覚悟
隣で動く気配に、ヴァナルガンドはぼんやりと意識を浮上させた。
ヨルズ……?
閉じたまぶたの向こうから、こちらに注がれた視線を感じる。ヨルズが寝ている自分を見ているらしい。
起きて声をかけようかと迷い、やめた。ヨルズは何でも自分のせいにして責めるところがある。起こしてしまったことを気にするだろう。
そのまま寝たふりを継続していると、気配が近づいてくる。
彼女の甘やかな吐息が鼻先をくすぐった。触れていなくても体温が伝わってくる。おそらくは、ほんの少し身じろぎをすれば、唇に触れる距離。
何だ。近いなんてものじゃない。
まさか彼女の方からキスをしようとしている?
期待と、そんなわけがないだろうと、否定する心と。いっそ起きて、唇を奪ってしまおうかという欲望。
様々な感情がうずまく。心臓が激しく鼓動を刻む。汗のにじんだ手を、気づかれないように握った。
数時間に感じた数秒が終わる。寸でのところで動きを止めたヨルズが、勢いよく離れた。そのまま寝室を出て行ってしまう。
ヨルズの気配が十分に遠ざかってから身を起こしたヴァナルガンドは、加護の暴発で凍った枕を叩いて、氷を落とした。
「唇を奪ってしまおうかなんて、馬鹿か、俺は」
精霊の加護という強大な力に呪われていても、自分は愛されて育った。ずっと助けられてきた。
幼い頃、大規模な暴発で村を半壊させたにも関わらず、両親はヴァナルガンドを見捨てなかった。
だが、村人たちはそうはいかなかった。ヴァナルガンドを悪魔の子だ怪物だと罵り、殺そうとしたが、それでも両親はヴァナルガンドをかばった。
袋叩きで殴られ、三人で命からがら村を逃げ出して、森の中を何日もさまよって。そのうち両親ともはぐれ、力尽きて倒れたところで、一人の少女に助けられた。
その直後に王都から迎えにきたテュールに両親ともども保護されて、命を拾った。
今度は自分が助ける番だと、アースガルズに攻め入ったというのに。テュールにいっぱい食わされた。
自由になったはずのヨルズはよりによって怪物に下賜され、自分の命を助けるための道具になった。なんのことはない。この結婚は彼女が助かるどころか、自分が助かるばかりだ。彼女には何のメリットもない。
一緒に暮らしてみて分かった。彼女はヴァナルガンドの想像以上に、傷を負っている。怯えている。大抵のことは自分の何倍も器用なのに、幸せに対しては自分の何倍も不器用だ。
今までの分も、否、今まで以上に幸せになってほしい。泣いて、怒って、笑ってほしい。
もしも許されるなら、自分が幸せにしたい。笑わせたい。涙も、怒りも、幸せも、笑顔も、彼女の全てを自分のものに……。
「馬鹿か」
そこまで考えて、ヴァナルガンドは自分の頭を殴った。
誰もが彼女を散々利用して道具扱いしてきたのだ。自分のものになんて、ほかならぬ自分が彼女をもの扱いしてどうする。
「……夜風で頭を冷やそう」
窓を開けて風を入れる。眼下の庭にヨルズを見つけた。ふっと口元がゆるみかけてから、こわばった。
ヨルズの前にカラスがいて、会話をしている。
一気に頭が冷えた。
何者だ。
普通のカラスではない。
階段を降りるのは遠回りだ。ヨルズたちの立ち位置と寝室までは、それなりの距離がある。こちらを注視していなければ、気づかれないだろう。
幸いヨルズとカラスの視線はこちらを向いていない。
ヴァナルガンドは剣を片手に窓枠に手をかけると、飛び降りた。寝室は二階。この程度の高さなら造作もない。
音もなく着地すると、姿勢を低くして庭木の影からカラスの背後に移動する。
「儂は今お前の両親と共にいる。二人の命が惜しくば氷炎の怪物を殺せ」
「包み紙の中身は毒薬でございます」
カラスの背後の庭木に身を潜めたところで、しわがれた男の声と女の声が耳に入った。複数いるのかと気配を探るが、カラスだけだ。
ヴァナルガンドは抜きかけていた剣を鞘に戻した。
カラスは両親の命と言った。ここでカラスを殺せばヨルズの両親が殺される。
「で、出来ません。わたくしにはそんな恐ろしいこと……」
殺したくないと思ってくれているのか。
辛そうに顔を歪めて震えるヨルズを見て、ヴァナルガンドは少し嬉しくなった。大切な両親と形だけの夫。天秤にかければ両親に傾くのが当たり前なのに、ためらってくれている。それだけで十分だ。
ヨルズとカラスはまだ会話をしているが、ヴァナルガンドはその場を離れた。ヨルズが戻る前にやることがある。
寝室に戻ると、ペンを走らせた。
"ベルヴェルクがヨルズの両親を人質にとっていること。
ベルヴェルクの『目』が鳥であること。"
あの時助けてもらっていなければなかった命であり、ヨルズがいなければ、いつ死ぬのか分からない身だ。彼女になら殺されても悔いはない。
"自分が死んでもヨルズのせいではないから、彼女を責めないでほしいこと。"
「せっかく笑うようになったのにな」
"自分はもう、一生分の幸せをヨルズにもらったこと。"
短い結婚生活だったが、幸せな時間だった。ヨルズが毎日側にいて。共に寝て、起きて。共に料理を作って。段々と笑うようになってくれた。
"彼女のことをくれぐれも頼むこと。"
自分のことなど忘れて、幸せになってほしい。
封筒にアングルとロキの名を書き、引き出しに入れると。ヴァナルガンドは何事もなかったようにベッドに横たわった。




