きの顔をしている。

だが匂いは、口封じだった。


その匂いが消えないうちに、会議が始まる。

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― 新着の感想 ―
色々面倒くさいですけど、こういう手続きが蔑ろにされると、有能で時として傲慢な権力者が良くも悪くも専横を行い、大きな被害を出してしまう原因になるのでしょうね。 日中戦争当時、いわゆる南京虐殺の折、ある部…
ここは最終的に押し付けがばれて責任問題になって体制が崩れるところまで行きそう……。
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