第五話 管轄の壁
王都の朝は、いつもより静かだった。
静かというより、人が音を出すのを控えている。軍法会議がある日、声は軽くなるほど危ない。重い声は目立つ。目立つものは、潰されやすい。
宰相府の執務室では、机の上の紙が一枚だけ、ずれて置かれていた。わざとだ。視線がそこへ吸い込まれる位置。紙は言葉より速い。
リリアナ・ド・ヴァルフォードは、その紙に目を落としたまま言った。
「軍は、こちらの意図を疑います」
宰相ヴィルヘルムは椅子に深く座り、指を組んで答える。
「疑わせておけばいい。疑いは感情だ。今必要なのは、拒めない順序だ」
王太子ユリウスは窓の外を一度だけ見て、すぐに机へ視線を戻した。
「軍は受領した。だが従うとは言っていない」
アーデルハイトが頷く。
「上官の口ぶりは明確でした。外部の口出しは拒む、と」
リリアナは淡々と返す。
「外部かどうかは、彼らの言い方次第です。だから言い方で勝ちます。外部ではなく、順序の確認です」
宰相が短く言った。
「行く」
王太子が立つ。
「私も出る。顔を見せるだけで、軍の言い訳は減る」
リリアナは首を振らない。否定しない。否定すると、争いの形が生まれる。
「殿下が出るなら、私は前に出ません」
王太子が眉を上げる。
「出ないのか」
「出ると、争いになります。殿下が立って、私は紙で線を引きます。順番です」
宰相が頷く。
「それでいい。政治ではなく手続きだ」
───
軍法務庁舎の門は、朝から硬かった。
衛兵の槍が斜めに入る。入る角度が、昨日より少しだけ鋭い。威嚇ではなく、境界線の提示だ。
王太子の馬車が止まると、衛兵はさすがに槍を戻した。戻すが、姿勢は崩さない。敬意と抵抗は両立する。
出迎えに出たのは軍法務の長、ガルツェン准将だった。礼は完璧で、目は冷たい。
「王太子殿下。ご足労、痛み入ります」
王太子は礼を受け、余計な挨拶を捨てた。
「手続きの確認に来た。結論に口を出す気はない」
准将の口元がわずかに動く。安心ではない。計算だ。
「承知しました。軍の秩序を乱さぬ範囲で、お答えいたします」
乱さぬ範囲。
その言葉が、門の内側の壁を示していた。
宰相が一歩前へ出た。
「乱さぬ範囲、というのは曖昧だ。確認するべきは秩序ではなく、保全だ」
准将は視線を宰相へ向け、丁寧に言う。
「宰相閣下、軍の秩序こそ保全です。秩序が崩れれば証拠も守れません」
言い返しは上手い。正しさの顔をしている。
だが、宰相は正しさを争わない。
「では、証拠を見せてください」
宰相は淡々と言った。短い。攻撃ではなく手順。
准将が、ほんの一瞬だけ間を置く。
「証拠閲覧は、軍法務の規定に従います。外部の閲覧は原則として――」
王太子が遮った。
「外部ではない。私の付属官が作成した保全指針に基づく確認だ」
准将が、視線を横にずらす。
そこにリリアナがいた。外套を纏い、前に出ない位置。だが視線は一点に定まっている。
准将は言葉を選ぶ。
「……王太子付の職務であることは承知しております。ただ、軍法会議に向けた証拠は軍の管理下にあります。閲覧は、会議の秩序を乱しかねません」
乱す、という言葉は拒否の柔らかい形だ。
柔らかいから、握り返しにくい。
宰相は言い返さない。代わりに書面を一枚出した。
「閲覧ではない。保全の確認だ。原本の所在、写しの管理、証言採用の前提となる独立性確認の手順。これらを提示してもらうだけでいい」
准将の目が細くなる。
「独立性確認?」
「証言が複数あるなら、なおさら必要です」
宰相の声は淡々としている。否定ではない。順序だ。
准将は、少しだけ笑った。礼儀の笑いだ。
「軍の証言は、軍の規律のもとで提出されます。規律が独立性です。揃っているのは、教育と秩序が機能している証です」
リリアナが、そこで初めて口を開いた。
声は小さい。だが室内の空気が、一段落ちる。
「規律は、同じ方向を向かせます」
准将が視線を向ける。
「王太子付法務参事殿。規律があるから軍は勝てます」
リリアナは頷いた。肯定から入る。否定しない。
「勝つための規律と、裁くための規律は違います」
准将の目が一瞬止まる。反射で反論しそうになり、言葉が遅れる。
リリアナは続けた。
「裁くなら、同じ方向を向いた証言が揃うことは“利点”ではなく“条件”です。条件が揃っているからこそ、確認が必要になります」
准将が硬い声で言った。
「確認は軍で済みます。外からの確認は、軍の秩序を乱します」
リリアナは、淡々と紙を差し出した。
一枚。
文字は少ない。余計な修飾がない。
「乱すのではなく、整えます。会議の前に、これだけ提示してください」
准将が紙を見る。視線が走る。
原本保全の所在と封印。
写しの作成者と保管者。
供述調書の作成過程。
証人の聴取の順番と、事前確認の有無。
神殿文書局の関与範囲。
そして最後に、淡い一文。
――保全に疑義がある場合、結論は再審対象となる。
准将の頬が、わずかに引きつった。
拒否すれば、再審の影が残る。
従えば、速度が落ちる。
速度が落ちれば、今日の会議が崩れる。
王太子が言った。
「軍の結論に口は出さない。だが、私の名で出した順序は無視させない」
准将は、礼を崩さずに言った。
「……承知しました。提示できる範囲で整えます」
提示できる範囲。
まだ逃げ道が残っている。
宰相は、そこを突かない。突けば政治になる。政治にすれば、軍は被害者の顔をする。
「範囲でいい。範囲を文書にして出せ」
宰相の言い方は、淡々としているのに逃げ道を削る。
範囲を文書にすると、後から見える。見えると、責任になる。
准将の目がわずかに揺れた。
だが、それ以上は揺れない。軍は揺れを見せない。
───
応接室に通され、提出を待つ間、廊下の奥が騒がしくなった。
足音が速い。命令の声が短い。革の擦れる音が重なる。
この時間に動くのは、会議の準備か、別の処理だ。
アーデルハイトが小さく言う。
「動きが早い……」
宰相は答えない。王太子も答えない。
答えない代わりに、リリアナが立ち上がった。
「確認します」
王太子が視線だけで許可する。
彼女は前に出ないと言ったが、前に出る必要のない場所に立つだけだ。
廊下へ出ると、憲兵が二列で歩いてきた。中央に一人。手首は縛られていない。だが、囲まれている。歩く速さが、物の移動のように一定だ。
レオン・ハルツだった。
顔色が悪い。目が焦点を結びきれていない。眠っていない目だ。眠れない夜を積み重ねた目。首元には薄い汗が光る。寒いのに汗をかくのは、身体が逃げ場を失っている証だ。
リリアナは足を止めた。止めただけで、空気が変わる。
憲兵の視線が瞬時に寄る。寄るが、止めない。止める理由を探している。
「どこへ」
リリアナは憲兵に問うた。声は静かだ。質問の形で、線を引く。
憲兵の一人が言う。
「移送です」
「移送先は」
「軍管轄の拘禁施設」
リリアナが言葉を選ぶ。
「会議前の移送は、供述と証拠の保全に影響します。誰の命令ですか」
憲兵が一瞬だけ黙り、次に言った。
「上官の命令です」
上官。
名前が出ない。名前が出ない命令は、責任が逃げる。
アーデルハイトが一歩出る。
「会議の前に移送? 予定にないはずだ」
憲兵は視線を逸らさずに言った。
「軍の秩序のためです」
また秩序。
秩序は万能の盾だ。
王太子が廊下に出てきた。空気がさらに固くなる。憲兵の背筋が一段上がる。
王太子が言った。
「移送の理由を文書で出せ」
憲兵は一瞬だけ戸惑う。文書は嫌がる。文書にすると責任になる。
「……後ほど」
「後ほどでは遅い」
王太子は低い声で言った。
低い声は、命令の形になる。
リリアナが、そこで言葉を足した。
「移送するなら、現場の保全記録も一緒に移送してください。供述調書の原本、作成過程の記録、面会記録、食事と睡眠の管理記録」
憲兵が目を見開く。
「それは……」
「順序です」
リリアナは淡々と返した。
「人を動かすなら、紙も動かす。紙が動かない移送は、保全に疑義が生じます」
疑義。
その単語が、廊下の空気を切った。
憲兵が、反射で後方の上官を探すように視線を動かす。
上官は廊下の端にいた。顔を出していない。出していないのに、命令は動いている。
宰相が遅れて廊下に出た。
一歩で状況を見て、言葉を削って言う。
「止めろとは言わない。だが、手続きを残せ」
止めろと言えば政治になる。
手続きを残せと言えば順序になる。
上官が、ついにこちらを向いた。目が冷たい。
彼は、王太子の前でも軍の顔を崩さない。
「軍の裁きに外部が口を出すのは不要です」
その言い方は、昨日と同じだった。
外部。
口出し。
不要。
王太子が答える。
「外部ではない。王太子付の職務だ」
上官は、わずかに口元を歪めた。
「言い換えただけです」
リリアナは、その言葉を否定しない。否定すると、敵の台を作る。
「言い換えではありません」
声は低く、短い。
「順序の確認です。結論に触れていません」
上官が言い返す。
「順序も軍のものです」
リリアナは、紙を一枚だけ取り出した。
さっき准将に見せたものと同じ形式。短い。硬い。
「移送命令書。移送先。理由。保全対象の一覧。担当者の署名。これを添えてください」
上官の目が一瞬動く。
紙は嫌いだ。
紙は後で刺さる。
「軍の内部規程に従います」
上官が吐き捨てるように言った。
宰相が返す。
「従えばいい。その規程を提示しろ」
上官は黙った。黙ると、余計なことを言わないで済む。
だが黙ると、宰相が勝つ。
宰相は沈黙に強い。
結局、上官は短く言った。
「……文書は出す。だが移送はする」
王太子が頷く。
「移送は止めない。手続きは止めさせない」
リリアナは、レオンの横顔を見た。
彼は何も言わない。言わせない空気がある。
だが目は、まだ折れていない。折れかけているだけだ。
憲兵が彼を連れて歩き出す。足音が遠ざかる。
遠ざかるほど、嫌な匂いが残る。
会議の前の移送。
それは秩序の名で行われる。
秩序は、口封じにも使える。
リリアナは、廊下の冷気の中で小さく言った。
「間に合うかどうかではなく、残るかどうかです」
王太子が視線を向ける。
「残す?」
「移送の文書が残れば、後で線が引けます。引ければ、再審の入口が生まれます。入口が生まれれば、速さは止まる」
宰相が頷いた。
「穴はできた」
アーデルハイトが苦く言う。
「軍は穴を塞ぎに来ます」
王太子が短く言った。
「塞がせない。だが政治にはしない」
その言葉は、今日の方針を決める。
軍の敵は人ではない。
命令を出した上官でもない。
神殿でもない。
縦割りだ。
管轄の壁だ。
それがある限り、正しさは届かない。
だからこそ、届かせるのは正しさではなく、順序。
順序だけが壁の隙間を通る。
遠ざかる足音の先で、被告が移されていく。
移送は、ただの手続きの顔をしている。
だが匂いは、口封じだった。
その匂いが消えないうちに、会議が始まる。




