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「もちろん、君を危険な目にさらしたくなかったからだ」
後日、いつものように夕食を摂りに屋敷へ訪れたシルヴァンは、アレクサンドラとゆったりソファに並んで腰掛け、食後のお茶を飲みながらそう答えた。
「ですが、少しでもお話しいただければ私でもお役に立てることがありましたのに」
それを聞いて、シルヴァンは苦笑した。
「君は向こう見ずなところがある。アリスのことを話したりすれば、自分で動こうとするはずだ。違うか?」
そう問われたアレクサンドラは、そんなことはないとは言い切れずに黙り込んだ。
しばしの沈黙のあと、シルヴァンがゆっくりと口を開いた。
「それに、アリスは一枚も二枚も上手だった。僕は君を諦めなければならないかもしれない、と思ったほどだ」
「まさか、そこまで殿下を追い詰めるなんて……。ですが、『君をあきらめる』とは? 失礼を承知で申し上げますけれど、殿下は私のことを、よく思ってらっしゃらなかったではありませんか」
「違うよ、レックス。僕は君を愛していた。だが、それを知ったアリスに君は命を狙われた。だから、気持ちを隠すしかなかった」
「わ、私を……あ、愛してる?」
アレクサンドラは急激に頬が熱をおびてゆくのを感じながら、両手でそれを抑えるとシルヴァンから目を逸らして答える。
「でもアリスがそんなことをするようには見えませんでしたわ」
「いや、アリスはとてもしたたかだ。表面上君と親しくし、僕に近づき、そしてダヴィドたちにも近づいて裏からすべてを動かそうとしていた」
アレクサンドラは驚きシルヴァンの方へ向き直る。
「そんなことを? アリスが?」
「そうだ。それに彼女がすべての元凶であること、そう気づくのに時間がかかってしまった」
「でも、なぜアリスは私のことをそこまで……」
「もちろん、僕が君しか見ていなかったからだろう」
このときアレクサンドラは以前のことを思い出すと、疑念が生まれた。
もしかして、あのとき自分を貶め殺そうとしたのはアリスだったのでは?
そう考えるとすべてのことに納得がいく。
冷たい地下牢で、あのときカジムは言った。『王宮はあの令嬢を見捨てた』と。
けれど、もし本当にカジムがシルヴァンの命を受けて動いていたのなら、アレクサンドラを人質に王宮と交渉をしようとするだろうか?
いや、そんなことをするはずがない。
カジムは最初からアレクサンドラを殺すつもりで誘拐し、それをディがやったことにするつもりだったのだから。
だとしたら、『王宮はあの令嬢を見捨てた』と言うこと自体が嘘なのだろう。
それにその計画でいけばシルヴァンは、アレクサンドラ殺害の罪でディたちを制圧すればいいだけである。
だが、ディは今王宮と交渉中と言っていた。シルヴァンはわざわざディと交渉する必要はなかったはずである。
それにカジムはこうも言っていた。
『俺にはディや王宮がどうなろうが知ったこっちゃない』
シルヴァンが依頼主ならばそんなこと言うだろうか?
カジムが自暴自棄になっていた、と考えれば辻褄が合う話かもしれないが、それならば最後に依頼主の伝言を律儀に果たす必要はないはずだ。
考えれば考えるほど辻褄が合っていく。
そもそもあれほど強引に婚約をするシルヴァンなら、障害があればさっさと打ち払っていたはず。
遠回しな暗殺など、シルヴァンの性格からしてあり得ない。
そんなことを考えていると、シルヴァンがアレクサンドラの手を取った。
「僕は君を守るって決めたんだ。幼い頃、あのモイズ村で君にこの腕輪を渡したあの日から……」
その言葉にアレクサンドラは、はっとしてシルヴァンを見つめた。
純粋にアレクサンドラを見つめる、あの真っ直ぐな瞳や、土ボタルを一緒に見たあの感動。それらの記憶がアレクサンドラの中に溢れ出した。
「もしかして、まさか……殿下は『ルカ』なのですか?」
シルヴァンは頷くと、とても優しい眼差しで見つめ返した。
「アリスの件を片付けてから話そうと思っていた。隠していてすまなかった」
そう言って、アレクサンドラの腕に美しく輝く腕輪をそっと撫でる。
「この腕輪を今も大切に着けてくれていると知ったときは、とても嬉しかった。君も僕のことを忘れていなかったのだ、とね」
「ルカ……」
アレクサンドラは胸の奥がギュッとした。そうして、込み上げてくる感情を抑えながらシルヴァンと見つめ合う。
シルヴァンは自嘲気味に笑うと言った。
「あのころの僕はなにもできない、随分と情けない子どもだった。そんな僕のことを君は随分気にかけ、助けてくれた。だから今度はそんな君を、僕は守りたいと思った」
そうだ、あのときの青白い顔のやせっぽちの少年は、こんなにもたくましくなり、強くなった。そして約束どおり、こうして目の前に現れ自分を守ってくれていたのだ。
そう思うとアレクサンドラの視界は霞んだ。
「僕は君を愛してはいけないんだと思っていた、だけどやはり運命は君のほうを向いていた。僕は君以外を愛することなどできない」
そのときシルヴァンは冗談っぽく言った。
「それに、確か君も『彼以外は考えられないのです。彼が何者だろうとかまわない』んだろう?」
それはアレクサンドラが婚約を逃れるために思わず口走った言葉だったが、このとき本人の目の前でその台詞を言ったのだと気づいて、カッと顔が火照るのを感じた。
「あ、あれは言葉の綾というか、咄嗟に言ってしまっただけで……。もう! からかわないでください」
こぼれる涙を拭いながら、そう答えてそっぽを向いた。
「いいや、からかうつもりはない。僕はあの台詞を一生忘れないだろう」
そう言ってシルヴァンは、ゆっくり立ち上がるとアレクサンドラの目の前に跪いた。
「とても遠回りをしてしまった。でもなにがあろうとも、僕はこの先もずっと、残酷な運命からだって君を守ってみせる。だから、君のすべてを僕にくれないだろうか? 僕も、すべてを君に捧げよう」
そう言うと、リングケースを取り出しアレクサンドラに指輪を差し出した。
アレクサンドラの中で、今まであったことが波のように押し寄せた。
一度は裏切られたと思い、許せず拒絶したこともあった。
だが、それらすべてが誤解だとわかり、彼の優しさに触れた今、これを断る理由はもうなかった。
アレクサンドラは真っ直ぐにシルヴァンを見つめる。そこには昔モイズで出会ったあの少年の純真な眼差しがあった。
それを見て、今までの迷いが胸の中で溶けていくのを感じた。
「はい」
そう答え、アレクサンドラは指輪を受け取る。
その瞬間、シルヴァンは、アレクサンドラの腕を取り自身に引き寄せ力強く抱きしめた。
「ずっと、君だけを愛し続ける」
シルヴァンはそう囁くと、アレクサンドラに顔を近づけそっと口づけた。最初は軽く、それは次第に深いものへと変わっていった。
あの断罪のあと、アリスが大臣たちの弱みを握り脅迫、または賄賂を渡し買収していたことがシルヴァンの徹底的な調査によって暴露され、大騒ぎとなった。
これは国を揺るがす根本的な問題であった。
シルヴァンはアレクサンドラを不安にさせないようにと、裁判の内容を些細に報告しに来てくれていた。
「本当に驚きましたわ。あのアリスがそんなことまでしているなんて」
アレクサンドラがため息交じりにそう答えると、シルヴァンは苦笑して答える。
「僕は驚きはしなかった。実は君がモイズ村へ行ってしまったあと、不穏な動きがあってアリスのことは徹底的に調べていたんだ。彼女の狡猾さを僕はよく知っていたからね」
「そうでしたの」
そう答えながら、以前、反乱軍に捕らえられたときシルヴァンの婚約者という立場上、信じられないほど厳重に警備されていたにもかかわらず、あっさり賊に囲まれたのはアリスが大臣たちとつながっていたからなのだと気づく。
シルヴァンはあのときそばにはいてくれなかったかもしれないが、ちゃんと守ろうとはしてくれていたのだ。
そう思いながらシルヴァンの顔を見つめる。
「レックス? どうしたんだ?」
「なんでもありませんわ」
そう言って微笑むと話を続ける。
「それにしても私、アリスがそんなに恐ろしい方だなんて、本当に気づきもしませんでしたわ」
「いいんだ、君はそれで。ただ、モイズ村にアリスが現れ君に近づいてきたときは、さすがに肝を冷やしたが」
アレクサンドラは二人の距離を縮めようと、あれこれ画策していたが、それらはまったく無駄なことだったのだと思わず自嘲気味に笑った。
「どうした?」
アレクサンドラはかぶりを振った。
「いいえ、あの頃てっきりルカはアリスのことを好きになると思って余計なことをしてしまったと、少し反省したところですわ」
「そうだね、なにやら画策していることには気づいていたけれど、僕にしてみればそれすら可愛らしくて、愛おしいと思っていたから、今にしてみればいい思い出だ」
「なっ! 可愛いなんて、そんなことないですわ」
するとシルヴァンがアレクサンドラを自分のほうへ引き寄せ、背後からギュッと包むように抱きしめ、耳元で囁く。
「いや、こんなに可愛らしい人はいないよ、僕の愛しい人」
すると正面に座っていたエクトルが大きくため息をつき、呆れたように言った。
「殿下、僕の存在を忘れないで下さい」
シルヴァンはにっこりと微笑む。
「もちろん、君のことは忘れていない。逆に忘れていないからこそ見せつけているんだが?」
アレクサンドラは両手で顔を覆った。
「は、恥ずかしい」
するとシルヴァンとエクトルが声を揃えて言った。
「可愛すぎる……」
穏やかに月日が流れ騒動から三年後、ダムが完成すると同時にシルヴァンとアレクサンドラの結婚式が盛大に執り行われた。
ダヴィドやシルヴァン、それにアレクサンドラはこの一大プロジェクトを成し遂げたとして、国民から慕われ圧倒的な支持を得ることができた。
このダムが正常に稼働すれば、今後、水害の心配がある場所に建設が進んでいくことになるだろう。
王宮のバルコニーから国民に手を振りながら、シルヴァンはアレクサンドラに言った。
「レックス、君のおかげで数多の国民が救われ、今後もこの国に富をもたらすに違いない」
「そんな、私一人の力ではありませんわ。ダヴィやギルドのみんなが力を合わせてくれたからこそ、この日を迎えることができたんですもの」
「そうかもしれない。だが、そこへ至るまでの功績は誇りに思っていい」
そんな話をしていると、背後に控えていたダヴィドが口を開く。
「いいえ、殿下。あのときモイズ村で殿下が我々の話に耳を傾けてくださったからこそ、この偉業が成し遂げられたのです」
シルヴァンははにかみながら振り返る。
「そうか、ありがとうヴォー男爵。だが、君もこの偉業を成し遂げた一人だということを忘れるな」
そう言うとアレクサンドラに向き直り、口づけた。
すると、民衆から歓喜の声が上がり、空高く鐘の音が鳴り響いた。




