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アシカ

もしかしたらグロ注意? 血や解剖描写等の苦手な方は読まないで下さい。

 アシカの頭蓋骨は分厚い。円盤ノコギリを使って丁寧に骨に切れ目を入れる。下の脳は絶対に傷付けないように、でも素早く。脂肪分の多い脳は心臓が止まった瞬間から劣化が始まるので、トロトロしている暇は無い。

 ノコギリで作った隙間に薄くて丈夫なヘラ状の器具を差し入れ、テコの原理でバキリ、と骨を折って頭蓋骨を持ち上げる。顔に飛び散った血と骨の欠片を袖で拭きながら、何気無く顔を上げた。そこで私が目にしたモノは……。


 息を詰めて私の手元を見守る二十人程の観客。子供含む。


 電動ノコギリを足に落としそうになった。


 ♢ ♢ ♢


 私は獣医だが、現在は研究畠にいる。専門は脳理学で、何の因果かニンゲンの癲癇(てんかん)の研究をしている。そして研究テーマのひとつは、人間とアシカの癲癇の種類を比べるというモノ。

 カリフォルニアには野生のアシカが多い。サンフランシスコの波止場などに行くと、デカイ丸太のようなアシカ君達が常時のんびりゴロゴロと昼寝している。しかし近年、癲癇発作を起こすアシカくん達が周期的に多発することが分かった。原因は五月頃に発生する藻に含まれるドモイ酸という神経毒。この藻を食べた魚を食べることによってアシカやペリカンが癲癇を起こす。食物連鎖ってヤツだ。運悪く海中で発作を起こせば如何にアシカくんと言えども溺れ死ぬ。

 中毒による急性癲癇発作は毒が身体から抜ければ止まるが、しかし長時間にわたる癲癇発作は脳を傷付け、結果的に急性中毒で死ななくても、脳の傷が原因で慢性的な癲癇持ちとなるアシカくんは多い。このパターンは人間でも同じだ。

 水中で起こす発作も怖いが、慢性の癲癇持ちになったアシカくん達は記憶障害を起こし、餌が上手く獲れずに痩せこけ、おまけに方向音痴になって海から100キロ以上離れた内陸部の川で迷子になったりする。脳の傷のせいで本来の恐怖心を失い、警官が目を離した隙にパトカーのボンネットに登って昼寝をしていたり。そしてそんな異常な行動に走るアシカくんは通報され、海洋生物研究所で保護される事になる。

 保護されたアシカくん達はたっぷりと餌を与えられ、数週間から数ヶ月のリハビリを受け、大丈夫そうだと現場の獣医達が判断すれば海に戻される。しかし海に戻ったアシカくん達のうち半数近くが再び発作を起こしたり、餌が獲れず餓死しかけて研究所に舞い戻ってくる。発作が頻発して健康状態が持ち直さず、この子はもうダメだと判断されると、私の所属する研究室に連絡がくる。救えるモノは救い、救えないモノは医療や研究に役立てる。かくして私は愛車に飛び乗り、一時間半ほど離れた研究所に脳採取の為に駆けつける。


 ちなみにアシカは英語では sea lion という。ライオンと言うより、顔はどう見ても犬。丸い目の犬っぽい愛嬌のある顔付きで、普段は穏やかで大人しいアシカ君達だが、やはり野生は野生。一度、癲癇発作を起こしているアシカに薬を打とうとしていたところ、同じケージに入っていた他のアシカに襲われそうになった事がある。

 仲間を守ろうとしたのだろうか。予告もなくプールから飛び出した100キロ近い巨体がいきなり突進してきた。咄嗟に飛び退いたが、足の横でガツンと牙が鳴った時は流石にひやりとした。食肉目というだけある、素晴らしく太くて立派な犬歯だった。アレに噛まれたら、私の腕の骨なんか簡単に折れるだろうなぁ。


 強力な麻酔を使い、痛みなく安楽死させた瞬間から私の仕事が始まる。

 研究に必要な脳採取の方法は二つ。


 其の一。安楽死直後に胸を開けて心臓を露出し、左心室に太い針を刺し、大動脈から直接全身にホルマリン液を送り込むという方法。最低でも30リットルのホルマリン液を必要とするこの方法は、たったの30分で新鮮な脳のホルマリン漬けが完成し、しかも脳細胞の保存状態が非常に良い。ただ問題はアシカくんの後始末だ。脳だけでなく全身がホルマリン漬けになるので、死体は薬物バイオハザードとして私の職場まで持ち帰り、適切に破棄する必要がある。めんどくさい。


 其の二。安楽死直後に首だけ切り落とし、脳を取り出し、取り出した脳を更に半分に割り、そこから海馬という部分だけを取り出してホルマリン液に放り込むという方法。必要なホルマリン液は約1リットル。これだと海馬しか使えず、他の部分は捨てることになるが、アシカの全身がホルマリン漬けになる訳ではないので死体を持ち帰る必要も無く、後始末が楽だ。百キロ超の死体を持ち運ぶとか、かなりの重労働なのだ。


 ふたつめの方法の場合は一人で採取可能だが、ひとつめの方法の場合は私と教授の二人ペアで行う。私が解剖して心臓に針を刺す役で、教授がホルマリン液の供給役。理由は唯ひとつ。ホルマリン液は氷で冷やされていてメッチャ冷たい。そんなモノに触るより、寒がりの私はホカホカの死体に手を突っ込むことを好む。

 アシカのホルマリン漬けが出来たら教授が首だけ切り落とし、ゆっくりと丁寧に脳を取り出す。この時点で脳はすでにホルマリン漬けになっているので劣化することはなく、時間をかけて取り出してもオッケー。その間に私はアシカくんを適度な大きさに切り分け、ドラム缶に入れていく。150キロ以下のアシカなら、腑分けして全て持ち運びやすい大きさに切り分けるのに約20分。刃渡り3〜4センチ程の手術用ブレードが5本あれば事足りる。

 映画や小説で遺体の始末に手間取る描写があるとイライラする。なんで死体を半分に切るのにノコギリがいるんだよ! 手足をバラバラにするのなんて、小さく鋭いナイフで関節のスジを切っていけば数分もかからないよ! 首を落とすのなんて10秒だよ! ニンゲンの一人や二人、いざとなれば私だったら……などと呟く私の隣でイヤ〜な顔をするジェイちゃん。でも口にしないだけで、世の中の獣医や医者は皆同じ事を思っている筈だ。

 

 ところでですな、この海洋生物研究所、アシカ・アザラシ・イルカ等の海洋生物の研究と保護の他に、一般人の教育を目的とした設備でして。教育の一環として、助からなかった動物達の病理解剖を一般公開している。一階の解剖室を二階の窓から自由に覗けるようになっているのだ。

「解剖は人気があるんですけどね、でも嫌なら窓のブラインドを閉じちゃっていいですよ」と現場の獣医に言われ、私と教授は客がいない隙を見計らい、無言で素早くブラインドを閉じた。以心伝心ってヤツですな。色々とぶつかる事も多いが、こういう時だけは気が合うのだ。

 野生動物たちが大切に保護され、自然に還る努力をする姿を観察し、そして助からなかった生き物の病理解剖を通して生と死について学び、考える。イイコトだと思いますよ? 普通の解剖なら私だって喜んで披露してみせます。でもアシカくんの解剖は別。

 何が嫌って、がっつりワタシの(・・・・)顔入り写真やビデオを見知らぬヒトに撮られるのが嫌だ。雌で80キロ前後、雄では250キロを超える巨体で、おまけに死に立てホヤホヤの死体だ。もの凄まじい量の血が流れる。それは別に良いのだが、良くないのはその血の海の中で悠々と死体を切り刻む自分の姿を一般人に観られるという事。外ヅラの良い私は基本的に常に笑顔なのだが、血の海の中でニコニコしてたら、これは絶対に変な誤解を受けそうではないか。そしてその写真がネットに流出……。ゾッとしないシチュエーションですな。


 脳採取には多い時で数日に一度ほど呼び出されている。私は直ぐにブラインドを閉めることを忘れるのだが、うちの教授はその辺シッカリしているので心配いらない……と思っていたら、私がいない時にブラインドを閉め忘れ、多くの観客の前で脳採取をする羽目になったらしい。

「写真のフラッシュが焚かれる度に寿命が磨り減った」と力無く呟く教授。

 アハハハ、と笑ったら、「笑うな! イズミだって絶対にいつか同じ事をするよ!」と呪いを掛けてきた。


 そして私が一人で脳採取に向かった初夏の麗らかなある日。教授の呪いは見事に発動した。


 ここで話は最初に戻る。


 頭蓋骨を開け、顔に飛び散った血と骨の欠片をグイッと袖で拭いたところで、上から覗き込んでいた小学生くらいの男の子と目が合った。瞬きひとつせず、じーっと私の手の中のアシカの首を見つめる少年の姿に、こっちの血の気が引いた。ブラインドを閉め忘れた自分を殴りたい。しかし今更閉めるわけにはいかない。そんな事したらただのイヂワルだ。

 私はそっと俯き、観客からなるべく背を向けるようにして作業に戻った。ホルマリン漬けになっていないフレッシュな脳はあっという間に劣化するので、安楽死から海馬を採取するまでに長くとも七〜八分。トロトロしている暇はない。しかしですな、自分の一挙一動をジッと他人に見られているというのは実に居心地が悪い。私は元々人前でのパフォーマンスなどが苦手なのだ。心的ストレスとプレッシャーで手が震える。ちょっとそこのお兄さん、ビデオとかマジで勘弁してよ!


「もう、本当に自分の指を切り落とすかと思いましたよ〜」と帰ってから教授にこぼすと、「ワハハ、そうしたら絶対にそのビデオはYouTubeとかで有名になったのにね! 有名人になるチャンスを逃して、惜しいことしたね!」と嬉しげに言われた。


 いつもより時間の掛かった脳採取を終え、ホッとして観客席を見上げると、(くだん)の男の子はまだ喰い入るように私を見つめていた。少年よ、もうショーはおしまいだよ。そんな真剣に見つめたって、お姉さんは何も面白い事なんかしてあげられないよ。

 まぁいいか、もう終わった事だ……と脳の入ったバケツを手に車に乗り、ふとバックミラーを見ると、頰からこめかみにかけて、べっとりと血が付いていた。


 そっかー、スピード命でやってて全然気が付かなかったけど、首を切った時の血で袖が血塗れだったんですねー。それで顔を拭っちゃったんですねー。今日は他の獣医さん達が皆さん忙しくて解剖室はワタシ一人だったから、ワタシが殺人鬼みたいな顔してても教えてくれる人が誰もいなかったんですねー。


 夜、血みどろのワタシが夢であの男の子を襲っていない事を心から願う。

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