蜘蛛
台所の流しに薄黄緑色の1cm程の蜘蛛発見。
これは流しの前の窓辺に置いた蘭の住人、エドワードくんだ。慌てて水を止め、エドワードくんの小さな体をそっとつまむ。
「こらこら、危ないでしょ。君の家はこっちだよ」
蘭の鉢にエドワードくんを戻す。しかしエドワードくんはツツツ、と糸を引いて蘭から脱走。再び流しに向かって走ってくる。蜘蛛の心理はよく分からないが、どうも1ヶ月近く住んでいた蘭を捨てて旅に出ることにしたらしい。仕方無い。バルコニーに出してやることにする。
エドワードくんを連れてバルコニーに出ると、金魚草の鉢の陰からちょろちょろと薄茶色のトカゲが走り出てきた。アレはエリックくん。冬のある日、ガレージの隅で凍えているのをジェイちゃんが見つけて保護したのだ。今は我が家のバルコニーに住んでいる。一瞬手の中のエドワードくんをエリックくんに食べさせてみたいという微かな衝動が起こったが、それはやっぱりあんまりだと思い直し、エドワードくんを金魚草の上に放してやる。いそいそと葉陰に隠れるエドワードくん。
そのままエリックくんとバルコニーでのんびり日向ぼっこしていると、ジェイちゃんが何やら喚きながらバルコニーに駆け込んできた。ジェイちゃんの立てる地響きに驚いて鉢の下に逃げ込むエリックくん。
「ちょっとっ! アレ見た?! 階段のところにいる…」
「あぁ、蜘蛛でしょ? 黒いヤツ。2ー3日前からいたのに知らなかったの? 可愛いよね」
「全然可愛くない。如何になんでもアレは大き過ぎる」
「3cmくらいしかないじゃん」
「毛も生えてる」
「毛くらいジェイちゃんだって生えてるでしょ。数年後には蜘蛛の毛も羨ましい状態になってるかもしれないけど」
「たとえツルッパゲになったとしても蜘蛛の毛なんて全然羨ましくない」
「あの子はムクムクしててボブって感じだね。ボビーって名前にしよう」
「……アレ、もしかしてタランチェラ?」
「さぁ、はっきり見てないけど多分ね」
タランチェラの屋内放し飼いなんて絶対にイヤだと泣き叫ぶジェイちゃんを無視してミルクティーを啜る私。既にお気づきの方も多いとは思うが、私は北アメリカ在住。そしてこの近辺にいる毒蜘蛛は Black widow(クロゴケグモ)だけだ。もふもふと可愛いタランチェラに毒はない。
たまに帰国する度に思うのだが、日本は蜘蛛が多い。それも結構見応えのある大きいヤツ。一昨年、ジェイちゃんを含む三名の友人と共に3週間程日本を旅したのだが、彼等の心に最も深く印象を残したのは京都の仏閣でも奈良の大仏でも築地のマグロでもなく、高速道路の休憩場のトイレにいた女郎蜘蛛だった。
手洗いに行った三人がいつまで経っても戻って来ないので探しに行くと、トイレの前に三人で肩を寄せ合うようにして何やら見つめている。
「何してんの?」と声をかけると、iPhone で写真を撮っていたキース君が頬を紅潮させて振り返った。
「見て! スゴイのがいる!」
足渡り11ー2cm程のメスの女郎蜘蛛。まぁ大きいけど、写真を撮るほどでもなかろう。しかしアメリカ人達は物凄く興奮してる。黒と黄色のシマシマ模様がツボなのだろうか。
「知ってる? 蜘蛛って巣のお掃除するんだよ」と言うと、私は千切った枯葉を蜘蛛の巣にくっつけ、ふっと息を吹きかけた。揺れる枯葉の振動に反応して蜘蛛が寄ってくる。しかし獲物ではなくタダのゴミだと気づくと、忌々しげに枯葉を取ってポイっと捨てる。
「オオオ〜〜」と大袈裟に感動するアメリカ人達。
「ビデオ撮るからもう一回やって!」 自分でやれよ、と思いつつリクエストに応える私と迷惑気な女郎蜘蛛。公衆便所の前で騒ぐアメリカ人達を何事かと周囲の人々が振り返る。ちょっと恥ずかしい気がしないでもないが、しかし生きモノの事となると私もついつい夢中になり、周りが見えなくなる。
「あ、あとね、蜘蛛の巣って縦糸と横糸があって、横糸はネバネバしてるけど、縦糸はツルツルだから、蜘蛛は縦糸を使って巣を移動してるんだよ」
立派な巣の丈夫な縦糸をキシキシと触ってみせる。へぇ〜、と言ってキース君が恐々と手を出した。彼はチャレンジャーなのだ。ちなみにジェイちゃんはこういう場合絶対に自ら手を出したりしない。キース君が縦糸を触り、「オオオっ、ホントだ!」と感動した瞬間、巣の振動を捉えた女郎蜘蛛がキース君の手元に向かって素早く動いた。
「What a f***$%$#*!!!」
凄まじい悲鳴と共に後ろ向きひっくり返った彼のあそこまで怯えた表情を見ることは二度とないのではないかと思う。
後日、アメリカに帰って来てから彼の iPhone を確認したところ、日本各地で撮った女郎蜘蛛の写真で一杯だった。




