9 空の封印
あれからもう一週間が経過した。
窓の外を久し振りに聞くヘリの爆音がする。
澪と玲が跳ね上がったように飛び上がって窓に駆け寄った。
「お、久し振りのヘリだな」
「本当だ。おーい」
「おーい」
玲も部屋の中から手を振っている。
本来ならば、ベランダに出てみんなで大きく手を振り、発炎筒でも焚くシーンだ。
だが、それはできない。
俺達が生き残っている事は、ひっそりと秘めやかに秘匿しておくべき事なのだ。
多分その方が長生きできる。
さもないと、それを目掛けて大量の魔物が押し寄せてくる可能性がある。
相変わらず昼間っから大物が走り回っており、その数も日に日に増殖してきているのだ。
何故か飛行魔物は昼の間は見かけない。
もしかしたら鳥目なのか?
そいつらの大きさも更に増している。
もう恐ろしくてマンションから一歩も出られない為体だ。
普通車如きは弾き飛ばされて踏み潰されかねん。
そして、そのヘリは降下してきて、なんと何かの見えない壁にぶつかって勢いよく撥ねた。
「何っ!?」
「ええっ、なんでえ?」
そして、まるで空中に見えない天井でもあるかのように、その上を派手に転がっていき爆発炎上して空中にその残骸を晒した。
あの円形の見えない壁に続いて、今度は見えない天井を配して街を覆っているかのようだ。
そして、それは空中にそのまま留まった。
自らの燃え上がる炎によって、それは恰も空中に燈った聖火の如くにそのシルエットを魅せた。
部屋の中を沈黙が重く満たし、空気が澱んだかのように沈んだ。
「もう日本の国は僕達の事を助けてくれるのを諦めちゃったのかな」
「ううん。
玲ちゃん、国が諦めていなかったから、さっきみたいな事故が起きるのよ」
澪は優しく玲の頬を指先で撫でた。
玲もその指に幼い手を添えたが、気持ちは浮揚しないようで俯いたままだ。
非常に良くない空気だが俺にもどうする事もできない。
俺自身も沈んでいきそうな按配だからだ。
「ねえ、おいちゃん。
ここはどうなるの?」
「わからん。
あの日、信じられない数の怪物が避難所を襲った。
おそらく生存者は一人もいないだろう。
他の避難所がどうなったのかは知らん。
だが、それからも救出の手は止まなかったのだろう。
そしてこの街を覆う迷宮は、自分の胃袋から逃れる者を許さないという絶対的な意思表示を今垣間見せてくれた。
その決意の元に迷宮は空を封じたのさ」
俺も子供達には、もうきちんと話してやった。
これから俺達は過酷な運命に立ち向かっていかねばならないのだ。
澪はさも恐ろしいというように、ギュッと弟を抱き締めながらも聞き返す。
「ねえ、迷宮って何なのかな?」
「わからん。
俺が知っているのは、この逃れられない直径十キロメートルの円、それが『迷宮の胃袋』と呼ばれているという事だけだ。
何のために、こんな物がこの俺達の住む街に出現したのか。
迷宮とは一体何なのか。
あの迅速な自衛隊の動きや幕僚の様子から察して、日本政府は、あるいは何かを知っていたのかもしれないが。
もしかしたら、今までも世界のどこかで発生した事がある事象なのかもしれない。
そして、そのあまりもの異様さに、その惨状は秘匿されたのではないか。
だが今となっては全てが謎だ」
沈黙が場を支配したが、それでもどうする事も出来ない。
空は封じられた。
もしヘリを呼べたとしても、それがこの迷宮の胃袋へ舞い降りる事は出来なくなった。
もうこの迷宮の胃袋から出る事はどうやっても叶わない。
俺達は逆さに置かれたシャーレの中に閉じ込められた蟻のように卑小な存在へと貶められたのだ。
地面を掘っても無駄なのも外部からの救出作業で検証されている。
掘った端から見えない障壁が地下に延びるのだ。
もうジ・エンドだ。
俺達は迷宮に食われる。
いや、もう既に食われているのかもしれない。
容易に考え付く人生のラストシーンは、この円が中心に押し寄せてきて全ての人間を食らい尽くすというありきたりのパターンか。
全ての魔物と人間が蠱毒のリングへと押し縮められ、そして勝者としてチャンピオンベルトを締めるのは当然のように奴ら魔物、いやこの迷宮の胃袋の主だろう。
胃袋の大きさからみて、そいつ迷宮とやらが大食漢である事に疑いを挟む余地はない。
何もかもが、この迷宮とやらを成長させる糧となる。
俺も、澪や玲も、この街の全ての生き残りの人間を食らい尽くして。
俺だけならそれでもいいのだが、子供達も一緒なのがあまりにも切ない。
本当は子供達だけでも逃がしたかった。
だが物理的に、それは叶わない望みであった。
せめて最後の刻はみんなで一緒にいよう。
「ねえ、おいちゃん。
死ぬって、どういう事なのかな。
恐い? 痛いの?」
「さあな。
俺も覚えている限りでは、まだ死んだ事が無いんでな。
恐いとか痛いとかは、まあ状況によるだろう」
玲は考えていたが、よくわからないようだった。
大人の俺にだってわからねえよ。
この世の中に、来世とか生まれ変わりっていうものは本当にあるのかねえ。
学者の調査によれば、生まれ変わりという物は存在するものらしいが、世間では眉唾のように思われている。
あれは極めて宗教的なテーマなので、どうしても胡散臭さが先に立つ。
「考えてもしょうがないよね」
「ああ」
澪は立ち上がった。
「もうすぐ御昼だから、御飯作るね」
「ああ」
玲は算数のドリルを始めた。
その横には漢字のドリルも置かれている。
今までそれを採点してくれていた市役所職員の一人であるはずの先生も、おそらく小学校に開設された避難所にいただろうから既に生きてはいないのかもしれない。
でもそれは玲がこれからも勉強しなければならないという意味に関して言えば関係ない事だ。
子供は勉強するものだ。
たとえ、明日自分が死んでしまうとしても。
先の事は、本当の事は、それが来て現在になってみない事にはわからない。
こういう時に大人は何をすりゃあいいんだろうな。
よくわからないぜ。
とりあえず、コピーであれこれと作っていた。
この迷宮の胃袋の中では、MPとやらはすぐに復活するらしい。
なんだかよくわからないが、ここでは強い力のような物が体中に漲るのがわかる。
MPってなんだろうな。
魔法でも使えるのだろうか。
散々あれこれと例のポップアップの画面を試してみたが、さっぱりわからない。
子供達にも例のスキルの話はしてみたが、まあわかるはずもないわな。
そんな焦燥に駆られる俺に向かって、澪はあっけらかんとして言ったものだった。
「きっと、おいちゃんは魔法を覚えられる人なんだよ。
MP、マジックパワーってそういうものだよね。
だって他の人にはおいちゃんみたいな事は出来ないんだもの」
そうか。
確かに特殊ではあるがな。
それは俺がかつて龍神大和という存在と関わり合ったせいなのだろうか。
あるいは、イコマという奴が俺の中にいるからなのだろうか。
わからない。
それは別に特別な事でも何でもなかったのだから。
当時の俺は、まるで『俺は神に選ばれた。俺は特別な人間だ!』と感じた。
そう思ってしまったものだったが、それは月日を重ね合わせるごとに段々とわかってしまったのだ。
こんな事は世の中にはよくある事なのだと。
たいした事はないようなものなのだと。
俺は別に何か特別な人間じゃない。
他にも俺と同じような経験をした人間は沢山いるのだ。
永い年月の間で退屈していた神の気まぐれに付き合わされただけ。
俺が遠い地から神をサイキックでノックした。
退屈していた神は俺を彼の地へと招いてくれた。
全ては、たまたまな事に過ぎなかったのだと思い知った。
そして、その結果として、今俺は『俺の中のあいつ』、まるで全知の神のようなイコマと呼んでいる者と共にあるのだがな。
ふっ。
それが今更この歳で、この結末なのか。
少なくとも、御蔭で俺やこの子達はまだ息をしていられるのだがな。
あの妙なウインドウを作ってくれたのは、おそらくイコマなのだろう。
迷宮の胃袋に『食われた時』に、その迷宮の力を逆手に取って作ってくれたものに違いない。
ここは日本の一部であると共に、おそらく一種の異界の一部であるとも言える。
俺が新たに得た力はその異界の力なのだ。
偉大なる龍神よ。
人に大魔王大和の名を名乗る者よ。
まだ俺に加護をくれるというのなら、何故あの迷宮とやらはあるのだ。
あんたは龍神、この世界の大地の神なんだろう。
ここはあんたのテリトリーなんだぜ。
頼む、助けてくれ。
この子供達だけでいい。
この俺は喜んで迷宮の贄となろう。
今、生まれて初めてあなたに対して真剣に祈る。
かつては俺を玩んだあなたの事を逆恨みで怨んだ事もある。
だが今は。
ただ、ただ貴女様に対し心から祈らせてくれ。
我が神よ。
陰の龍脈、龍尾の御霊よ。
黄金の太平洋ベルトラインの一端を担う偉大なるパワーラインの女神よ。
貴女の僕は今ここにおります。
ブツブツと言いながら、手を組み合わせて一心に神に対して祈り続ける俺を見て呆れたような澪が声をかけてきた。
「おいちゃんったら。
まあた神様に祈ってる。
えーと、大和様だったっけ?
大人って、どうしてこうなんだろう。
もう、せっかくの御飯が冷めちゃうよ」
俺は苦笑して立ちあがった。
これだから女っていう生き物は現実的過ぎて困る。
そいつに関しては、こんな子供でもまったく変わらんな。
まあ泣き喚かれていたって困るから、しっかりしていてくれるのはありがたいのだが。
むしろ、こっちの方が泣きたいくらいだわ。
玲はもうとっくにテーブルについていた。
「わーい、御姉ちゃんのチキンライス~」
「お、美味そうだな」
「えへへー、あたしの得意料理なんだよー。
今日はこれだけど、今度はオムライス作るね~」
「いただきまーす。
うーん、やっぱり御姉ちゃんの御飯は美味しい~」
俺は笑ってその様子を見ながら手を合わせた。
「いただきます」
「うん、どうぞ召し上がれ~」
「お、本当に美味いな」
どうしてなんだろうな。
こんなにも絶望的な状況なのに、このテーブルには笑顔が満ちていて、まだこの先もずっとこのままやっていけそうな、そんな空気に満ちていた。
そんな事があるはずはないのだが。
だが今は、この温い空気に浸っていたかった。
だから、もう少しだけ頑張ってみるとしようか。
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