幸福
温かい。頭の下も頬も背中も、布団よりも温かい何かにすっぽりと包まれている。泣きたくなるほど心地のよい重みと、いい匂い。
まぶたを開けると、見慣れた胸板があった。額にゴツゴツとした鎖骨が当たって少し痛い。幅広の肩の向こう側には布張り。全体的に薄暗いので夜中か。どうやら野営テントの中らしい。
「目が覚めたか」
柔らかな低い声が降ってきた。優しく細めた朱金の瞳と視線が合うと、大きな手に頭を撫でられた。
「ヴァナルガンド様」
様々な感情に声が震える。もう会えないと思っていた、愛しい人。
力強いのに苦しくない腕も、安心できる重みも、優しい手つきも。あの夜から変わらない。
違うのは、ここがテントの中であること。ベッドではなく、毛布を下に敷いただけの寝床であることだけ。
それが嬉しくて、同時に痛い。
毒を飲ませたのに。わがままを言って、抱いてもらったのに。
ヨルズには、こんな風にしてもらう資格なんてない。
ヴァナルガンドの腕の中から抜け出し姿勢を正すと、ヨルズは毛布に両の指をついた。深く頭を下げる。
「申し訳ありませ……」
「悪かった!」
「……え?」
ヨルズの言葉を遮ったのは、ヴァナルガンドの謝罪だった。そうっと顔を上げると、ヴァナルガンドが額を毛布にこすりつけていた。
「お待ちください。ヴァナルガンド様が謝ることなど何もないではありませんか」
驚いたヨルズは、ヴァナルガンドの体を引っ張った。しかし、額をこすりつけたままのヴァナルガンドはびくともしない。
謝っても許してくれないことは想定していたが、謝られるなんて思ってもいなかった。少しも悪くない相手に頭を下げられるのはいたたまれない。
「ある。俺が悪かった。君があんな目にあったのは、俺が死んだ後のことを考えもせず、ただ殺されようとした俺の落ち度だ」
「わたくしのために殺されようとなさったことの、どこが落ち度なのですか。貴方を殺そうとした、わたくしの方が悪いのです」
監視の目を欺くため、本当に毒を飲ませた。血も吐いていた。すぐ中和したとはいえ、苦しかったはずだ。
殺されようとした人間より、殺そうとした人間の方が悪いに決まっている。
「違う。君は俺を全力で生かそうとしてくれた。毒を飲ませて俺が死んだように偽装したのも、君が俺に君を抱かせてくれたのも全て、俺のためだ。すまない」
「抱かせてくれた、だなんて。抱いて下さいと頼んだのはわたくしです」
あの夜の幸せな記憶と、血を吐いたヴァナルガンドの姿がよみがえって、ヨルズは声を詰まらせた。
「わ……わたくしは。わたくしは離縁されて、も、仕方のないことをしました」
せり上がってきた熱い塊が喉をふさぐ。鼻の奥がツンとして、ヴァナルガンドの銀髪がぼやけていく。
「本当に申し訳ありませんでした。離縁されても恨みませんから、どうぞ、ヴァナルガンド様の好きなようになさって下さい」
助けに来てくれた時、ヴァナルガンドは加護の力を完璧に使いこなしていた。夫婦の営みをもって、精霊の力は安定した。もうこの人にヨルズは必要ない。
自分を殺そうとした人間と、夫婦でいる必要はないのだ。
「本当に好きにしていいんだな」
「はい」
念を押され、ずきんと胸が痛む。本当は一緒にいたい。離れたくない。
「なら、そうさせてもらう」
「きゃっ」
急に体が浮き、視界が回った。バランスを取ろうとさ迷わせた手が硬い胸元に落ち着き、尻がすとんとヴァナルガンドの膝の上に乗る。
「俺は君と一緒にいたい。君が好きだ。はじめから好きだった。ずっと君を抱きたかった」
「はじめから、ですか?」
「ああ。俺は君に二度命を救われている」
「……え?」
「覚えていないか? 森の中でぶっ倒れていた子供だよ」
覚えている。衣服も体もボロボロで倒れていた男の子。たまたま木の実を拾っていたヨルズは、傷だらけで息も細くて、顔色も悪い男の子がこのままでは死んでしまうと怖くなった。だから母親の言いつけを破って、はじめて他人に大きな加護の力を使った。
「はじめて会った時から好きだったと言っただろう。俺はあの時から君が好きだったんだ」
こつん。ヴァナルガンドの額がヨルズの額にぶつかった。銀髪が額や頬をくすぐる。
「なあヨルズ。俺と君は互いに互いのことを考えているようで、独りよがりだったと思うんだ。あの夜。俺はただ殺されようとするのではなく、君から話を聞いて対策を練ればよかった。君は一人で抱え込まないで、俺に打ち明けてくれればよかったんだ。二人で考えたっていい案が出たかどうかは分からないが。一人より二人だ」
その通りだ。あの時、一人で決めてしまわずにヴァナルガンドに打ち明けていれば。毒を飲まなくてもカラスの目を欺けたかもしれない。少なくとも、もっと早くテュールに報せることができた。
「これからはたくさん話そう。相談しよう。一緒に考えよう。一人でできないことも二人ならできるかもしれない。乗り越えられるかもしれない」
「はい」
頷くと涙が落ちた。悲しい涙ではない。嬉しくて流れる涙。
剣だこだらけの手がヨルズの頬を包み込み、あの夜何度も触れた唇が目元の涙を優しくすくってくれる。
「わたくしも一緒にいたいです。離れたくはありません」
ヨルズは両手を伸ばしてヴァナルガンドの首に手を回すと、ぎゅっと力をこめた。ヨルズの背中に回った腕も力強く応えてくれる。
「ずっと一緒にいよう」
「はい」
いつの間にかテントの布の向こうから差す光で白んでいた。
****
柱やシャンデリア。壁にかかる垂れ幕や床に敷かれた真紅の絨毯。艶やかに仕上がった扉。ヴァナルガンドに砕かれ灰にされ、全てが真新しくなった王城の広間だ。
あまりいい思い出のない場所であり、二度と戻りたくないと思っていた場所であるが。今のヨルズは平気だった。
隣には白のジャケットとパンツ。強い光を灯す朱金の瞳。襟と袖が青が彼の青銀の髪に映え、ボリュームのある白いレースの胸飾りが、品格を醸し出している。正装に身を包んだヴァナルガンドは威容があり、ヨルズは何度も見惚れた。
妻としてのひいき目を抜きにしても、恰好いいと思う。事実、ヴァナルガンドは多くの貴婦人や令嬢から、決して英雄だから、怪物であるからというだけではない色合いの視線を集めていた。
もちろんヨルズにも、様々な視線が突き刺さっている。それは元王女であること。ヴァナルガンドの妻であること。そして。
新たに戴冠するアースガルズ国王の肉親であり、ヴィーグリーズ国との同盟の架け橋となる存在となったからだ。
中央の王座の前にはジャケットに勲章をつけ、マントを羽織った暫定統治者のテュールと新国王のアウズが、王冠の受け渡しをしていた。
その様子を眺め、ヨルズはつぶやく。
「ヴァナルガンド様。わたくしは、こんなに幸せでいいのでしょうか」
「ふ。いいに決まっている」
肩から手を回したヴァナルガンドが、反対の手でそっとヨルズのあごに指を這わせた。
普段ならここで唇が落ちてくるところだが、今は戴冠式の場だ。指はすぐにあごから離れ、ヨルズの手を乗せる。
「今の比ではないくらい、もっと幸せにするから覚悟してくれ」
「はい」
微笑み合った二人は、前に踏み出した。




