コヨーテ犬の葛藤(☆)
獣医学生時代。
試験直前は一日17ー8時間勉強していた。うちの学校は異様に試験が多く、一学期12週間に各科目3ー4回試験があった。一学期間に取る科目数は最低8科目、酷い時は13科目以上とっていたので、もう常に試験に追われていた。ひとつ単位を落とすと即留年決定。更にその場合はC以下を取ったクラスは全てリピート、モチロン学費も全額きっちり二回分払って貰いますよ、ちなみに二回留年したら三回目はゲームアウト、退学です ♪ というオソロシイ校則のもと、皆必死に勉強した。
初夏。
バルコニーから爽やかな風が吹き込み、芝生の向こうに見えるプールでは子供達がキラキラと水飛沫を跳ね上げ遊んでいる。しかし試験勉強に追われる私には、その輝くような外の世界はあまりに遠い。頭にキンキンと響く子供の笑い声にただひたすらイライラしている。
こっちはプールどころかもう二日もシャワー浴びてないんだよっ! もう5日連続で一晩3時間くらいしか寝てないんだよっ! イライライライラ……。
勉強は大切ですが、しかし何事もやり過ぎると心が荒むモノですな。
遂に耐え切れなくなり、バルコニーを閉めてエアコンをつける。しかしその程度で子供の騒ぎ声はシャットアウト出来ないのだ。彼等の超高音波の雄叫びはバルコニーのガラス戸など簡単に通り抜け、ガラスはガラスでも防弾ガラスと呼ばれる我が神経すらヒビ割れそうになる。
ふと顔を上げると、クーラーが一番良く効くソファーでエンジュが寛いでいた。ソファーの下では吹雪が仰向けになってお腹を出し、軽くイビキをかいている。そよそよと吹く人工の風に柔らかな毛をふわふわと揺らしつつ、惰眠を貪る犬二匹……。
いつものなら「あらあらカワイイわね〜♡」などと言って和むのだが、心の荒んだ人間はそんな長閑な光景すら気に障る。
「チッ、なんだアイツラ、コッチはお前らが将来食いっぱぐれないように睡眠削って必死になってるのに、これ見よがしにグータラしやがって。そのエアコンの電気代だってコッチが払ってんだぞ!」 などと犬にまで八つ当たりを始めたら、ヒトとしてそろそろおしまいですな。
そしてヒトとして終わりかけている私は、幸せそうな彼等の寝顔を見ているうちに、何だか突然エンジュを驚かせてやりたくなった。
半野生だからだろうか。エンジュは常に気を張りつめ、全く隙がない。どんな微かな物音も聞き逃さない。スヤスヤと寝ている時でさえ、私が声に出して読んでいる文章の中にそっとエンジュの名前を混ぜると一瞬にして飛び起きる。寝ているようでちゃんと聞いているのだ。
そしてどんなに深い眠りについている時でも、エンジュは必ず片方の前足を緊張させ、爪を絨毯やベッドに喰い込ませている。
「エンジュってなんでいつもこんなに緊張して寝てるの? ここは自分の家だし、誰も襲ったりしないよ?」 とよくジェイちゃんが不思議がる。
「突発性地盤沈下に備えてるんじゃないの。それか夢の世界に引き摺り込まれないように、現実にしがみつこうとしてるのかもね」
一度でいいから、あの澄ましてスカしたエンジュのビックリ顔が見てみたい。
しかし寝ているエンジュを起こさずに近づくことなんて不可能だ。吹雪なら超簡単なんだけど、でも踏まれても起きない吹雪なんか驚かせても面白くない。そもそも吹雪を驚かせて、ショックで下痢でもされたら迷惑だ。
何かイイ案はないものか……。
ふと机の引き出しを開けてみた。古い輪ゴムの束を発見。コレだっ!
そっと取り出した輪ゴムを指にかけ、じっくりと狙いを定め、バッキューン!
パチン、と腹に当たった輪ゴムに、エンジュは大袈裟でなく、本当に1メートル以上飛び上がった。そしてソファーの下で寝ていた吹雪の真上に着地した。ゲフッとなって、慌てて寝ぼけ眼で辺りを見回す吹雪と、架空の敵に向かって首の毛を逆立ててみたものの、何が何だかサッパリわからない顔をしているエンジュがおかしくて、涙を流して笑ってしまった。
ドーブツギャクタイだっ! とか喚くヒトもいるかもしれないが、まぁいいじゃないですか。ヒトも動物も、見た目の可愛さだけで渡れるほど世の中は甘くない。盲導犬や警察犬のように仕事をするわけでもなく、エアコンの効いたソファーの上で日がな一日ノンベンダラリとしているのだ。たまには気晴らしの相手をしてくれてもバチは当たらんだろう。
エンジュのお陰で気分もスッキリ、その後の勉強もよくはかどった。
そしてその日以来、私は勉強中の気分転換にエンジュに輪ゴム攻撃を仕掛けるようになった。と言っても、そんなにしょっちゅうつけ狙っていたわけではない。精々週に一度か二度。
吹雪も狙ってみたが、彼は輪ゴム程度では目を覚まさない。目を開けることがあっても、「ん〜? 今なんか触ったみたい〜」 と辺りを見回し、私と目が合うとハタハタと2ー3度尻尾を振り、そのまま寝てしまう。
ちなみに『輪ゴムでコヨーテ・ハンティング』が始まって以来、寝ているエンジュの爪の絨毯への喰い込みが益々深くなったような気がしないでもなかったが、まぁ見なかったことにしておく。
そんなある日。
私の殺気を感じたのだろうか。エンジュがふと目を開け、そして飛んでくる輪ゴムを目撃してしまった。以来、彼女は私が輪ゴムを持っていると、ものすご〜く露骨に嫌な顔をするようになった。私の周りでウロウロしているエンジュを輪ゴムで狙う振りをすると、彼女はムッとした顔で私から顔を背け、私が輪ゴムを指から外すと笑い顔に戻り、ヘッヘッと嬉しげに尻尾を振る。
数年後、なんとか無事に獣医師免許獲得。エンジュでストレス解消する必要もなくなり、やがて彼女を輪ゴムでつけ狙っていたことすら忘れた。
しかしエンジュはあの屈辱を忘れてはいなかったのだ。
イジメなどでよく言うでしょう? やった方は忘れても、やられた方は決して忘れない。忘れようがないのだ。
ある日のこと。
「ジェイちゃん、ちょっとそこの本取って」
「ソファーに寝転んでないで、自分でとれば?」
「ジェイちゃんだって何にもしてないじゃん」
「今、ゲーム中なの! 僕に話しかけないで!」
iPhone から顔も上げないジェイちゃんにムッとする私。髪を結んでいた輪ゴムを取り、ジェイちゃんの後頭部を狙った。と、私の横で寛いでいたエンジュがハッとした顔で立ち上がった。
パチン、とジェイちゃんの無駄にデカイ頭にゴム命中。怒ったジェイちゃんとしばらくゴムの奪い合い及び撃ち合いをしていると、不意にジェイちゃんが首を傾げた。
「なんかエンジュが変な顔してない? なんかやけに緊張しているというか」
「あぁ、そう言えば昔、エンちゃんを輪ゴムでよく狙ってたからね。へぇ、まだ憶えてるんだ」
輪ゴムをかけた指を何気無くエンジュに向けてみた。メッチャいやそ〜な顔でこめかみを引き攣らせ、私から目を逸らすエンジュ。その表情、はっきり言って面白い。ゴムを段々強く引いていくと、彼女のピリピリとした緊張が伝わってくる。そして私がゴムを放す瞬間、エンジュは大きく横に跳んで難を逃れた。流石エンジュ。運動神経イイね。私が輪ゴムを撃つタイミングの読みも抜群だ。これだから起きているエンジュに弾を命中させるのは難しいのだ。
「僕もやりたい〜」
ぐふふ、と笑うとジェイちゃんが輪ゴムを手に取った。ジェイちゃんをじろりと横目で睨むエンジュ。
「エ〜ン〜ちゃ〜ん♡」 と笑いながらジェイちゃんが輪ゴムを指に引っ掛けてエンジュを狙った。その途端。
ガウガウガウッ、と凄い勢いでエンジュがジェイちゃんに襲いかかった。
慌てて逃げようとしたジェイちゃんを容赦無く部屋の隅に追い詰め、なんとジェイちゃんのジーンズの尻に噛みついた。エンジュがヒトを噛んだのは後にも先にもこの時だけだ。盛大な悲鳴を上げるジェイちゃん。
噛んだといっても牙は使わず前歯でちょっと齧っただけだが、それでも爪で思いっきり抓られたくらいには痛い。
「エンジュっっっ」 ジェイちゃんが怒鳴っても彼女は攻撃をやめず、降参したジェイちゃんが輪ゴムを床に捨てるとようやく攻撃の手を緩め、フンと鼻を鳴らした。しかしジェイちゃんが恐る恐る輪ゴムに手を伸ばすと、ガウッと手に噛みつく真似をする。 ジェイちゃんが輪ゴムから離れれば黙って一歩引く。
エンジュは決してジェイちゃんが輪ゴムを手に取るのを許さなかった。
エンジュは余程腹に据えかねていたのだろう。
しかし神に逆らうわけにはいかぬ。イライライライラ……。そして輪ゴムを手にしたジェイちゃんを目にした時、長年堪えていたモノが遂に爆発した。
神相手なら嫌なことでも我慢するが、下僕如きに輪ゴムでハンティングされて堪るかっ! この積年の恨み、神で晴らすわけにはいかないから、ジェイちゃんで晴らしちゃる!
その後、懲りないジェイちゃんが何度か輪ゴムでエンジュを狙ったが、その度にエンジュは容赦無くジェイちゃんに襲いかかった。しかしジェイちゃんが吹雪を狙っている時は知らんぷりしている。自分さえ狙われなければ他はどうでもいいらしい。
毎朝、輪ゴムで髪を束ねる私をじっと見つめるエンジュ。
私の前では常に大人しく賢く行儀よく振る舞うエンジュだが、しかし彼女も内心は色々と複雑なのだ。




