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逃げ場(☆)

挿絵(By みてみん)


 ヒトであれ動物であれ、生きていれば逃げ場が必要な時もある。それは心を許した友人かもしれないし、趣味や想像の世界、又は暖かなベッドのような物理的な場所かもしれない。何にしろ、ひどく追い詰められて壊れる前に、取り敢えず安心して逃げ込める場所がひとつくらいあった方がいい。


 我がコヨーテ犬エンジュにとって、逃げ場とはバスタブだ。


 エンジュは何かオソロシイ事態が起きて生命の危機を感じた時、つまり私がいない時に危険人物(友人やアパートの管理人さん)が家に入って来た時は、なぜか必ずバスタブに逃げ込む。

「こんな嫌なところまでは敵も追って来ないだろう」又は「こんな嫌なところにワタシが隠れているとは夢にも思わないだろう」とでも思うのか。コヨーテ犬の考えることはよく分からん。


 エンジュは別に風呂場が好きなわけではない。

 彼女は今でこそ一言命令されれば僅かに嫌そうな顔をしつつも自らバスタブに飛び込むが、必要がなければ決してバスタブなどには近寄らない。仔犬の頃に初めて風呂に入れた時は遠吠えを辞めず、こっちの聴覚がヤられそうだった。それに対して吹雪は全く抵抗を見せず、初めての風呂にも少し困った顔でシャンプーされながらバスタブの中でぺちゃりと伏せしていた。余りにも大人しいので、大型犬の仔犬に多い先天性肝臓疾患を疑ってしまった。


 風呂への抵抗は割合に直ぐ無くなったエンジュだが、初めて首輪と綱をつけた時の抵抗は私が驚愕する程に凄まじかった。首輪の匂いを嗅がせ、首に着けた時は後ろ足で数回引っ掻いてみるだけで大して気にする様子はなかった。ここまでは普通の仔犬だった。更にリードを見せて、その金具を首輪に近付けても大人しくお座りしていた。しかしリードの金具がカチリと首輪に付いた瞬間、いきなり目の色を変えてトンボ返りを打った。狂ったように床をのたうち回りながらリードを喰い千切ろうとする生後三ヶ月の仔犬は、まさしく「イヌ」ではなく、「野生のナニカ」だった。


 話を戻そう。

 ジェイちゃんが大学の寮に住んでいた頃、エンジュを連れて寮に遊びに行ったことがある。寮と言っても中々小洒落たアパート風で、ユニット毎に広々としたプライベートのバスルーム、キッチン、リビングルーム、そしてベッドルームが二つ付いていて、それをルームメイトと二人でシェアする。ちなみにそこはアメリカでも有数の金持ち学校だったので、なんと寮にメイドさんがいて、薄汚い男所帯などという悲劇とは無縁だった。私が昔住んでいた女所帯の寮の方が汚かった気がする。

 夕飯を食べにジェイちゃんと私が出掛ける間、エンジュは寮の部屋でお留守番。寮は無論動物禁止だが、エンジュは身の危険を感じる場所(つまり我が家以外)では完全に気配を消して物音一つ立てないので問題ない。勿論ジェイちゃんのルームメイトのジョー君にも了承を得ていた。

 数時間後、夕飯を終えて寮に帰って来ると、「今日はちょっと大変な事があった」とジョー君が沈痛な面持ちで私とジェイちゃんを迎えた。

「僕が部屋に帰って来てドアを開けたら、エンジュちゃんが尻尾を振りながら出迎えてくれたんだ。多分君達が帰って来たと思ったんじゃないかな。でも僕と目が合った途端に自分の勘違いに気付いて、後脚をもつれさせて腰を抜かしそうになりながらバスルームに飛び込んで、そのままバスルームに立て籠もって出て来なくなっちゃったんだ」

「それはそれは」エンちゃん通常運行ですな。

「まぁ僕が近寄っても余計に怯えるだけだと思って、仕方無いから放っておいたんだけど、そのうちに僕、トイレに行きたくなってさぁ」

「犬がいたって尻に噛みつかれるわけでもないし、トイレくらい行けばいいじゃん」とジェイちゃん。

「……だけど大の方だったんだよ」と暗い表情で呟くジョー君。

「如何に犬相手でも失礼かと思って最初は遠慮してたんだけど、そのうちにどうしても我慢出来なくなってバスルームに入ったんだ。僕がバスルームに入れば、開いているドアから逃げて行くかと思ったんだけど、逃げるどころか反対に奥のバスタブに飛び込んじゃって、全然出て行く気配なくって。『ええい! 仕方無い!』って便器に腰掛けたんだけど、バスタブの中でガタガタブルブル震えながら大きな眼を見開いて凝視されてたら、出るモノも出なくってさ……」

 涙を流しながら笑い転げる私とジェイちゃんを見て、「もう本当に大変だったんだからね!」とジョー君は口を尖らせた。

「で、せめて凝視されないようにシャワーカーテンを引いたんだ。なのにエンジュちゃんってば、わざわざカーテンの隙間から鼻先だけ突き出して、フンフンフンフン臭い嗅いで、挙げ句の果てに何回かクシャミしたんだよっ」

「いやはやそれはそれは、ウチの子が失礼をば致しました」

「僕は別にいいんだけど、エンジュちゃんが色んな意味でPTSDにならないか心配で……」

 ジョー君はイケメンの上にとても優しいヒトだった。しかし滞在中、エンジュは一度としてジョー君に心を許さなかった。エンジュに近付いて逃げられる度に残念そうに溜息を吐くジョー君。

「エンジュちゃんはつれないなぁ。兄弟でもあり得ないくらいプライベートなモーメントを共有した仲なのになぁ」

 そんなジョー君にジェイちゃんが一言。

「いや、兄弟にそんなモノの共有を強いられたら、僕なら絶縁するよ?」


 ジョー君とのプライベートな体験によってエンジュがPTSDになったかどうかは定かではない。しかし取り敢えずコワイことがあれば、今でもエンジュはバスタブに直行している。

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