10 迫りくる壁
こんな感じに迷宮に喰われて? 異世界へ行ってしまう物語が「おっさんリメイク0」です。
その流れを汲んで書かれた作品が「ダンジョンクライシス日本」でした。
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それは何の前兆もなく突然にやってきた。
最初は軽い地響きのようにしか感じなかった。
「あれ、気のせいだったのかな?」
それで済ませてしまえるくらいの僅かな微々たる揺れだったのだ。
最初の、あの大地震が来たかと思うような凄まじい揺れではない。
あれからまた一週間、何故か特に何も無かったので気は緩みまくっていたのだ。
はぐれゴブリンの侵入を、例の能力に付随しているレーダー機能が自動検知したので、おっかなびっくり退治したくらいだ。
外に出た途端に、丁度階段から上がってきたばかりのそいつと見事に出くわした。
二つある階段の一つは、俺の部屋の玄関からはほんの目と鼻の先であるニメートルくらいしかない。
よかった、そいつが玄関のすぐ外にいなくて。
ドアを開けた時に脇を抜かれて中に入られてしまうと子供達が襲われてしまう。
拳銃弾をフルオートで撃ち出す軽量のサブマシンガンは素晴らしい威力だった。
この程度の小さくて素早そうな相手を倒すには、狭いマンションの通路ではライフルよりもずっといい。
だが倒したと思い込んで、うっかりとそいつに近づいてしまい、まだ生きていた血塗れのそいつが起き上がって襲ってきたのにビビって、思わず出した斧で無茶苦茶に脳天を刻んでやったのはトラウマ物だったのだが。
相手は人間ならば確実に起き上がれないほどの超重症であったのでかなり動きが鈍かったのが、こんな戦闘には不慣れであった俺にとって幸いした。
相手は武器の棍棒も手放していて無手だったし。
初めての本格的な魔物との白兵戦は、一方的な『七面鳥撃ち』で俺の勝利の内に幕を閉じた。
玄関前の廊下が緑色の血の海だった。
俺も結構な量の返り血を浴びてしまったし。
緑の返り血というのも、また厳しい。
まるでB級SF映画の出演者にでもなったような気分だわ。
まあ、それくらいなら今は十分に平和の範疇に入る。
汚れた廊下なども収納で全部綺麗に片づけられたしな。
「なあ、澪。
今、何か揺れなかったかなあ?」
「あ、ゴメン。
立って御昼御飯の仕度をしていたから、よくわかんなかった」
「そうか」
俺は首を捻った。
確かに揺れたような気がしたんだがな。
ここは免振マンションなので、たまには瞬間突風でパシンっと揺れる事もあるのだが、今はそんな強風は吹いていないはずなのだ。
風の音も特に聞こえない。
「あ、僕も少し揺れたかなと思ったんだけど。
それに、まだ揺れているような気がしない?」
おお、言われてみれば確かにまだ揺れている。
しかも、強くなって段々と近づいてきているような気がするな。
こ、これは。
まさか!
「澪、ヤバイ!
火を消せっ。
何かがおかしいっ!」
「ええー、あとちょっとで完成なのに~」
「いいから消して、こっちへ来い!」
「はあーい」
そして澪がやってきた時にはもう、それは凄まじい鳴動としてこのマンションを揺るがしていた。
たぶん、これは地震ではない。
何かが、何か巨大な質量が近づいてきているのだ。
「もしかして超巨大な魔物か⁉」
そしてベランダ側の窓の外に目をやって気付いた。
なんと景色の中に壁がある。
何かぼんやりとした巨大な壁が、このマンション目掛けて近づいてきているのだ。
「これは!」
「何、なんなの、おいちゃん」
俺は廊下を駆け出して玄関から外へ出たが、その場で青ざめた。
「澪ー、玲ー、何かに掴まれっ!
迷宮の壁が、あの見えない壁が迫ってくる。
何もかもを飲み込んで!
瓦礫の山を押しながら、もう、すぐそこまで来ているっ」
「ええーっ」
澪は玲を抱き締めた。
うん、確かに何かに掴まれとは言ったがな。
俺は玄関の鍵を掛け、ドアガードをかけて戻る。
そんな事に何の意味もないのだが、思わずやってしまった。
俺も少し冷静さを欠いているのかもしれないが、それは仕方が無いだろう。
迷宮の胃袋と呼ばれるあの見えない壁が、猛速で街の中心に向かって突き進んできているのだ。
リビングから遠くに見える南側の壁は街の反対側から来るので、元は七キロメートル先にあったもので、玄関側から見る北側の壁は元々三キロメートル先にあったものだから、そっちはもはや目の前まで迫って来ていた。
既に裏手にある川のすぐ向こうまで迫ってきた信じられないほどの量の土砂、かつてはこの街に建っていた建物や車などを押し流してきた瓦礫の海をこちらへ溢れさせてきている土砂津波だったのだ。
その御蔭で迫ってくる壁の存在をはっきりと視認できる。
あちこちで細々と生き残っていたはずの者達も、既にその餌食となり果て、押し潰されてその命を迷宮に捧げたのだ。
間もなく俺達もマンションごと、その瓦礫や亡者達の仲間入りをする破目になるだろう。
俺は二人の子供を両腕の中に抱え込んで一心に祈った。
「大和、大和、大和!
イコマ、俺に力をくれっ。
このマンションを、子供達を守る力を~。
この無用に大きくなった天文学的な単位の、俺のMPの限りを尽くして‼」
その後は一体何を叫んでいたのかよく覚えていない。
迫り来る、何もかもを飲み込んだ恐るべき不可視の壁が俺達を、そしてこの街の全てを飲み込んでいく消化の動きに対抗するために、ただただ祈った。
強固・堅固・不滅・防御・鉄壁・反発・反射・緩和・吸収。
考えられるだけの語彙を思い浮かべて祈った。
繰り返し、繰り返し、ただただ祈った。
「大和・大和・大和・大和・大和・大和。
護り給え、清め給え~」
何を清めるんだか。
もはや、俺の信奉する神聖な大和の二文字も、ただの念仏の代わりでしかなかった。
あの大和が俺にとって一体何だったのか。
それすらも頭の中に無いくらい一心に祈った。
そして、ただただ子供達の温もりだけが心の拠り所だった。
ああ、せめてこの卑小な腕の中にある小さな命だけは守りたい~。
「ああ、神様、仏様、大和様っ!
南妙法蓮華経ー。
うおお、サッダルマ・プンダリーカ・スートラあ!
おお~!!(何かが違うけどっ)」
俺は絶叫していた。
あの強烈な、ホテルの屋上にあるラスベガスの絶叫マシンの上でも、こんな風にみっともなく叫んだりはしなかったというのに。
「おいちゃん」
澪が何かを言っているが、俺の耳には入らない。
ただ、それが澪の言葉であると認識しているだけだ。
「ダルマ・プンプン・ああダリー・ストーカーああ! なんじゃもんじゃでオンソワカ~」
もう何を言っているのかも自分で理解できない。
祈るのじゃあ、ただただ祈るのみなのじゃあ。
もう知るかよ。
この期に及んで、この子達のために俺が出来る事など、祈り続ける以外に最早何一つない。
「ねえ、おいちゃんってばさあ」
「うおっ、なんじゃい。
さあ、お前達も神仏とサンスクリットな宇宙の真理に向かって祈れ!
今はそれくらいのパワーが必要なんじゃい!」
俺は左手の拳を腰の辺りでギュっと握り、右手を頭の上でぶんぶんと振り回しながら雄叫びを上げた。
「もう、おいちゃんったら。
落ち着きなよ。
なんか地震が止んだみたいだよ」
「何だと?」
言われてみれば、もう揺れてはいない。
玲も可愛く小首を傾げて俺の奇行を見つめていた。
むう、そんな馬鹿な。
あの迷宮の胃袋がそう簡単に俺達を見逃すはずがない。
だが、確かに揺れは収まっていた。
ここは、もう食われた後? 死後の世界なのだろうか。
俺の祈りが通じて、無事に魂が輪廻の輪の中に導かれていく最中だとでも?
だがよくよく見回したら、ここは俺の部屋だったわ。
さっきの揺れで荷物類が多少ごたごたしていたが、確かに俺の部屋ではあるな。
倒れたり落ちたりしている物は特に無い。
備え付け収納の扉が開いてぶらぶらと揺れているだけだ。
電気の供給が途絶えた冷蔵庫の蓋も無様に空きっ放しだ。
そいつは天井との間に耐震つっかい棒をかましてあるので、冷蔵庫が倒れる事はついぞ無かった。
アイテムボックスであれこれと仕舞い込んでおいたのが幸いしたか。
今うちの家の中は本棚一つ備えてはいない。
「はて、これはまた面妖な。
一体全体どうなったというんだ?」
「あー、何か凄いよ」
何時の間にかベランダ側のサッシの前に立った玲がそんな事を言った。
「はん? 何が凄いんだい」
「草毟りが凄く大変そう」
「はあ?」
俺と澪は顔を見合わせて、それから玲のところへと歩み、思わずその言葉に納得した。
「こりゃあ、確かに大変そうだよなあ」
「うわあ。何これ」
窓の外に広がっていたのは、一面の大草原だった。
見渡す限りの地平線が見える。
戦ぐ風に、波打つ大草原。
その真ん中に、このマンションはポツンっと建っていたのだ。
「大草原の大きなマンション」ってか。
「なんなんじゃあ~」
俺の叫びは虚しくマンションのリビングに響き、そして心地よげな風が吹き渡る草原の静かなざわめきの中に、緩やかに棚引いて溶け込んでいくのであった。




