結婚
本日は夜にもう一話投稿します。
緊張で心臓が痛い。
ヨルズは胸を押さえたい衝動をこらえた。
視界は白いベールがうっすらとおおっている。花レースの長袖の下には腕が透けていた。純白のドレスの裾もベールも後ろに長くたれていて、可愛らしい少女が持ってくれている。
ヨルズは夫となる男を見つめた。背が高く、肩幅は広い。ベールの向こうに浮かぶ男の顔は、細部は見えないけれど端正のようだ。
男の名はヴァナルガンド・フェン。男爵領領主で、彼の属するヴィーグリーズ国では氷炎の英雄。または、その絶大な力から氷炎の怪物と呼ばれ恐れられている男であること。それ以外は、顔も人柄も知らない。
王族の結婚などそんなものだ。ましてや自分は敗戦国の王女。ヨルズは諦めと自嘲をこめて笑うと、ヴァナルガンドが動きを止めた。
不思議に思って、ヴァナルガンドを見つめる。ベール越しの彼は、ぼんやりと浮かぶ曖昧な男でしかなかった。
氷炎の怪物としての姿なら、鮮烈に焼きついているのに。本当にこの男は、あの怪物と同じ男なのだろうか。
ヨルズを蔑んでいた者たちを絶対零度で凍らせ、ヨルズを閉じ込めていた王宮を、苛烈な炎でなぎ払った氷炎の怪物と。
祖国が滅んだあの日。氷炎の怪物は、父王ベルヴェルクに敵兵の足止めを命じられ、静かに待っていた王の間の扉を氷と炎で砕いた。
「ベルヴェルクはどこだ」
兜の隙間からわずかに覗く目ともれ出でる声はどちらも冷たく、しかしながら奥底に激しい炎を孕んでいた。
ぶら下がるシャンデリアが冷気で凍てつき、火焔が繊細な彫刻の施された柱や、壁にかかった重厚な絵画や豪奢なたれ幕を灰にしていく。きらめく氷と炎は美しく、それをまとった怪物もまた、ヨルズは美しいと思った。
「わたくしの後ろの隠し通路から逃げました」
ヨルズは押し寄せる熱に、髪や衣服をはためかせながら、冷気に刺される両手を広げた。父王の命を守るつもりなどないけれど、立ちふさがる形になる。
別に父王への情も、逃がそうという義理もない。
ヨルズはアースガルズ国の王女とはいえ、ベルヴェルクが市井の女であった母を手籠めにして出来た子である。物心つく頃に父母と兄から引き離され、塔に幽閉されて育った。父王の顔を見たのも、言葉を交わしたのも、ひととき前がはじめてだ。
そのはじめてのやり取りが、「今まで生かしてやったのも大きくしてやったのもこの儂だ。儂のために怪物の足止めをせよ」との命令だったけれど。
綺麗なドレスで着飾られ、求められた通りの王女を演じてきた。演じさせられてきた。他は許されなかった。ヨルズは、望みもしないことばかりを望むままにやらされる、空虚な人形でしかなかった。
楽しいってどんな気持ち? 幸せってどんな形だった? 本当の笑顔はどれだったの。
わたくしは、生きているの?
母と兄との、優しくにぎやかな生活が恋しくて宝物のように大事にしているのに、もう顔も思い出せない。
「追いかけたければ、わたくしを殺して下さい」
怪物であれば、邪魔する者を躊躇いなく排除してくれるはずだ。
ここで生き長らえたとして、新たな役の人形を演じることになるだけ。ならば今ここで、この美しき氷炎の怪物に終わらせてほしい。
そう願って立ちふさがった次の瞬間、意識が途切れた。
何をされたのかさっぱり分からなかったけれど、当身を受けたのだと思う。来ないと思っていた目覚めを迎え、ヴィーグリーズ国に保護されていた。
再び動き出したヴァナルガンドの手によって、ゆっくりとベールが上がる。霞のかかっていた世界が、鮮やかな色をさらした。
ヨルズは息を飲んだ。
精霊の加護を持つ者は、髪や瞳に強く精霊の色が現れるという。ヴァナルガンドの髪は青味がかった銀で、赤い眼球に金の虹彩が燃えていた。
けぶるような長いまつ毛も青銀。白い頬と薄い唇は淡い紅を差しているよう。精霊は余程彼を愛しているらしい。
青味がかった銀髪の下にある、切れ長の瞳に冷たく射すくめられて小さく震える。むき出しの肩に、大きな手がかかった。
「誓いの口づけを」
戦場を駆ける男であるのに、白皙の美貌が近づいてくるのを、ヨルズはまばたきもせずに見つめ続けた。
唇に柔らかなものが、刹那の時間だけ触れる。
触れた唇も肩を掴んでいた手も、火傷するほど熱くもなく、冷たくもない。普通の人の温度で、微かな震えすらともなっていた。
いつしか心臓の痛みも、体の震えも止まっていた。
ああ、この人は英雄でもなく怪物でもなく、人間なのだな、と。ヨルズは思った。
企画テンプレート
ジャンル:異世界恋愛
要素:②胸苦しい⑥ドキドキ⑦ハラハラ⑬切ない
展開:⑨悪漢に絡まれたり連れ去られたヒロインをヒーローが助け出す。
タグ:戦争・イケメン・ヘタレ男子・一途・葛藤・両片思い・ハッピーエンド




