第十一話 裁けない形にする
裁けない形にする、というのは逃がすことじゃない。
むしろ逆だ。
逃げ道だけを潰して、
殴り合いの場所を「制度」に移す。
感情で叩けば、感情で叩き返される。
権威で押せば、権威で押し返される。
だから、紙で終わらせる。
紙で始めたものは、紙で終わらせる。
宰相府の会議室には、朝から人が増えていた。
宰相ヴィルヘルム。
皇太子ユリウス。
調査官アーデルハイト。
監査局の担当官。
法務官。
議事録係。
そして、控えの侍従が二名。
誰も声を張らない。
しかし空気は張っている。
机の中央に置かれた紙束は、もう“資料”ではない。
結論そのものだ。
アーデルハイトが、淡々と整理を始める。
「本日の目的は三つです」
指を一本立てる。
「一、クラリス夫人の罪の成立可否を“証言なし”で確定する」
二本目。
「二、伯爵家の訴えを“虚偽”として断罪せず、
“誘導された構成”として差し戻す」
三本目。
「三、会計・徴税ラインの実務官側を“政治闘争”ではなく、
監査対象として手続きに落とす」
宰相が頷く。
「誰かを断罪しない。
だが、誰も逃がさない」
その一言で、方向が揃った。
最初に、クラリスの件だ。
法務官が、淡々と確認する。
「罪状は横領および背信。
立証には、資金の流れ、帳簿、意思の確認が必要」
「意思」
その言葉が、重い。
人の意思は折れる。
だから、ここは折れないものへ寄せる。
アーデルハイトが言う。
「両替商の税帳。
王都の門番通行記録。
監査台帳。
委託金口座の出入り。
この四つの一致から、写し帳簿の記載は成立しません」
監査局の担当官が補足する。
「成立しない以上、横領の根拠が崩れる。
金はそのルートで動いていない」
法務官が頷く。
「つまり、横領の立証は不能」
宰相が、低く言う。
「背信は」
アーデルハイトが淡々と答える。
「背信は、被告が不利益を認識し、故意に加担した証拠が要ります。
その証拠は、伯爵家側の証言と、場で整えられた証言録しかない」
「証言録は、神殿外の“宴会”で作られた形跡がある」
宰相が短く言う。
「採用できない」
法務官が結論を置く。
「罪不成立、が妥当です。
少なくとも、現時点の資料では裁けません」
ユリウスが静かに言った。
「裁けない、でいい」
勝ちでも負けでもない。
ただ、裁けない。
それが一番強い。
次に、伯爵家の訴えをどう扱うか。
ここで宰相が言葉を選んだ。
「虚偽告訴で叩くことは可能だ。
だが、叩けば政治になる」
監査局の担当官が頷く。
「政治になれば、守りが働きます。
神殿も、貴族も、互いを庇い合う」
アーデルハイトが淡々と言う。
「だから、差し戻します。
“証拠が成立しないため受理できない”。
それだけです」
法務官が首を傾げる。
「差し戻し理由は、何を主に据えますか」
アーデルハイトは迷わない。
「金の流れの矛盾。
写し帳簿の成立不能。
そして原本不在」
宰相が低く言った。
「原本は火災で焼失、という主張だったな」
「はい」
アーデルハイトは頷く。
「ですが、写しの作成日が火災より前で、
訴えの日付と火災日が一致する。
“準備されていた”と判断できます」
法務官は紙をめくりながら言う。
「準備されていた、と書くと攻撃になります」
宰相が淡々と返す。
「攻撃しない。
“疑義が解消されない”。
“根拠資料が成立しない”。
この言い方で十分だ」
言葉は、刃にも盾にもなる。
宰相は盾の言葉を選んだ。
「伯爵家の訴えは、受理に足る根拠を欠く。
ゆえに差し戻し。
追加資料提出を求める。
原本に代わる第三者記録の提出を求める」
ユリウスが小さく言った。
「出せない」
宰相が頷く。
「出せない。
だから、この訴えは実質止まる」
止まる。
それが“裁けない形”の核だった。
三つ目。実務官ライン。
ここが一番危ない。
相手は貴族ではない。
神官でもない。
実務官だ。
政治の盾ではなく、制度の鎧を着ている。
監査局の担当官が言う。
「会計監督官補佐グレゴールは、
“地方財政再建”を理由に金の動きを正当化しています」
宰相が淡々と問う。
「再建計画の記録は」
「存在します。ただし検討段階。
しかし、委託金口座の動きと一致する箇所がある」
アーデルハイトが言う。
「つまり、訴えの進行と並行して、
権利移転の準備が進んでいた」
法務官が眉を動かす。
「その事実だけでは違法とは言い切れない」
「言い切りません」
宰相が即答する。
「だから監査だ。
“違法かどうか”ではなく、
“運用が適正かどうか”を問う」
監査局の担当官が頷く。
「監査は、違法の有無より先に、
手続きと整合性を見ます。
そこに綻びがあれば、行政処分が可能になる」
ユリウスが静かに言った。
「失脚させる必要はない」
宰相が頷く。
「動線だけ潰せばいい。
次に同じ手を使えないようにする」
アーデルハイトが淡々と付け加える。
「委託金口座の出入りを凍結するわけではありません。
ただし、該当の取引は一旦保留。
監査終了まで新規支払い停止」
監査局の担当官が短く言う。
「それだけで、相手の手札は死にます」
金の手札が死ねば、権利は動かない。
権利が動かなければ、クラリスを潰す意味が薄れる。
薄れた瞬間、訴えはただの紙束に戻る。
宰相は議事録係へ視線を向けた。
「今の内容で、手続き案を整えろ」
議事録係が頷く。ペンが動く。
そこへ、もう一つの“圧”が来た。
侍従が封書を持って入ってくる。
神殿からの追加文書。
「宰相閣下。
神託の付記に関する補足文書が届いております。
“裁きの迅速化を望む”と」
宰相は、開かない。
開かないという行為が、拒絶だった。
ユリウスが静かに言った。
「神殿の願いは受け取る。
だが、裁きの根拠にはしない。
昨日と同じだ」
宰相が頷く。
「同じ線を引き続ける。
ここで揺れたら、終わる」
監査局の担当官が言う。
「神殿は“正しさ”を失いたくない。
だから強く出る。
しかし、正しさが裁きを侵せば、制度が壊れる」
ユリウスは短く言った。
「壊させない」
その言葉は、皇太子としての意志だった。
手続き案が整う。
宰相が、読み上げる。
声は低い。淡々としている。
だが、一語一語が重い。
「第一。被告クラリス夫人について。
提出資料のみをもって罪の成立を認めることはできない。
よって、現時点で罪不成立とする」
「第二。伯爵家の訴えについて。
根拠資料に重大な矛盾があり、原本に代わる第三者記録も欠く。
よって、訴えは差し戻しとし、追加資料の提出を求める」
「第三。関連する資金移動および徴税権に関する運用について。
会計・徴税ラインを監査局の調査対象とし、
該当取引は監査完了まで保留とする」
読み終えたとき、部屋は静かだった。
派手な勝利はない。
歓声もない。
ただ、逃げ道が消えていく音がする。
ユリウスが言った。
「これが“裁けない形”だ」
宰相が頷く。
「裁かない。
裁けないから裁かない。
その代わり、記録で封じる」
アーデルハイトが淡々と確認する。
「クラリス夫人は、保護下を継続しますか」
宰相が即答する。
「継続。
ただし、段階的に制限を緩める」
ユリウスが短く言った。
「折れないための距離を作る」
それが、現実的な優しさだった。
その夕方、クラリスは宰相府の小さな部屋に呼ばれた。
豪華な場ではない。
それが救いだった。
宰相ヴィルヘルムが、淡々と告げる。
「あなたの罪は成立しない。
現時点で、罪不成立とする」
クラリスは息を呑み、唇が震えた。
「……本当に、私は」
ユリウスが短く言う。
「潰されない」
勝った、ではない。
救われた、でもない。
ただ、潰されない。
それが一番現実だった。
アーデルハイトが淡々と補足する。
「ただし、相手は納得しません。
“納得しない”こと自体を武器にしてきます」
クラリスは頷く。
怖い。
でも、怖いから黙る、はもうやらない。
宰相は最後に言った。
「あなたは、守られる。
だが、守られるだけでは終わらない。
次からは、あなた自身も守り方を覚える」
クラリスの目に、ようやく芯が入った。
「……はい」
小さな返事だった。
でも、折れていない返事だった。
夜。
宰相府の回廊で、ユリウスが一人きりになった瞬間、
短い封書が手渡された。
差出人名はない。
だが、分かる。
紙の匂いが、冷たい。
中の文は短い。
――信仰は否定しない。裁きの根拠にしない。
――線を引けたなら、次は守り方を増やしてください。
署名はない。
それで十分だった。
ユリウスは紙を畳み、袖にしまう。
表に出ない。
だが、線だけは残す。
宰相が言った言葉が、頭に残る。
「誰も断罪しないが、逃げ道は塞ぐ」
勝ちは派手じゃない。
でも、これが制度の勝ち方だ。
そして、制度が勝つとき、
世界は少しだけ変わる。




