第四話 リリアナ、席を得る
アーデルハイトが宰相府へ戻ったのは、夜の更けた時間だった。
玄関の衛兵に名を告げると、相手は一瞬だけ眉を動かし、すぐに姿勢を正した。噂は速い。軍法会議が明日というだけで、王都の空気はもう一段冷えている。
廊下を進む。灯りは落ちているのに、机の上だけが明るい部屋がいくつもあった。紙の白さは夜でも目立つ。白いものは、まだ決まっていないものだ。決まっていないものほど、人は怖がる。
彼女が扉を叩くと、返事はすぐに来た。
「入れ」
執務室には、宰相ヴィルヘルムがいた。外套は脱いでいるが、疲れは見せない。疲れを見せると、それを利用されるからだ。机の上の書類は整理されている。整理されているのは、今日が終わっていない証拠でもある。
「状況を」
宰相は、問いの形だけで要求した。
アーデルハイトは立ったまま報告した。余計な形容を削って、事実だけを並べる。
「軍法務は門前で止めました。『管轄』を盾に、面会も資料確認も拒否です。供述調書は『整っている、署名待ち』。証言は複数で揃っていることを誇っています」
宰相の指が、机を一度だけ叩いた。
「揃っている、か」
「揃いすぎています。確認の独立性を問うと、逆に敵意を向けられました。軍では揃っていることが優秀、と」
「優秀という言葉は便利だな」
宰相は、淡々と紙束を一つ閉じた。閉じる音が、軽く聞こえる。軽い音ほど、重い決断が乗っている。
「それ以外は」
「神殿文書局が書式支援として入っています。記録係が供述を『整える』。軍法務はその言葉を疑っていません。今夜中に神殿側の『付記』が入る可能性があります」
宰相の目が、一瞬だけ鋭くなる。
「付記?」
「神託です。判断材料として」
沈黙が落ちた。沈黙は宰相の武器で、同時に部屋の温度を奪う。
「軍が神託を判断材料にするなら、速さが増す」
宰相が呟く。
アーデルハイトは頷いた。
「止めるなら、今夜です。ただ、押せば押すほど、軍は反発します」
「反発は予想できる。問題は、止め方だ」
宰相は視線を上げた。
「殿下は?」
「今夜も起きています。呼べばすぐに」
「呼べ」
宰相の声は静かだったが、指示は鋼のように短い。
アーデルハイトが扉を出ようとしたところで、宰相がふと付け足した。
「もう一人だ」
アーデルハイトは一瞬だけ首を傾げた。
宰相は、迷いなく言う。
「リリアナ・ド・ヴァルフォード」
その名が出た瞬間、アーデルハイトの胸の奥で、何かが合致した。
あの令嬢は、戦場に出ない。
だが、戦場の形を変える。
そして今必要なのは、正しさを叫ぶ声ではなく、速さが通らない条件だ。
「承知しました」
アーデルハイトは部屋を出た。
───
ユリウスが宰相府に来たのは、程なくしてだった。
護衛は最小限。夜の移動は目立つが、目立つこと自体を恐れる立場でもない。彼が扉をくぐった瞬間、室内の空気が少しだけ張った。張りは、期待と責任が混ざったものだ。
ユリウスは礼を省き、椅子に座る前に言った。
「軍の件か」
宰相が頷く。
「明日、軍法会議。速すぎます。止めるには、軍の顔を潰さずに止める必要がある」
ユリウスは眉を寄せた。
「軍の顔を潰さずに、どうやって」
アーデルハイトが答えるより先に、宰相が言う。
「権限の線を一本引く」
ユリウスが視線を上げる。
「線?」
「『結論』に口を出さない。『順序』にだけ口を出す。軍は結論に口を出されると反発するが、順序の話なら反発しにくい。反発しても、反発する側が不利になる」
ユリウスは少しだけ息を吐いた。
「順序……証拠保全か」
「そうです。証言が揃っているなら、それはそれで構わない。ただし揃った証言は、検証がないと刃になります。検証の入口を作る」
ユリウスは短く頷いた。
「それを誰がやる」
宰相の視線が、机の端の小さな封書に落ちる。まだ開けていないものだ。封の色が嫌な予感を持っている。
「リリアナです」
ユリウスが、少しだけ意外そうに目を細めた。
「あの令嬢に、軍を動かせるのか」
宰相は否定も肯定もしない顔で言った。
「動かすのではありません。止めるのです。止め方を作る。彼女は、止める順序を知っています」
アーデルハイトが補足する。
「軍は外部の介入を嫌います。ですが、介入の形を変えれば入れます。彼女が言うなら、信仰を否定しないまま、裁きの根拠から外す線も引ける」
ユリウスの指が、椅子の肘を軽く叩いた。
「つまり、彼女に席を与える。席がなければ、ただの口出しになる」
「その通りです」
宰相は即答した。
「王太子付の職です。名目は再審手続の整備。証拠保全の指針作成。表に出ない仕事。軍も『書式』を重視している以上、書式と順序の権限を拒む理屈が薄い」
ユリウスは、少しだけ笑った。笑いというより、納得の息だ。
「なるほど。軍が大事にしているのは速さと書式。なら、書式で止める」
宰相は頷く。
「速さが通らない条件を、書式で作る。彼女の得意分野です」
ユリウスは決めた。決めるのが彼の仕事だ。
「呼べ」
アーデルハイトが動こうとしたが、ユリウスが手を上げて止めた。
「アーデルハイト、君は軍の反発の癖を把握している。宰相、草案を用意してくれ。私は本人に話す」
宰相は短く頷いた。
「今夜中に」
───
リリアナ・ド・ヴァルフォードは、宰相府の奥の小部屋に通された。
豪奢ではない。無駄な飾りもない。机と椅子、灯り、そして湯気の立つ茶。こういう部屋の方が、話は進む。飾りが多いと、余計な言葉が増える。
彼女は外套を脱がずに座った。落ち着いている。落ち着きは余裕ではなく、習性だ。感情を先に出すと、相手に形を与える。
扉が開き、ユリウスが入った。
護衛は外。二人きりではないが、話に必要なのはこの二人だ。
ユリウスは座りながら言った。
「急に呼び出して悪い。軍で件が起きている」
リリアナは頷く。
「明日の軍法会議の件ですね」
「情報が早いな」
「速い裁きは噂も速いです」
淡々と言う。言い方が刺々しくないのに、刺さる。
ユリウスは本題に入った。
「君に頼みがある。いや、頼みという形では弱い。職を用意する」
リリアナは目を瞬かせたが、驚きは見せない。
「王太子付です」
ユリウスが続ける。
「名目は二つ。再審手続の整備と、証拠保全の指針作成。君は表に出ない。だが、紙で線を引ける」
リリアナは少しだけ視線を落とした。考える癖だ。すぐに肯定しない。肯定すると、責任が曖昧になる。
「権限の根拠が必要、ということですね」
ユリウスは頷いた。
「軍は外部の口出しを嫌う。だが、君が王太子付なら『外部』ではない。私は、軍の結論には口を出さない。しかし順序には口を出す」
リリアナが静かに言う。
「結論に口を出さない、と言い切れるのは強いですね。軍はそこに反発しますから」
「反発させない」
ユリウスの声が低くなる。
「反発するなら、反発する側の理屈が折れる形にする」
リリアナは茶に手を付けず、机の上の紙を見た。紙はまだ白い。白い紙は可能性で、同時に責任だ。
「私は、軍の中で正しさを語れません」
彼女は先に釘を刺す。
「正しさは、正しさで殴り返されます。必要なのは矛盾です。矛盾があれば、速さは止まる」
ユリウスは短く頷いた。
「君の言葉で聞きたい。止め方を」
リリアナは、ようやく茶に手を伸ばした。ひと口飲む。喉を潤すためではない。間を整えるためだ。
そして、机の上の白い紙に鉛筆を置く。
羽根ペンではない。鉛筆。
消せる。書き直せる。
整えるための道具だ。
「一枚で足ります」
リリアナが言った。
「軍は紙が好きです。整った紙なら、速度に乗ります。だから、速度に乗らない紙を一枚混ぜます」
ユリウスが眉を寄せる。
「乗らない紙?」
「『証拠保全違反の疑義』です」
リリアナはさらりと言った。
「結論ではない。順序の問題です。軍は順序を否定しづらい。否定すると軍が乱れる」
鉛筆が走り始める。短い文。箇条書き。無駄がない。
「――軍法会議に付す前に、最低限保全すべき記録」
「――原本保全の要件」
「――写し採用の要件」
「――証言採用の条件(独立性確認の手順)」
書きながら、彼女は言う。
「証言が揃っている時ほど、独立性の確認が必要です。軍の言葉で言い換えるなら『同じ教育を受けた者の視界は似る』。似る視界は揃いやすい。揃いやすいから、揃ったことを優秀と誤解しやすい」
ユリウスが、ほんの少し口角を上げた。
「軍に嫌われない言い方だ」
「嫌われない必要はありません。拒めない言い方が必要です」
リリアナは言い切った。
「嫌われるかどうかは感情です。拒めるかどうかは手続きです」
鉛筆が止まる。紙一枚に、線が引かれた。
「この紙は、軍法務へ『提案』ではなく『指針』として送ります。王太子付の職務として。宰相府からではなく、殿下の名で」
ユリウスは頷いた。
「私の名で出せば、軍は受け取らざるを得ない」
「受け取っても、従うとは限りません」
リリアナが静かに言う。
「だから二段目です。従わなかった場合の不利益を、紙の中に埋めます」
ユリウスの目が少しだけ鋭くなる。
「埋める?」
「例えば、こうです」
リリアナは紙の一角に短く書き足した。
「――本指針に反し、原本保全に疑義が生じた場合、当該会議の結論は再審手続の対象とする」
たった一行なのに、空気が変わった。
速さの中に、遅さの刃が混ざる。
ユリウスが小さく息を吐く。
「軍は嫌がるだろう」
「嫌がります。でも、嫌がっても従う方が得になります。従わないと、結論が後でひっくり返る可能性が生まれる。軍は体面を最優先する。体面を守るなら、最初から順序を守る方が安い」
ユリウスは、机の上の紙一枚を見た。
派手な言葉はない。
脅しもない。
ただ、手続きだけがある。
「君は前に出ない」
ユリウスが言う。
「出ません。出ると標的になります。標的になると、次の案件で使えない」
リリアナは淡々と返した。
「私は矢ではなく、矢筒です。矢を揃える側です」
その比喩は軽いのに、中身は重かった。
ユリウスは決めた。
「任命する。今夜、書面を作る」
リリアナは一度だけ頷いた。
「条件があります」
ユリウスが目を細める。
「言ってくれ」
「私の仕事は、誰かを断罪することではありません。断罪は敵を作ります。必要なのは、裁けない形にすることです。裁けない形にした結果、罪が落ちるなら落ちる。それは順序の帰結です」
ユリウスは迷いなく頷いた。
「構わない。私は裁きの根拠を守りたい。勝ちたいわけではない」
リリアナが、ほんの少しだけ表情を緩めた。
緩めたのは笑いではなく、確認の合図だ。
「では、進めます」
───
深夜、宰相府の文書室が動いた。
任命書。
職務規程。
付随する権限の範囲。
宰相とユリウスの署名。
そして、リリアナの一枚紙が複写され、封書に収められる。
宰相はそれを見て言った。
「紙一枚で、軍の速度を鈍らせる」
アーデルハイトが答える。
「鈍れば、息ができます」
宰相が頷く。
「息ができれば、矛盾を探せる」
その会話は短い。短いほど、決まっていることが分かる。
封書は、夜明け前の伝令に託された。
───
朝、軍法務庁舎に封書が届いた。
蝋印は王太子のもの。
重い。封を切る前から重い。
軍法務の担当官は一瞬だけ眉を動かしたが、すぐに姿勢を正し、封を切った。内容を読んだ瞬間、喉が鳴る。
「……王太子付、法務参事?」
彼は呟いた。声は小さいのに、部屋にいる者全員が耳を立てた。王太子付という言葉は、それだけで命令に近い。
担当官は、次の紙を読み進める。
証拠保全の指針。
原本保全。
写し採用の要件。
証言の独立性確認。
そして、最後の一行。
――指針に反し原本保全に疑義が生じた場合、当該結論は再審手続の対象とする。
担当官は、紙を机に置いた。置いた音が、硬い。
上官が入ってきた。肩章が光る。
「何だ」
担当官は、王太子の蝋印を示した。
「殿下からです。王太子付の職が新設されました。リリアナ・ド・ヴァルフォード……法務参事。再審手続と証拠保全の指針」
上官の目が細くなる。
「外部が、軍に口を出すのか」
担当官は言い淀んだ。
「外部ではありません。殿下付です」
上官の口元がわずかに歪む。
「言い換えただけだ」
その言葉は、苛立ちの本音だった。
軍にとって、裁きは軍のものだ。
外から線を引かれるのは屈辱に近い。
上官は紙を掴み、ざっと目を通し、吐き捨てるように言った。
「結論に口を出さない? 順序だけ? 都合のいい言葉だ」
担当官が慎重に言う。
「しかし、殿下の名です。受領しないわけには」
上官は、苛立ちを隠さずに言った。
「受領はする。だが従うかどうかは別だ。軍の裁きに外部の口出しは不要だ」
不要。
拒否。
その空気が部屋に広がる。
担当官は、紙の最後の一行をもう一度見た。
従わなければ、後でひっくり返る可能性が生まれる。
ひっくり返るのは、軍の体面に致命傷だ。
体面を守るなら、順序を守る方が安い。
その理屈は分かる。分かるから腹が立つ。
上官が言い切った。
「外部の口出しは拒む。軍は軍でやる」
担当官は、低く返した。
「……承知しました」
承知は従うことではない。
承知は、受け取ったという事実の確認だ。
封書は受領された。
だが、その瞬間に別の戦いが始まった。
速さで人を潰す裁きの中に、
紙一枚で引かれた線が混ざった。
軍は、その線を嫌う。
嫌うからこそ、線は効く。
そしてリリアナは、表に出ないまま席を得た。
これから先、ただの口出しではなく、手続きとして触れられる席を。
扉の向こうで、軍法会議の準備が進む。
整った証言。整った調書。整った空気。
その整いに、拒まれかけた一枚の紙が、静かに刺さっていた。




