夫婦
ヨルズはそうっと寝室の扉を開けた。
壁に立てかけずに、床に置かれた剣。ヴァナルガンドは、ヨルズが庭に出るまでと同じ姿勢でベッドに眠っているけれど、かかっていた布団が体の下になっている。
この人は本当におおざっぱだ。
「眠れないのか」
後ろ手に扉を閉めると、低い声が優しく響いた。目を開けたヴァナルガンドが、半身を起こす。
その顔には、怒りも憎しみもなかった。
「ヨルズ」
「はい」
胸の奥からこみあげて、喉をふさぎそうになる熱い塊を飲み下し、ヨルズは返事をした。
「触れてもいいか」
「はい」
吸い寄せられるように彼の前に寄った。頬に触れる大きな手に、自分の手を重ねて握る。温かい。
「俺の、英雄としての役割は果たせた。テュールへの恩にはまだ足りないかもしれないが、これ以上負担になりたくない」
テュール元帥は、きっと負担になど思っていない。ヴァナルガンドのことを語る時の、親しみのこもった声と目がそう言っていた。
「父さん母さんと君とは、上手くやっていけそうに思う。俺がいなくなっても、あの二人の娘でいてくれないか?」
言うわけにはいかない言葉を、ヨルズは心の中だけで思った。
それは無理です。貴方がいなくては、あの二人はずっと悲しみを引きずるから。
「俺自身にも、この家にも、君をしばるつもりはない。誰かを婿にとってもいいし、誰かに嫁いでもいい。君の自由にしてくれ」
貴方以外の人と、夫婦になるつもりはありません。
ヨルズはヴァナルガンドを見つめた。
この人は全て知っていて、死ぬつもりでいる。
ひっくり返してみせる。この人を絶対に死なせない。
「君はどうしたい?」
「わたくしが、何をしたい、ですか?」
答えは決まっている。
「わたくしは貴方を死なせたくありません」
死なせないためには。
ヨルズが居なくなっても大丈夫なように。
ヴァナルガンドのために、ヨルズが最後にできることをしなくては。
……いいえ。違う。しなくては、ではなくて。
ヨルズはヴァナルガンドの手を握る手に、力をこめた。
「お願いです。ヴァナルガンド様。わたくしを抱いて下さい」
「ヨルズ、それは」
朱金の瞳が揺れた。
「俺のために君が犠牲になる必要なんてない。それは同情だ。君は優しいから、怪物の俺を憐れんでいるだけだ。それとも妻としての義務感か責任感か」
「いいえ!」
優しくなどない。これからヨルズがすることを思えば、少しも優しくなんてない。ヴァナルガンドの方がヨルズの何倍も優しい。
「同情などではありません。義務でも責任を感じてでもありません。貴方が好きなのです!」
ぽろぽろと、我慢していた涙がこぼれ落ちた。本心も。
好きです。怪物などと呼ばれているのに、優しい貴方が。武骨かと思ったら意外に表情豊かな貴方が。何でもおおざっぱで、不器用な貴方が。
「ヴァナルガンド様が好きです。愛しています。最初で最後のわがままを言います。お願いです。最後に貴方を下さい。貴方を忘れたくないのです」
こんなことをしなくても忘れない。忘れられるはずがないけれど。
「ヨルズ」
こぼれた涙を優しく払っていた手がヨルズの腕を掴んだ。ぐい、と引き寄せられ、抱き締められる。
「俺はヨルズが好きだ。はじめて会った時からずっと好きだった」
「ヴァナルガンド様」
また新しい涙が流れた。止まらない涙をすくい取るように、ヴァナルガンドがキスをしてくれる。
「灯りを落として、カーテンを閉めていただけますか」
カラスに見せるのは毒殺の現場だけでいい。他は見られたくない。
「ああ」
ちらりと窓の外、木の枝にとまる鳥に向いた朱金の瞳が、強い光を放った。
寝室の灯りを消してから少し乱暴にカーテンを引いて窓をおおう。
「愛している、ヨルズ」
「愛しています」
月明りも届かなくなった寝室で、二人の影が重なった。
ヴァナルガンドとの行為は、何よりも満たされて何よりも幸せだった。幸せすぎて、とけて消えてしまうのかと思った。とけて消えてしまいたいと思った。
けれど思いに反して、ヴァナルガンドもヨルズも消えないで実在している。
何もつけていない肌に隙間もなく密着すると、背中に回った腕に力がこもった。
ずっとこうしていたい。離れたくない。このまま二人で眠って朝を迎えられたらどんなにいいだろう。
流れた涙をヴァナルガンドが唇で拭った。そのままヨルズのまぶたに、腫れている目尻に、頬にとキスを落としてくる。ヨルズは顔を上げて唇を寄せ、重ねた。
いくら愛を囁いても何度しても足りなくて、名残惜しい。だから終わりにしなくてはいけない。
ヨルズは気だるい体を起こして、衣服を身に着けた。ヴァナルガンドもシャツの袖に腕を通す。カーテンを開けてから、ナイトテーブルの上の水差しを手に取った。ヴァナルガンドに背を向けて、懐の包み紙を出して開き、水に溶かす。手が震えて、少しだけテーブルの上に薬がこぼれた。
グラスに注いだ水を差しだすと、ヴァナルガンドが受け取った。
互いに無言だった。
水の入ったグラスを持って視線を絡めると、同時に飲み干した。ヴァナルガンドが立ち上がり、空になったグラスをナイトテーブルの上に置くと、体が揺れた。糸が切れたように崩れ落ちる体をヨルズは受け止めた。成人男性の体を当然受け止めきれず、二人して床に転がる。
ヨルズの上のヴァナルガンドが血を吐き、体を丸めた。
「苦しい思いをさせて申し訳ありません」
枯れてかすれてしまった声で謝ると、完全に力が抜けたヴァナルガンドの体の下から抜け出して。
ヨルズは屋敷の外へ駆け出した。
お読み下さりありがとうございます。
ここ数話、苦しい展開が続く中、ここまでお付き合い下さり感謝です。
ここがどん底。この後は徐々に上がっていく予定です。
これからも二人を見守って頂けると嬉しいです。




