11:イチャイチャ未遂
不銅の土曜日昼間の来訪は、日向家でのほぼ定例行事と化していた。
わざわざお高めテイクアウトを利用したのも初回だけで、それ以降は普段通りの昼飯に同伴するのが流れとなっている。
不銅によると彼は現在、市役所職員向けの宿舎に住んでいるらしい。だが、そこが手狭なワンルームなのだという。必然的に台所も本格的な自炊というより、湯沸かしや温め程度の機能しか設けられていないようだ。つまり、ショボい。
意識が高い従兄にとって、三食インスタント生活は許しがたかった。しかし安月給の新卒にとって、格安の宿舎に住めるのはありがたい限りでもある。
この解決策として、不銅は食材持参で日向家に馳せ参じることになったのだ。
鈴緒としても昼食の準備を手伝ってもらえるうえ、息子同様に堅物な伯母からは何かとお高め調味料や食材も届いている。
日向兄妹へのマウントを兼ねている気がしなくもないが、光熱費を差し引いてもメリット盛り沢山の黒字である。なにより、伯母本体がお届けされるわけではない。
よって手料理が食べたいと彼から提案を受けた時も、少し悩んだ末に土曜日限定で承諾したのだ。
「わぁ、佐藤錦だー」
なんとも高そうな木箱に入ったツヤツヤのサクランボを見つめ、鈴緒は熱い吐息をこぼした。こちらもつい先ほど、伯母から宅配便で届いた品である。瑞々しく弾力のある小さな果実は、まるで宝石のようだ。
鈴緒の後ろに立つ銀之介も、サクランボを覗き込んだ。
「旨そうだな。デザートにするか?」
そう提案する彼の手の中には、ケーキの入った紙箱がある。先ほど緑郎が、散歩の帰りに買って来てくれたものだ。
だが、このサクランボの購入者は不銅の母である。こちらを優先して、息子に食べさせるべきだろう。
それにケーキは夕食のデザートでも問題ないし、不銅にも土産として持ち帰ってもらえばいい。鈴緒も彼の提案に、こくりと頷いた。
「うん、そうだね――あ、お兄ちゃんは?」
さっきまでケーキ入りの紙箱片手にドヤ顔をかましていたはずなのに、気が付けば姿が消えている。鈴緒がぐるりとキッチンからダイニングを見渡していると、銀之介が無表情に肩をすくめた。
「月山さんに捕まっていたから、恐らくまだ洗面所で手を洗っているんだろ」
「手洗い? どうして?」
「外から帰っても、ろくに手を洗っていない事がバレたらしい。正しい手の洗い方を教えられている筈だ」
実にあの二人らしいエピソードである。鈴緒はつい噴き出した。
「お兄ちゃん、毎週不銅くんに怒られてるね」
「懲りない男だ」
銀之介の声も、どこか呆れ混じりである。
何かと口うるさい不銅の関心は、今のところほぼほぼ緑郎に固定されていた。おかげで鈴緒と銀之介の関係性を勘ぐられることもなく、おまけに緑郎の怠惰な日々がほんの少しだけマシになっていた。ほんの少しだけ、であるが。今後の発展に期待だ。
(……わたしもついつい、銀之介さんに甘えちゃうし。不銅くんがいてくれた方が、我慢出来て丁度いいかも)
鈴緒はサクランボをザルに移しながら、そんなことも考える。不銅がいる間は、二人の関係性はただの同居人のままである。自然と彼へ頼る頻度も減らせていた。
鈴緒は小さな満足感を覚えながら、ザルごと水を張ったボウルに入れ、サクランボを優しく水洗いする。
――と、ここまでなら不銅の毎週末のお宅訪問もメリットだらけ、であるが。
鈴緒には一つだけ気掛かりなことがあった。
彼が家にいると、銀之介がどことなく浮かない様子なのだ。相変わらず表情はほぼ「虚無」のため、ぱっと見はいつも通りの業務中の獄卒だが。
しかし彼の恋人である鈴緒は、ほんの少し気落ちしているのが分かった。
だがその一方で、不銅とは普通に日常会話や雑談を交わしている。彼を嫌ったり、警戒している様子もない。むしろ不銅からは嬉しそうな笑顔と一緒に
「緑郎君のお友達にも、真っ当な職に就いている人がいて良かったです」
と、どこかで聞いたような感想まで賜っていた。関係としてはなかなか良好だろう。
何が彼を落ち込ませているのか、と鈴緒はガラス皿を持って来てくれた彼を見上げる。銀之介は鈴緒にガラス皿を渡した後、本日の主役である青椒肉絲を大きな平皿に移していた。だがすぐに視線に気づき、素早く身をかがめて鈴緒の目線に合わせる。
「どうした、鈴緒ちゃん?」
「あ、ううん。なんでもないんだけど……」
銀之介はやはり、安定の低空飛行なテンションに見える。自分こそ気にしすぎだろうか、と鈴緒は笑いながらサクランボを移したガラス皿へ一瞬目を向けた。
そしてサクランボを一房、ひょいと摘まみ上げる。ピンク色の丸い果実が二つ並んでくっついていた。
「美味しそうだし、ちょっと味見しない?」
鈴緒がサクランボ片手に見つめると、銀之介の強面もゆるりと解れた。しかしサクランボを受け取る、あるいはガラス皿から気に入ったものを選ぶこともなく、ぱくりと口を開けて「待ち」の体勢に入った。食べさせて、ということらしい。
隙あらばの甘えに、鈴緒は束の間むず痒そうに眉をひそめた。だが銀之介もツバメのヒナよろしく口を開けたまま一歩も引こうとしないので、先に彼女が折れる。
鈴緒だって、彼とイチャコラすること自体は好――嫌ではないのだ。
「もう……子どもじゃないんだから」
表面上は文句を言いながら、鈴緒は左手でサクランボを細い枝からもぎ取る。摘まんだピンクの実を、銀之介の口の中に運んだ。
彼がパクリとサクランボを食べる瞬間、鈴緒の細い指も薄い唇で淡く噛まれた。たまらず、鈴緒が小さな悲鳴をこぼす。手を引っ込める瞬間、自分を見据える銀之介の目が捕食者のそれになっていることに気付いた。
この後の流れを経験上察してしまい、鈴緒は口をすぼめたしかめっ面になる。
「……不銅くんに、見られちゃったらどうするの」
銀之介はサクランボの種を流しの三角コーナーに捨て、無表情に言い訳した。
「すまん。鈴緒ちゃんも美味しそうだから、つい」
「うわぁ。発言がエロ親父だ」
鈴緒は呆れ切った声ではあるが、銀之介が腰に腕を回して来るのにも、そのまま引き寄せるのにも抵抗はしなかった。心持ち控えめに、彼にぴたりと寄り添う。
渋面のまま自分を受け入れる彼女を見下ろし、銀之介は目を細めた。片方の腕は彼女の腰に添わせたまま、もう片方の手で鈴緒の手を持ち上げる。先ほどつまみ食いした方の手だ。
そこに口づけも落とした。指先、手の甲、手の平とキスをされた鈴緒は途端に口元を不格好に歪める。
「銀之介さん、それ、くすぐったい」
「うん」
そう答えはしたけれど、銀之介が止まる気配はない。彼女の手首にもキスした後、彼は再度鈴緒の指を甘噛みした。左手の薬指の付け根に、薄っすらと歯型を残す。
「いっそここに、指輪を嵌められたら良いんだが」
鈴緒はぽつりとこぼされたこの言葉で、たちまち顔を赤らめた。
色恋の経験値が皆無の彼女だって、左手薬指の指輪の意味ぐらいはさすがに分かる。赤い顔のまま、うなだれた。
「でもわたし……まだ、学生、だし」
「しかし本業は、巫女だろう?」
「ぐぅっ」
頼りない抵抗もあっさり揚げ足を取られ、不細工なうめきが漏れる。鈴緒がじっとりと湿っぽい目つきで顔を上げると、飄々としたすまし顔がこちらを見下ろしていた。視線がかち合った銀之介は、薄く苦笑いを浮かべた。
「勿論、こんな勢い任せで君と結婚する気はない」
「……うん」
「ただ、今後の事も前向きに考えて貰えると嬉しい」
そんなことは言われなくても、である。鈴緒は拗ねた声で言った。
「ちゃんと、考えてるもん……」
「そうか」
「でないと、付き合おうって思わなかった、し」
鈴緒が彼を意識するきっかけになったのは、自分たちの未来を先見したことだ。
もちろん何十年も彼と健やかな関係でいられるのかは、彼女にも分からない。だが少なくとも、数年後の自分はとんでもなく幸せそうだったのだ。
よって彼女にとって銀之介との交際は、その「数年後」に待ち受ける結婚も見越してのものだった。
鈴緒の言葉を聞いた銀之介は、しばし三白眼を大きくして固まっていた。だがすぐに、照れくさそうに口元を緩めた。
「そうか。ありがとう」
初めて見る幼いはにかみ笑顔に、鈴緒の頭が束の間浄化された。自分より年も背丈もずっと上の男性に
(え、なにこの可愛い生き物)
という謎の庇護欲が爆発してしまったのだ。
おかげで軽口も文句も何も出て来ず、ただ全身を茹だらせて、自分をぎゅうぎゅう抱きしめる彼にされるがままとなる。
しかし甘ったるい時間は、唐突に終わりを迎えた。
廊下を小走りに歩く足音が、キッチンめがけて近付いて来たのだ。
「鈴緒、ハンドソープの詰め替えはありますか? 緑郎君も見つけられなくて」
同時に不銅のそんな声も聞こえた。鈴緒は慌てて銀之介の腕の中から抜け出し、その拍子に調理台で思い切り腰骨をぶつける。
「うぐぅっ……あ、不銅くん、ちょっと待ってね!」
呆然と固まる銀之介へ一瞬目くばせしてから、鈴緒は不銅と似たり寄ったりの小走りでキッチンの外へ出た。
そのため、彼女は知らない。
銀之介がキッチンに一人取り残された直後、壁に両手を突き、そのままゴツンと頭突きをしたことを。




