保健所から来た犬(☆)
以前に一度チラリと書いたが、このエッセイに度々登場するホワイト・シェパードの吹雪くんは実は「吹雪二号」なのだ。「吹雪一号」と出逢ったのは保健所だった。もう10年以上昔の話だ。
ある春の日のこと。仲の良い友人が、「犬を見に行きたい」と言い出した。
「イズミがボランティアしてる保健所に連れてって! 今すぐ行こう!」
彼女はいつも唐突なのだ。学校が忙しいことを理由に最近保健所から遠ざかっていた私は内心、ゲゲゲ、と思った。春 = 仔犬。見れば欲しくなるかもしれない。でも私は今のところ、エンジュ(当時1歳)で手一杯なのだ。
結局友人に押し切られ、保健所に着いたのは、すでに夕方の4時過ぎだった。仔犬のケージは見に行かないと密かに心に決めて、中型から大型の成犬ばかりが集められた犬舎に入る。その保健所はかなり大きく、犬だけでも常時200頭前後、他に猫やウサギ、ラットやハムスターまでいる。
順番にケージを見て歩き、最後に超大型犬用のケージの前に来た。三畳程の冷たいコンクリートの檻の中には5〜6頭の大型犬が入っていた。ラブラドール、マスティフ、ドーベルマンの雑種に混ざって、その子はいた。
一瞬狼犬かと思った。それほどその犬の肩幅は広く、体高は高く、がっちりと大きかった。そして薄汚れてはいたものの、その毛皮は真っ白だった。私は白い犬に弱いのだ。
ケージの奥に座っていたその犬は、私と目が合うと立ち上がり、そっと近づいてきた。そのまま数秒見つめ合う。しかし一頭の犬がガウガウと吠え始めると、少し困った顔で俯いて、ケージの奥に戻り、隅に座って顔を上げようとはしなかった。
あ、ヤバイな、と思った。早くここから出て行った方がいい。そうしなければ、きっとこの犬の事が気になって今夜は眠れなくなる。私は不眠症なのだ。これ以上の安眠妨害は御免蒙りたい。
踵を返しかけた丁度その時、知合いの職員が通り掛かった。
「あぁ、イズミ、久し振りだね。って、あれ、もしかしてあの白い犬見てるの?」
「え? あぁ、まぁ、見てるっていうか……」
「ちょっと待って! ケージから出すから、ちょっと見てやって!」
「え? いや、別にいいよ……」
「大丈夫大丈夫! ちょっと出すだけだからさ!」
イキナリ意気込んで鍵をガチャガチャとポケットから取り出すおじさん。顔を紅潮させ、何やらひどく嬉しげだ。
ケージの外で改めて見ると、その犬は背骨や肋骨が浮き出るほど痩せてはいたが、しかし本当に大きかった。そして若い。どう見ても二歳にもなっていない感じだ。おじさんから渡された書類に目を通す。「1歳半。飼主の引渡し」と書かれていた。つまり、何らかの理由で飼主が自ら保健所へ連れて来たのだ。飼えなくなったのか、単に要らなくなったのか。捨てられたことには変わりはない。自分の代わりに飼ってくれそうな友人を探す手間暇さえ惜しんだのだろうか。
保健所にもよるが、迷子犬の場合、保護されてから一週間はケージの中で「飼主待ち」として一般公開される。一週間以内に飼主が現れなければ、「引取り可能」となる。そして「引取り可能」となってから5日の間に貰い手が現れなければ安楽死。動物愛護団体が経営しているものなどでは、保護した動物は決して安楽死させないという主義の施設もあるが、実はそういう所は貰い手の付きそうにない動物は最初から保護を断ったりするので曲者だ。
では飼主が自ら引き渡したケースはどうなるのか。一般公開の「飼主待ち」の一週間がなくなり、直接「引取り可能」となる。つまりたった5日間で次の飼主を見つけなければならないのだ。仔犬や小型犬ならかなりの確率で貰い手が現れる。しかし大型の成犬は難しい。特にこの犬のように、200頭もいる中で一番大きいというような犬は。
「今日だけでもいいから連れて帰ってやって」とおじさんが小声で私に頼んだ。「この犬は特別に引取り可能期間を2週間延長したんだ。でもやっぱり駄目だった。大き過ぎるんだと思う。一度家に連れて帰ってさえくれれば、たとえ明日戻ってきても書類がリセットされて、また5日間の延長になるからね」
「うーん、でも今日は犬を引き取るつもりできたわけじゃないから、全然準備が出来てないんだよね。特にこんな大きい子はさぁ。何なら明日出直してくるとか……」
おじさんがチラリと腕時計を見て、「6時……」と呟いた。
時計は4時50分を指していた。保健所は5時で閉まる。そして6時になると貰い手の付かなかった犬猫の殺処分が始まるのだ。つまり、今日がこの犬の最後の日だったのだ。
かくして狼のような雄のホワイト・シェパードは我が家にやって来た。吹雪と名付けられたその犬とエンジュは一目で相思相愛の仲になり、その夜は私に怒られるまで、二頭で家中を駆けずり回って遊んでいた。
私に吹雪を連れて帰って欲しいと頼んだおじさんは、でっぷりと丸太のようなビール腹で、朗らかで、よく笑い、ケージ内で喧嘩する犬達を大声で怒鳴りつけ、そして周りがドン引きするようなブラックなジョークを連発する人だった。どちらかと言うとユーモアのセンスが黒く歪んでいる私は彼とよく気が合った。
彼は自分を「死刑執行人」と呼んだ。因みに私の事は「魔女」と呼んでいた。私が犬舎に入った瞬間に、それまで吠えまくっていた何十頭もの犬が一斉にしんと静まり返ることがあったからだ。
一度に大量の動物を始末しなければならない日など、多くの職員は私に手伝って欲しそうな様子をみせた。しかしこのおじさんだけは、いつも私の背中を押すようにして保健所の外に追い出した。
「魔女のお嬢ちゃんは早く帰りな」と彼は笑いながらウインクしてみせる。「今夜のサバトにはお嬢ちゃんの分の招待券は無いからね」
おじさんは保健所の動物達に対して公正且つ冷静だった。そして私と違い、一匹の動物に入れ込むような真似はしなかった。そうでなければあの仕事を長年に渡って続けることは出来ないのだろう。そんな彼が、何故私に無理矢理頼み込むほど吹雪に入れ込んだのか。今でも時々不思議に思う。
おじさんの奥さんは熱心なクリスチャンらしい。しかしおじさんは教会に行くのは嫌だといつもぼやいていた。
「教会に行って祈ることになんて意味がない」とおじさんは言った。「俺が一体何千頭の犬猫を殺したと思う? 死んだらどうせ地獄行きさ。だからね、俺は現世を精一杯楽しむことにしているんだ。教会に行く暇があったら、フットボールを観ながらビールを飲む」豪快に出っ張った腹を叩きながら彼はうそぶく。
宗教観念の希薄な私は、天国にも地獄にも特に興味はない。
しかし本当に地獄なんてものがあるとしたら、死んでそこへ行くのは彼ではないだろう。




