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デフデフ(☆)

挿絵(By みてみん)


「フブちゃん、デフデフ呼んでおいで!」

 リビングルームで寛いでいた吹雪が急いでベッドルームに走ってゆく。デフデフとは私がエンジュに付けたアダ名だ。デブデブではない。それはチュチュとジェイちゃんだ。Deaf-Deaf、つまり耳が遠いということ。エンジュは最近益々耳が遠くなり、多少怒鳴ったくらいでは聞こえないのだ。


 耳が遠くなったと言っても悪いことばかりではない。若い頃はありとあらゆる物音に耳を澄ませ、常に気を張り詰め、神経と命を擦り減らしていたエンちゃん。それが最近はぐっすりと眠るようになった。

 舌を僅かに突き出して(エンジュはやけに舌が長く、眠る時は大抵舌が出ている)、ジェイちゃんのベッドで死んだように眠るエンジュに駆け寄る吹雪。ドアの陰で見ていると、吹雪はエンジュの耳元3センチくらいのところまで近付いて、大声でワンッと吠えた。その姿に思わず吹き出してしまう。吹雪ですら「こいつは超近くで怒鳴ってやらないと聞こえない」とか思うらしい。

 しかしそんな吹雪くんの親切心に素直に感謝するエンジュではない。彼女は如何にも迷惑気な顔で吹雪くんを睨むとガッとその耳に噛み付く。

「うっせーな! そんな馬鹿デカイ声で喚かなくたって聞こえるっつーの!」


 その姿は神戸の大叔父を彷彿とさせる。

 神戸のおじちゃんも歳を取ってから耳が遠くなった。しかし補聴器を使いたがらないので、家族は仕方無くいつも大声で話す。可愛い孫の高い声なら聞き取れるらしいが、私の低い声ではサッパリで、時事問題等についておじちゃんが滔々と一方的に語るのをはぁはぁと拝聴する羽目になる。しかし元声楽家の我が母が、「あーんーなー」などと耳許で叫ぶと、「キミちゃん、そんな大声で叫ばんでも聞こえるで」とか言ってくる。この辺の行動パターンがエンジュと同じなのだ。

 飄々と我が道を生きるおじちゃん。キリキリテキパキしたスズコおばちゃんが何やら色々と文句を言っても馬耳東風……というかそもそも聞こえていない。

「コレはな、親切な神様が、『スズコさんの小言を聞かんでもエエように』って耳が聞こえんようにしてくれたんや」とにこにこと語るおじちゃん。

「ホンマ憎らしいこと言うやろ!」と怒るスズコおばちゃん。


 神戸のおじちゃんと同じく、耳が遠くなっても迷惑しているのは周りだけで、エンジュ自身が不具合を感じている様子はない。私の犬は元々ボイス・コマンドとハンド・コマンドの両方で訓練されているので、耳が聞こえなくても大抵の意思疎通は可能だ。そして私達が家に帰って来たとか、ジェイちゃんが散歩に連れていってくれるとか、餌を食べてヨシと神が言ったとか、その辺の細かい事は吹雪の様子を見て判断しているらしい。


 そもそも身の回りの情報の八割以上を視覚に頼ると言われる人間に比べて、犬は嗅覚・聴覚・視覚と情報収集のバランスが良い。しかし無論このバランスには個体差がある。

 嗅覚の良し悪しは嗅細胞の数と嗅上皮の面積で決まる。つまり、匂いの元となる分子・粒子を感知する為の神経細胞が沢山あり、なおかつ匂いの元を物理的にキャッチする鼻の粘膜の表面積が広ければ広いほど良い。ヒトの鼻に比べて犬の鼻の内部は非常に入り組んでいて、この凸凹が表面積を稼ぐのに役立っている。(勿論ヒトの鼻だってがらんどうではない。) この結果、パグ的鼻ペチャな子は嗅覚が鈍く、バセットハウンドのように鼻が長い子は嗅覚が鋭い。バセットハウンドが「セントハウンド(嗅覚の猟犬)」と呼ばれる所以だ。

 猟犬の中にはセントハウンドの他にサイトハウンド、つまり視覚に頼るタイプがいる。グレーハウンドやサルーキーがこのタイプ。度々例として使って申し訳ないが、ちょっと両目の焦点が合ってないようなパグくんなどは視力もかなり落ちる。そうそう、パグくんと言えば、パグやチワワのような出目金的な犬は眼球が入っている部分の頭蓋骨の窪みが浅く、ちょっとした頭部への衝撃で眼玉がピンポン球のようにぽろりと飛び出ることがある。シェパード等の彫りの深い犬には有り得ない話で、グロ耐性の高い私でもアレだけは中々慣れない。

 聴覚にも個体差があるが、大抵の場合、やはり耳立ち犬の方が耳垂れ犬よりも優れている。しかし吹雪くんのように大き過ぎる立ち耳も、ちょっと有り得ない頻度で羽虫が飛び込んだりするので考えモノだ。ジェイちゃんは吹雪の耳に馬に使う虫除けネットを被せたがっている。


 若かりし頃のエンジュはサイトハウンド顔負けの視力(数百メートル離れた所にいるニンゲンの顔を見分けた)、警官に爆弾探知犬にしないかと言われた程の嗅覚(しかしその実体は走りながらボトボトと茶色い地雷を落とす爆弾魔)、そして吹雪くんに勝るとも劣らない聴力の持主で、どんな些細な物音も聞き逃さなかった(コレは異常に神経質な性格と被害妄想に因るモノかもしれない)。

 だから多少耳が遠くても、未だ衰えを見せない嗅覚と視覚のお陰でエンジュが世界情勢に疎くなることはない。

 エンジュとジェイちゃんがバルコニーで寛いでいた時のこと。寝転んでいたエンジュが不意に鼻面を上げ、ふんふんと風の匂いを嗅ぎ、慌てて立ち上がるとクンクンと鳴きながら玄関に走っていった。その数分後、乗馬から帰ってきた私が玄関を開けた。全身全霊で喜んでお出迎えするエンジュちゃん。バルコニーから私の姿は見えないので、エンジュは風に混ざる馬の匂いで私が帰って来たことを察したのだろう。断っておくが別に私が臭いわけではなく、エンジュの鼻が異様に良いだけだ。ちなみにたまに違う馬に乗ると、「お! 今日はマイダス君じゃない馬に乗ったな!」と普段より熱心に匂いを嗅ぐ。


 そんなこんなで、私ですらエンジュの聴力がかなり落ちるまでその事に気付かなかった。ジェイちゃんなど、「エンジュは単に僕を馬鹿にして無視しているだけ」と信じ切っていた。まぁソレは否定しないが、しかし聴力よりもわかりやすい筈の視力でも、ほぼ完全に盲目になるまで飼主が気付かないケースは意外に多い。

 よくある話は、「うちのワンコが突然盲目になった!」と焦って病院に駆け込んでくる飼主さん。普通、何らかの原因で短期間に視力が落ちた犬は物凄く怯えるものだが、しかし肝心の犬は平然として私があげたクッキーを食べている。

「なんで突然目が見えなくなったと思うんですか?」

「昨日の夜から歩くたびに家具にぶつかっているんです! 今までそんなこと一度もなかったのに!」「散歩していたらイキナリ看板に激突した!」「公園で穴に落ちそうになった!」

 こういったケースは、大抵飼主が引っ越したり、家具を移動したり、いつもの散歩コースに今まで無かった異物が出現した場合が多い。つまり犬は以前から徐々に目が悪くなってきていたのだが、家具の位置や散歩コースの障害物を完璧に記憶しているので、あたかも普通に目が見えているように行動していたのだ。

 また視力が極度に落ちてくると知らない道を散歩するのを妙に嫌がったりするものだが、飼主は「あらあら、まぁ結構トシだし、昔のような冒険心もなくなってきたのかしら。やっぱり慣れている道が好きなのねぇ」くらいにしか思わない。慣れている道が好きというより、知らない道は障害物がどこにあるか分からなくて困っているだけだ。同様に、イキナリ家具を動かされたりすると、新しい家具の位置を暗記するまでモノにぶつかり続ける。別にボケているわけではない。


 嗅覚と言えば犬と思いがちだが、ラット等の齧歯類は視力が弱く、情報の多くを嗅覚及びヒゲによる触覚に頼る。

 ヒトの大脳の表面には、「ココは右手の親指」「こっちは左足」「ココは上唇」といった感じで身体の感覚の地図がある。鋭敏な顔や手指の感覚を司る部分の地図は大きく、足の小指等のわりとどうでもいい部分は小さい。しかし全体を見るとやや歪だがニンゲンの形をしているため、この脳地図はホムンクルス(ラテン語で『小人』)などと呼ばれる。

 ネズミ君達にも勿論この脳地図があるのだが、彼等の場合はヒゲの部分が物凄く発達している。ヒトの大脳に両手の指一本ずつの地図があるように、ネズ君には「ココは右の頬っぺたの三列目4番目のヒゲ」といった風に、ヒゲ一本ずつの地図がある。手の感覚が発達しているニンゲンは何か珍しいモノを発見すると手で触ってその感触を確かめる。「へぇ、何これフワフワで触り心地良さそ〜」などと言いながらお尻を擦り付けるニンゲンだっているかも知れないが、しかしかなり珍しい部類だと思う。同じく、世界不思議発見中のネズミ君は「おーこりゃナンダナンダ」と匂いを嗅ぎつつ複雑に左右のヒゲを動かして、「ヒゲ」でモノの感触を確かめる。

 我が家のアイドル砂ネズミのチュチュくんも例外ではない。お昼寝中のチュチュのケージにカボチャの種を落としてやると、彼は寝たまま先ずフゴフゴと鼻息を荒げ、続いてハッと飛び起き、ヒゲを蠢かせて種を探す。寝惚け眼どころか目を瞑ったまま種を探して食べることもしばしば。本当に起きて味わっているのか、それとも味付き匂い付きのシアワセな夢の中にいるのか、些か疑問だ。


 ところで冒頭で「ニンゲンは情報収集の大部分を視覚に頼り……」などと言ったが、私はド近眼だ。コンタクトレンズを外すと、左眼で14センチ、右眼で10センチまで近付かないと焦点が合わない。おまけに乱視。眼鏡とコンタクトレンズの無い世界では最適者生存の法則に則り真っ先に自然淘汰されるだろう。

 しかし私の聴覚と嗅覚はニンゲン離れしているとよく言われる。なんせ一階にいて、三階のベッドルームに置かれたiPhoneの振動(サウンドOFF状態)が聴こえるのだ。そして嗅覚は更に鋭く、いつも他人の気付かない匂いに悩まされている。決してエンジュのように病的に神経質なわけではない。しかしバルコニーで夜中にマリファナを吸う隣人に殺意を覚えるのは勿論のこと、日本に帰ると全席禁煙のレストランを求めて街を彷徨い、同僚のSさん辺りがそれに付き合わされる羽目になる。

「レストランで煙草を吸うとか、日本って有り得ないですよね。それだけは絶対にカリフォルニアがいいです」禁煙席に座って煙草の臭いに嘔吐(えず)きつつ、喫煙席の住人に殺人光線を送る私。

「そうですよね……すみません……」何も悪くないのに何故か謝るSさん。

「煙草吸うヒトってニンゲンとして最低ですよね。ってか生物としてオカシイですよね。生存権ないですよね」

暴言を吐き続ける私の横で、「ハイ、ハイ、全くもってその通りだと思います」と唯ひたすら頷き続けるSさん。


 後日、彼が喫煙者であることが発覚した。


挿絵(By みてみん)

エンジュは仔犬の頃から階段で眠るのが好き。はっきり言ってメーワク。でもカワイイから許す。

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