躾(☆)
我が家の動物は非常によく躾けられている。
ボイス・コマンドは勿論のこと、ハンド・コマンド、口笛、全てに等しく反応する。エンジュは私の視線ひとつで動くがアレはちょっと特殊。指差した場所で制限時間内に事を終えるというトイレの躾は当然だが、私から与えられたモノ以外は食べず、口に入れたモノも命令ひとつで吐き出す。たとえそれが食べかけ粉々ヨダレベトベトのクッキーでも。
自分の犬は賢い子を選び抜いているわけだから、まぁ躾が出来ていて当然だと思う。しかし世の中には飼主より犬の方が賢いケースがままありまして、そういう場合、犬は物凄く我儘になってその家に君臨するか、それとも手に負えなくなった飼主に捨てられ、保健所行きとなる。そしてどうしても貰い手の見つからなかった犬が時々我が家に来る。私に躾け直された犬達は皆、名犬と呼ばれ優しいヒト達に貰われていく。ボランティアなので一銭にもならないし、それどころか殆どの犬が何らかの病気持ちで、おまけに躾のなっていない犬共は皆一度は家中を見事にグチャグチャにしてくれるので、言う程簡単ではないのだが、まぁ貰う方も貰われる方も幸せそうなので時間が許す限りやっている。一種の趣味だ。
では躾のコツは何か。これを他人に理解出来るようにエッセイ如きで説明するのはあまりに難しいのでここでは省略するが、要は飴と鞭及び無言の圧力を駆使し、相手の行動を少しづつ自分好みに変えていくだけ。手っ取り早く躾けるためには動物の行動パターンの理解は必須だ。
例えば。
ジェイちゃんはアメリカ人の癖にレディーの為にドアを開けるのを怠る男だった。
一応混乱の無いよう言っておくが、レディーとは私の事だ。
「ちょっとドアくらい開けてよね!」と怒ると、奴は「なんで?」と聞き返してきた。
「男が女の為にドアを開けるとは、そもそも中世ヨーロッパのしきたりで、女はドアを開けて自ら外に出る自由が無いとみなされていたんだ。イズミは自立していて、手も足もあるんだから自分で開ければいいじゃないか」
知るか、そんなもん。ここは中世でもヨーロッパでもない。現代のアメリカだ。そして私はレストランのドアノブや電車の手すりなど、不特定多数の人間が触れるモノに触るのが大嫌いなんだよ。
翌日、私達はレストランに行った。自分だけドアを開け、さっさと中に入るジェイちゃん。ドアが私の目の前で閉まる。私は無言でドアの前に立ち続けた。2分程すると、ジェイちゃんが不思議そうに首を傾げつつ中からドアを開けた。
「何やってるの? コレ、自動ドアじゃないよ?」 無言で中に入る私。
コレを5回程繰り返した。ジェイちゃんは何も言わず私の為にドアを開けるようになった。
ジェイちゃんは皿を洗うのが下手だった。
洗ってもなぜかまだ食べカスが皿にこびりついている。皿の表は洗うが裏は洗わない。水で流しているはずのなのに洗剤の泡がついたままでヌルヌルしている。何度注意しても、ちゃんとやるのはその場限りで切りが無い。わざと手を抜いているわけではなくて、単に注意散漫で自分が何をやっているか気づかないのだ。(これをバカとも言う。)
ついにある日、私は無言でジェイちゃんを流しから押しのけた。
「え? なあに? 僕洗うよ?」
何も言わずジェイちゃんの洗った皿を全て流しに戻し、洗い直す私。
「え? え? どうしたの?」
ジェイちゃんを完全に黙殺し、絶対零度の無表情で皿を洗う。ちなみにここで「もう仕方ないなぁ」等の甘い諦めの表情を作ってはいけない。そんなのは逆効果、相手をつけあがらせるだけだ。ただひたすら無言・無表情で、相手が気まず〜くなるオーラを放出するのがコツだ。
状況が理解出来ないものの、気まずくなったジェイちゃんがオロオロと私の手元を見つめる。5分後、水を止めて隣の部屋に何か取りに行き、戻って来るとジェイちゃんが皿を洗っていた。その手元をじっと見つめる。食べカスは無いが、まだ皿の裏に洗剤がついている。無言で再びジェイちゃんを押しのける私。オロオロしつつ私の手元を真剣に見つめるジェイちゃん。それを幾度か繰り返し、その日のうちにジェイちゃんは皿洗いをマスターした。
褒めも叱りもせず、ただひたすら無言の圧力をかける。圧力に耐えられなくなった相手が、自分は何をするべきか己の頭で考えるようになるまでじっと待つ。よく言うでしょう、躾は忍耐だって。
ドアの開閉や皿洗いだけでなく、ジェイちゃんは無数の「私の気に食わない癖」を持っていたが、言葉で注意したり言い争う事など一度もなく、彼の悪癖は彼自身も気付かないうちにひとつづつ矯正されていった。
そんなある日のこと。
保健所から救助した犬を躾ける私をぼんやりと眺めていたジェイちゃんが、突如ハッとした顔で息を飲んだ。
「……僕は、イズミによって躾けられている。犬と全く同じ方法で……!」
ジェイちゃん啓蒙の瞬間である。
「ヒドイっ、信じられないっ、まさか犬と同じに扱われているなんて!」
何やら頭を抱えて床でのたうちまわり、泣き喚くジェイちゃんを白けた眼で見る私。何を今更、である。黙って夕飯の後片付けを始めた私に、「ナントカ言ってよ!」とキレ気味のジェイちゃん。ナントカって、一体何を言えばいいのだ。しかしなにやら悶えているジェイちゃんに対し、ここはヒトとして真摯な態度で彼と向き合い、正直に本当の事を言うべきなのだろうと思った。どうせ私は元々嘘をつくのは苦手なのだ。
「……私、ヒトってあんまり好きじゃないんだよね。特に嫌いってわけじゃないけど、まぁどうでもいいと言うか」
「……」
「だからさ、私に犬と同等に扱われるということは、ヒトとして大変名誉な事だと思うんだよね。本来なら君は犬より下の筈なんだから」
ナンデーーーっっ?! と叫ぶジェイちゃん。
「こんなに傷ついている僕に対し、もっと違う言葉は無いのかっ?!」
いや、だからなんで傷ついているのかが分からないんだって。それともコイツは「まさかぁ、そんなの気のせいだよ〜☆ ウフフ」等の嘘の言葉が聞きたかったのだろうか。私が折角真摯な態度で接してあげたのに、ヒトとは本当に面倒臭い。
「ナントカ言ってよっ!」と耳許で叫ぶジェイちゃん。ウルサイ。まるでドラマに出てくるウザい女のようだ。それか私の嫌うアホな犬(の飼い主)。思わず玄関を指差した。
「Out」
素早く立ち上がってドアに駆け寄る犬と私を交互に見比べ、やがてジェイちゃんが肩を落とすと無言で皿を洗い始めた。
その後もしばらくは何やら独り悶々と悩んでいる様子だったが、結局これに関してジェイちゃんは二度と何も言わなかった。
そして数年後。
悟りか慣れか、ジェイちゃんが自分への扱いに疑問を持っている様子はない。先日ふと興味に駆られ、『躾問題』を蒸し返してみたところ、彼は遠い目で澄んだ空を見つめ呟いた。
「そうだね、そんな事もあったね。でもアレで僕は知ったんだ。考えても仕方無いことって世の中にはあるよね。人生は諦めが肝心なんだ」
目下のところ、ジェイちゃんの人生最大の問題は如何にしてエンジュとの階級争いに勝利するかである。これに関してはまだ諦めていないらしい。
我が父は、「ジェイちゃんはいい男だ。悪いのは女の趣味だけだな。」と言う。
仲良しのお寿司屋さんの女将さんには、「ジェイちゃんはドMなのね」と言われた。




