第三話 証言が主役になると死ぬ
夜が更けるほど、兵舎は静かになるはずだった。
実際は逆で、静かになるのは音だけだった。
気配は濃くなる。視線は刺さる。噂は、声にしないぶん粘る。
レオン・ハルツの名は、夕食の湯気の中で何度も溶けて、何度も戻ってきた。誰かが言いかけて、飲み込む。飲み込んだ言葉の代わりに、箸が止まる。止まった箸が、また動く。その動きが、いつもより遅い。
「……明日、だろ」
若い兵が小声で言い、隣がすぐに返した。
「余計なこと言うな」
そのやり取りが、ここ数日で何十回も繰り返されている。
疑うな、従え。
その空気は、命令より強い。
兵舎の外、軍法務庁舎では灯りが消えない。そこは夜の方が働く場所だった。裁きの準備は、朝では遅い。速く終えるためには、前夜に整える必要がある。
会議室の机には紙束が並び、インクの匂いが濃い。
目撃証言の調書。
受け渡し記録。
当番票の写し。
門衛の通行記録の抜粋。
そして、被告の供述調書――まだ署名の欄だけが白い。
白い欄があること自体が、予定通りだった。
───
夜半、憲兵隊詰所の一角に、班長と副班長、それに古参兵が呼び出されていた。昼間の会議で「整えた」はずなのに、もう一度呼ばれる。整ったはずのものは、夜になると崩れやすい。崩れる前に固め直す。
上官は椅子に座らず、壁際に立ったまま言った。
「明日のための確認だ。簡潔に答えろ」
簡潔。
その言葉が出ると、人は細部を捨てる。
細部が捨てられると、矛盾は見えなくなる。
机の向こうには、神殿文書局の記録係がいた。灰の外套、丁寧な所作、感情のない目。ペン先が、呼吸みたいに動く。
「あなたは昨夜、被告が補給庫の前にいるのを見た」
副班長に向けられた文は質問の形をしていない。
肯定の形で差し出される。
副班長は唇を動かした。
「……見た、というか。通路の角で――」
「見た」
記録係の声は柔らかい。柔らかいが、戻す気がない。
「あなたは“補給庫の前”で被告を視認した。時刻は第二鐘の直前。これで整います」
整います、という言い方が怖かった。
整った瞬間に、別の現実が生まれる。
副班長は、目を伏せて言った。
「……はい」
班長にも同じことが続いた。鍵の確認。手順の確認。被告の態度。金回り。
ひとつひとつは小さい。だが、束になると重い。束が重くなると、人は潰れる。
古参兵が、喉を鳴らした。
「俺は……金回りなんて、よく分からん。元々、あいつは――」
「“よく分からない”は使えません」
記録係が淡々と言った。
「分からない、という供述は、あなたの注意力の欠如になります。軍法会議は、注意力の欠如を嫌います」
古参兵が目を見開く。
「え……」
上官が短く言う。
「余計なことは言うな」
それで終わりだ。
古参兵は、息を吐いて、結局こう言った。
「……最近、少し、そう見えた」
その瞬間、ペンが走る。
“最近、金回りが良く見えた”。
“横流しの動機を補強”。
“同僚からも異変が認識されていた”。
誰もそんな文章を口にしていないのに、紙の上ではそうなる。
紙は、言葉を増やし、結論を早める。
記録係は、顔を上げないまま言った。
「よろしい。証言が揃いました。揃っているのは、優秀です」
上官が頷く。
「優秀だ」
班長の背中に、冷たい汗が流れた。
優秀。
それは褒め言葉の形をしている。だが実際は、逃げ道が塞がった合図だ。
証言が揃うと、真実は不要になる。
揃った証言が、真実の顔をする。
───
同じ夜、別の場所で、別の紙が机に置かれていた。
宰相府の調査官アーデルハイトは、軍法務から届いた形式的な通知を読み、指先で紙を一度だけ叩いた。叩く音は小さい。だが、部屋の中ではそれがいちばん強い音に聞こえた。
「……軍法会議、明日。被告、下級兵。罪状、軍需品横流し。証人、複数。神殿文書局、書式支援」
淡々と読み上げたあと、彼女は紙を伏せた。
軍の裁きは速い。
速さが秩序を守る。
その理屈自体は、否定しにくい。
だが、速さがある場所では、検証が死ぬ。
そして検証が死ぬと、証言が王になる。
アーデルハイトは立ち上がり、外套を取った。
宰相府の職務として、軍に直接踏み込む権限は薄い。だが、動かない理由にもならない。
夜の街を抜け、軍法務庁舎の門に到着すると、衛兵が槍を斜めにして止めた。
「宰相府の調査官アーデルハイトだ。軍法会議の案件について確認に来た」
衛兵は一瞬迷い、上官を呼びに走る。
やがて現れた軍法務の担当官は、礼はするが、目は硬い。
「調査官殿。ご足労は感謝します。ただ、本件は軍の管轄です」
管轄。
その言葉が出た時点で、扉は半分閉まる。
「承知している。だが、関係資料の保全と手続きの整合性は、王都全体の秩序に関わる」
担当官は笑わない。
「王都の秩序と、軍の秩序は同じではありません」
それを言われると、次に出るのは決まっている。
軍は独立している。
軍は迅速でなければならない。
軍の裁きに外が口を出すと、指揮系統が乱れる。
アーデルハイトは、言葉を削って言った。
「私は結論に口を出しに来たのではない。証拠の扱いに矛盾がないか確認したい」
担当官が即答した。
「矛盾はありません。証言は複数、記録も整っています」
整っています。
ここでも、整うが出る。
「……複数の証言が、どの程度の独立性を持っている」
「独立性?」
担当官が眉を動かす。
「軍では、証言が揃っていることが重要です。揃っているのは、現場が優秀だからです」
優秀。
その言葉は、今夜何度も繰り返されたらしい。
「証言が揃いすぎる時、作為の可能性もある」
アーデルハイトがそう言うと、担当官の目がさらに硬くなる。
「調査官殿。軍の証言に作為があると言うのですか」
言葉の罠が来た。
ここで否定すれば議論は終わる。
肯定すれば、敵が増える。
アーデルハイトは、淡々と視線を逸らさずに答えた。
「可能性の確認だ。作為があると決めているわけではない」
担当官は一礼した。
「確認は不要です。軍は手続きで動いています。明日、軍法会議で判断されます」
手続き。
その言葉も、正しい顔をしている。
だが手続きが正しいとは限らない。手続きの中身が、整えられているだけかもしれない。
「被告の供述調書は」
アーデルハイトが問うと、担当官は間髪入れずに言った。
「整っています。署名待ちです」
署名待ち。
つまり、まだ自白は取れていない。
だが“署名待ち”という言い方は、署名が当然だと言っている。
アーデルハイトは、息を吐いた。
「被告と面会できるか」
担当官は首を振る。
「明日の会議前の面会は認められません。外部の接触は、供述の汚染になります」
汚染。
その言葉は便利だ。触れさせない理由になる。
触れさせないなら、整えたものが守られる。
「……被告は弁明の支援を受けられるのか」
担当官は淡々と言った。
「軍法会議で弁明できます。以上です」
弁明できる。
できると、するは違う。
弁明の場があっても、時間がなければ弁明は成立しない。
アーデルハイトは、それ以上踏み込まず、門を出た。
このまま押せば、管轄の壁にぶつかって終わる。終わるだけならまだいい。軍が「宰相府が介入した」と反発すれば、被告の立場がさらに悪くなる。
王都に戻る道は冷たい。
冷たい道を歩きながら、アーデルハイトは、あえて一つの可能性を頭から追い出した。
“裁きの正しさ”を語ること。
それは、この場では逆効果だ。正しさは正しさで殴り返される。
必要なのは、正しさではなく、矛盾だ。
矛盾があれば、速さは止まる。
速さが止まれば、検証が生きる。
そして検証が生きれば、証言は王ではなくなる。
───
翌朝、軍法務庁舎は、朝の空気が薄い。動く人間の方が空気を作っている。
会議室では、証人が並んで待っていた。
班長、副班長、古参兵、門衛の代表、補給庫の担当官。
皆、同じ方向を向き、同じように背筋を伸ばしている。背筋を伸ばすのは礼儀だが、ここでは“揃う”ためでもある。
軍法務の担当官が言った。
「証言は簡潔に。昨日の確認通りに」
昨日の確認通り。
つまり、言葉の形は既に決まっている。
班長は小さく頷いた。
頷くことで、責任が軽くなる気がする。頷くことで、自分が命令に従ったことになる。命令に従うと、罪は薄まる。
副班長は唇を噛んでいた。
彼の中に残っているのは疑いではない。恐れだ。
言ったことが、誰かを潰す。
潰すと分かっているのに、止められない。止めると自分が潰れる。
古参兵は、目を閉じていた。
目を閉じていれば、目撃していないのと同じ気がする。だが紙の上では、目撃している。
門衛の代表は、落ち着いている。
落ち着けるのは、門衛が“内部”ではないからだ。部隊の体面とは距離がある。その分、証言が機械になる。
「荷車を見た。時刻は第二鐘。庫の前に被告がいた」
その文は、口に出す前から完成している。
完成した証言は強い。
強すぎて、真実が入る余地がない。
───
レオンは、別室で待たされていた。
窓はない。
床は冷たい。
椅子は硬い。
硬いのは、心を柔らかくするためだ。
柔らかくなると、折れやすい。
憲兵が言った。
「まもなく会議だ。最後の確認をする」
向かいには、神殿文書局の記録係が座っている。昨日と同じ位置、同じ姿勢、同じペン。
「あなたの供述は整いました」
記録係が穏やかに言う。
レオンは顔を上げない。
「……整ってない。俺は、やってない」
記録係は、否定しない。否定すると争いになる。争いは時間を食う。時間は敵だ。
「あなたが“やっていない”と言うなら」
記録係は淡々と続ける。
「鍵の管理の落ち度を認めてください。それなら、あなたの言葉は短くなります。短い言葉は通ります」
通る。
通るという言い方が、裁きの中身を示していた。真実が通るのではない。形が通る。
レオンは、喉を鳴らした。
「落ち度って言ったら、俺が悪いってことになる」
記録係は、穏やかに首を傾けた。
「軍では、落ち度は誰にでもあります。落ち度を認めるのは、秩序を守る協力です」
協力。
協力すれば、軽くなる。
軽くなると言われると、人は協力したくなる。
協力した瞬間、真実は遠ざかる。
レオンは、拳を握った。
「俺は……」
言葉が続かない。
続ければ続けるほど、不利になる空気がある。
言葉が武器ではなく、刃物になる空気。
記録係が、紙を一枚差し出した。
署名欄だけが、白い。
「ここに署名を」
レオンは、紙を見た。
紙の上の文章は、整いすぎている。
自分の声ではない。自分の言い方ではない。自分の息遣いがない。
「……俺、こんな言い方してない」
記録係は淡々と言う。
「あなたの言葉を、軍法会議に適する形に整えました。あなたのためです」
あなたのため。
その言葉ほど危ないものはない。
憲兵が言った。
「時間がない。明日ではない。もうすぐだ」
もうすぐ。
速さが喉を締める。
「署名しないなら、どうなる」
レオンが絞り出すと、憲兵は言った。
「供述拒否として扱われる」
「供述拒否は、不利だ」
記録係が、穏やかに追い打ちする。
「不利だ。つまり、重くなる。重くなるのは、あなた自身です」
レオンは、目を閉じた。
閉じると、兵舎の音が聞こえる気がする。笑い声、食器の音、足音。戻りたい。だが戻れない。
被告は貴族ではない。
家が動かない。
金も動かない。
動くのは、紙と空気だけ。
空気に逆らうと、息ができない。
───
会議室の扉の外で、軍法務の担当官が言った。
「証言は揃っている」
上官が頷く。
「揃っているのは優秀だ」
また優秀だ。
証言が揃うことが、すでに価値になっている。
価値になった瞬間、揃わないものは排除される。矛盾は排除される。疑問は排除される。
そこへ、伝令が駆け込んできた。
息を切らしているのに、姿勢だけは崩さない。崩すと“秩序”が乱れる。
「軍法務殿。神殿より封書。至急とのことです」
封書には、神殿の印。
赤い蝋が固く、割ると音がする。
担当官が受け取り、上官に目で合図した。上官は一度だけ頷く。許可が出たということだ。
封が切られ、紙が引き出される。
「……神託の付記」
担当官が小さく呟いた。
会議室の空気が、ひとつ固くなる。
剣を抜く前の静けさに似ている。
上官が言った。
「これで、迷いは消える」
迷いが消える。
つまり、検証が消える。
担当官は紙を整え、議事録係に渡した。
「会議の判断材料に加える。記録に残せ」
残す。
残すのは、真実ではなく、形。
証言が主役になると、人は死ぬ。
証言が揃いすぎると、疑う余地が消える。
そして、疑う余地が消えた場所に、神託の付記が落ちる。
落ちた瞬間、裁きは速くなる。
扉の向こうで、被告が呼ばれる。
その声は大きい。大きいのに、届く先は一つしかない。
「――被告、入れ」
レオンは、署名欄の白さを最後に見て、立ち上がった。
足が自分のものではないみたいに重い。
速すぎる裁きの中で、最後に残るのは、
整った証言と、整った紙と、
押し込まれた沈黙だけだった。




