はみだし者たちの夏 ~夜が終わりきらない湾岸で、均衡が壊れる朝が来る~
1983年。
狂騒と退廃が、
まだ剥がれ落ちきらない東京。
夜が終わりきらない、
夜明け前の白けた時間だった。
*
震える女の背骨に、
フェンスの冷たさが突き刺さる。
「可愛いねぇ。俺と一緒に楽しもうぜ」
パンチパーマの巨漢が、
女を金網へ押しつけた。
「やめてぇー!」
錆びた鉄が背中を擦り、
肺から息が押し出される。
笑い声。
不良どもの口笛と、乾いた嘲笑。
*
少し前――
先週、突然、
湾岸エリアを拠点とする
**『大黒湾岸ミッドナイトクルー』**の頭が死んだ。
深夜、湾岸を飛ばしていてのバイク事故だった。
いま、そのミッドナイトクルーのアジト――
廃車置き場だった跡地に、
名だたる不良たちが、バイクで次々と集まってきていた。
錆びたフェンス。
折れた標識。
かつて鉄屑と事故車が山と積まれていた場所。
オイルと鉄の匂いが、
冷えかけた地面に、まだ染みついている。
頭上を走る高速道路。
夜通し鳴り続けるエンジン音が、
怒号も、悲鳴も、すべて飲み込んでいった。
「タカシ、その女たち、どこで拾ってきたんだ」
声が落ちたのは、
夜と朝の境目に取り残された、その場所だった。
フェンスの内側で、
女の悲鳴が上がる。
「やめて……!」
「やめてー!」
夜明け前の空気に、
不釣り合いな笑い声が重なる。
缶ビールが転がり、
誰かが、始発前の静けさを裂くように、
ブレーキランプを一瞬だけ灯した。
東京湾から吹き上げる夜風は微かに冷たく、
油と潮と、焦げた鉄の匂いを運んでくる。
――ここが、
本日の集合場所だった。
八つのチーム。
力は、拮抗している。
どこかがどこかを叩き潰せば、
勝った側も必ず傷を負う。
削られた力は、すぐ次の獲物になる。
だからこそ、
均衡は保たれてきた。
・大黒湾岸ミッドナイトクルー。
・本牧夜叉連合会。
・川崎ドゥームレギオン。
・有明修羅皇帝會。
・歌舞伎町デンジャラスドリーム。
・葛西ヘル・ジャッジメント。
・木更津アポカリプス・レガリア。
そして――
渋谷を拠点とする、道玄坂シャドウハーツ。
それぞれが、
自分たちのチーム名を背中に刺繍し、
夜が明けきる前の東京を走っていた。
だが。
越えてはいけない一線だけは、
誰もが知っていた。
神奈川、千葉、東京――
その地理的中心に陣取っていたのが、
大黒湾岸ミッドナイトクルーだった。
――頭が、生きている間は。
副頭の伝言が、
七つのチームへと駆け巡った。
「俺たちは、一番強いチームの傘下に入る」
その一言が、
長く続いた均衡を、はっきりと揺らした。
各チームから代表を一人。
タイマンで殴り合う。
最後まで立っていた奴のチームが勝ちだ。
空が、わずかに白み始めていた。
*
同時刻。
夜明け前の、渋谷・道玄坂。
ラブホテルから、
気の早いアベックが出てくる。
その脇をすり抜け、
酔った足取りで、男はここまで歩いてきた。
デパートのだだっ広い路面駐車場。
まだ誰もいないコンクリートに、
昨夜の熱気だけが、かすかに残っている。
男は、ゆっくりと地面に仰向けになり、息を吐いた。
チャコールグレーのダブルスーツは、
先週、給料をはたいて買ったばかりだ。
自分の中の「都会」そのもの。
純白のピンホールシャツ。
細い黒の光沢タイを、
襟元のゴールドのピンホールピンが支える。
足元では、
こげ茶のイタリアン調ショートブーツが、
街灯を拾って鈍く光った。
髪はポマードで後ろに流し、
両サイドの長い前髪だけが額にかかっている。
踊り明かした汗と、
一緒にチークした女の香水の残り香。
「……確か今日、
なんか用事があったよな」
煙草を一本くわえる。
空を見上げたまま、火はつけない。
「やっぱ、星ねぇーな」
遠く、
まだ眠っている街の向こうに、
湾岸の灯りが滲んで見えた。
「ああああああああ!」
男の煙草が口から飛んだ。
「チーク踊った女の、
電話番号、聞くの忘れた——!」
*
震える女の背骨に、
フェンスの冷たさが突き刺さる。
「可愛いねぇ。俺と一緒に楽しもうぜ」
パンチパーマの巨漢が、
女を金網へ押しつけた。
錆びた鉄が背中を擦り、
肺から息が押し出される。
胸元のシャツに、
乱暴な手がねじ込まれた。
「やめ……!」
声は、
途中で潰れる。
笑い声。
観客の口笛と、乾いた嘲笑。
――そのとき。
グガッ――ン!
音が、遅れて来た。
鈍く、
骨に直接触れるような衝撃。
パンチ男の顔に拳が叩き込まれ、
巨体が宙を舞う。
フェンスから引き剥がされ、
地面へ叩きつけられた男は、
泡を吹き、
一度も声を出さなかった。
女が、
荒い息のまま顔を上げる。
そこに立っていたのは――
鋭く傾いた、
細いスクエア眼鏡。
感情の読めない目。
――異様なほどの巨躯。
「なんだなんだ、ここは」
低い声。
一拍。
「……無法地帯かよ」
道玄坂シャドウハーツ副長、
堂島ヒロイ。
「てめぇー!!」
もう一人の女を押さえつけていた男が、
背後から拳を振りかぶる。
――ガシュー!
だが。
その手は、
軽く、あまりにも簡単に止められた。
掴んだのは、女の左手。
紅い長い髪。
紅い瞳。
鼻と口を覆うハーフマスク。
道玄坂シャドウハーツ女特攻隊長、
祗園寺リン。
リンは無言のまま、
男の親指を右手で握る。
――グシャ!
悲鳴が出る前に、
澄ました顔で、
あり得ない方向へ、へし折った。
間は与えない。
次の瞬間、
膝が跳ね上がる。
鼻が潰れ、
男は白目を剥いたまま、
後方へ吹き飛んだ。
「助けはいらねぇーし」
ヒロイは左手の缶コーラを傾け、
何事もなかったかのように喉へ流し込む。
「ヒロイ。
……どう見ても無法地帯だろが」
祗園寺リン。
さっきまでの笑い声は、
もう無かった。
周囲が、黙る。
その、ほんの一瞬。
――ぶはっ!!
巨躯が前屈みになり、コーラが噴き出した。
「変なとこ、入った……」
――ゴホ、……ゴホ。
むせるヒロイ。
コーラが鼻を垂れる。
「……汚ねぇな」
リンが足元を引きながら言う。
「……じじいか?」
《紅い悪魔が子守唄を囁きにくる》
そう恐れられる女は、
静かに周囲を見回した。
「てか勝治、遅くね?」
道玄坂シャドウハーツ総長、
大友勝治。
――まだ、来ていない。
夜明け前の湾岸に、
新しい色が、
はっきりと差し込み始めていた。
*
渋谷のビル群の隙間に、
夜と朝の境界が滲む。
群青から灰色へ。
街の心臓が、再び動き出す。
勝治は、地に背をつけたまま、
ようやく煙草に火をつけて、
静かに笑った。
「……この街、で・か」
十代の頃は、全部自分の手の中にあると思っていた。
白い息が揺れる。
「俺って、――ちっせーな。
……牛丼でも食うか」
煙草の先が、
夜明け前の空に、赤く瞬いた。
――その時。
――ギリュゥゥゥゥゥゥ!!!
空気を切り裂く、
凄まじいブレーキ音。
特攻服の背中には、
――【道玄坂シャドウハーツ】の文字。
「総長!!」
切羽詰まった声。
焦りを隠しきれない叫び。
「……どうした、タク?」
勝治は煙草を咥えたまま、
ゆっくりと上体を起こした。
「どうしたじゃないっすよ。
何やってんすか!
こんなとこで!」
跨るエンジンの熱気。
近づいてくる、油と排気の匂い。
勝治は、
ほんの少しだけ間を置いて――
「ん、なに?」
遠く。
湾岸道路の外灯がひとつ、またたいて消える。
道路中央の直線が、白く浮かび上がった。
そして、
今日も朝がはじまる。
――おわり。




