6 再び避難所へ
そいつは目の前で、甲高い、とても聞くに耐えないような耳障りな奇声を上げ、翼を広げて俺に挑みかかってくるかのようだった。
女の上半身を持ち、それがでっぷりとした鳥の姿に溶け込んでいく。
全長は二メートル五十センチあまりか、翼長は五メートル近くあるんじゃないのか。
これはでかいぜ!
その凄まじい大きさを誇る禍々しい足の凄まじく鋭い爪と、そいつの異形の貌を俺の視線は往復していた。
足も、その爪を生やしている指も太く頑丈そうで、非常にヤバそうな代物であった。
それは女の半裸を載せていても、エロチックというよりは醜悪そのもので、目の前からただちに消し去りたい衝動にかかられるようなグロテスクな姿であった。
女の姿も人間の女というよりは、妖魔か悪魔かといった感じのズラリっと牙を生やした御面相で、迫力満点だぜ!
マンションのあちこちで悲鳴が上がり、ガラスの破られる音が響き渡る。
なんと、こいつは一匹じゃあなかったのだ!
レーダーを拡大すると、数十から百に到達するのではないかという赤点が周囲を乱舞している。
くそ、もう少しでガラスをぶち破って中に押し入れられるところだった。
俺はたまたまそいつとベランダで睨み合っていたので、そうはならなかったのだ。
正体のよくわからないその相手も動物染みた習性があるものか、目を合わせて牽制しているとすぐに襲ってこなかった。
騒音と悲鳴がマンションを一巡した頃、そいつは猛禽スタイルの巨大な口を開けて、聞くに堪えない耳障りな怪音波を発した。
それは超音波攻撃ではなさそうなので助かった。
睨み合っている俺に対する牽制のために放つ威嚇としての咆哮のようだったが、俺はこういう時には敵愾心を燃やすタイプなので、思いっきり憤怒の炎を瞳に宿した。
「おのれっ! この怪物がああっ」
易々と喰われてなんか堪るかよ。
もし必要なら、俺がお前の方を食ってやるぜ。
我に返った俺は薬室への装弾を済ませてあった自動小銃をアイテムボックスから取り出し、安全装置を解除した。
セレクターを「レ」に放り込む。
レは連続のレ。
こいつは昔の自動小銃とは違って三点バーストだけでなく、ちゃんとフルオート(連発)で撃てるのだ。
目の前の向かってきた醜悪な怪物に向かって手の中の火棒は、ちっぽけな5.56ミリの弾丸をバラまいた。
怪物は避けようもない距離で、熱い弾丸のキスを連射されて悲鳴を上げて飛び去った。
でも致命傷ではないようだった。
いきなり撃って、やはり反動で銃が上へ跳ね上がったので、素人である俺の慌てたような射撃では真面に弾が当たっていないのかもしれない。
だが腹のど真ん中を狙ったので、反動で仰け反り気味に撃った弾丸が顔にも当たったのではないだろうか。
この銃は多少重量があるので、軽すぎる米軍の銃よりも跳ね上がりも幾らかはマシなはずだ。
こっちは、こんな物をぶっ放すのは生まれてこの方たったの二度目だ。
前の時は射撃場で天井に向かって銃身が跳ね上がっていき、あっというまに弾倉が空になった。
当時の印象に残っているのは、たったそれだけだ。
自動小銃のフルオート射撃は高価なオプションだったので一回しか撃たなかった。
ケチらずに、せめてもう一回くらい撃っておけばよかったぜ。
「くっそ、ギャアギャア夜中にうるせえんだよ!」
真夜中にマンションのベランダで機関銃をぶっぱなしておいて、俺もよく言うけどな。
もっとも文句を言いそうな近所の人間が生きているかどうかすらもわからない。
騒音に文句を言えるのも生きてこそなのだ。
俺が撃った一匹が凄まじい悲鳴を上げながら逃げたら、何故か奴ら全員がみんな逃げ去った。
その後も凄まじく甲高い鳴き声を上げていたので、あの鳴き声は奴らには意味がある言葉なのかもしれない。
鳥と一緒で、危険があると警戒音の叫びと共に群れごと撤収する習性なのかもしれない。
マガジンを交換して薬室に弾薬を装填した銃を手元に置いておき、俺はホームセンターで仕入れたパイプと郷土館で入手した槍の穂先などを合わせて槍を作ってみた。
丁度きっちりと合うサイズがあって助かった。
嵌めて隙間にパテを詰めてやると丁度いい感じだ。
ちょっと穂先が重すぎて重量バランスが悪いが、上から落としてやるにはちょうどいい感じがする。
全体重量の中で先の部分が凄く重いので、たぶん真っ直ぐに落ちるはずだ。
大昔に作られた日本の槍だから刺突力は最高だと思う。
パッと見には日本刀の刀身とそう変わらない耀きを持っている物なのだ。
こいつはアイテムボックスで空中に射出して使おうと思って。
あの惨状の後で、マンションの他の住人がどうなったのか見に行く勇気はまったく無い。
顔見知りの人達の凄惨な最期を見届けるのは御勘弁願いたい。
何時の間にか、山の手の騒ぎは静まったようだ。
先ほどのレーダーのような物で見ると、赤い点が無くなっており三種類の点がある。
緑色、これは数が少ないので自衛隊だろう。
たくさんある黄色は避難民か?
そして残りは灰色、というかあれだ。
表示色の無い員数外の物で、それはおそらく死者を表す物だろう。
その数の多さに思わずビビった。
数を意識するとデジタルにカウントする事ができた。
緑が八十名、黄色が千二百四十三名、灰色が二千四十名か!
う、うーむ。
三分の二近くの被災者がさっきの襲撃でやられてしまったというのか。
自衛隊員も多数やられた事だろう。
駐屯していた人数を聞いておけばよかったな。
そうたいした人数はいなかっただろうが。
こりゃあ無理ゲーを通り越して無茶ゲーだわ。
彼我の戦力の差が大き過ぎる。
なんという事だ。
うわ、やっぱり向こうにいなくてよかったぜ。
避難所は地獄の一丁目を通り越し、もはや死者の館と化していた。
そのうちに死者の無念が籠り、ホーンテッドハウスと化すかもしれない。
もう……この世の終わりだ。
死体を並べる労力を考えるだけで気が遠くなる。
緑の点は八十しかないんだから。
おそらく、そいつらも無傷ではあるまいよ。
何時の間にか、俺は弾薬を装填し直した自動小銃を抱えた状態で眠ってしまったようだ。
ドアをどんどんと叩く音がして、俺は悪夢の世界から白日の中へと引き戻された。
今日は朝日のキスでは起き上がれなかったようだ。
歳のせいもあるが、昨日の体験が凄まじ過ぎた。
「誰かいますか。誰か、生きていますか」
子供の声だ。
女の子だな。
マンションに生存者がいたか。
俺は飛び起きて叫んだ。
「ああ、いるぞ。俺はここにいる!」
まだ自分が生きている事を確かめるかのように、思わず大声で叫んだら、玄関ドアの向こうから安堵したような声が漏れた。
これは子供の声だな。
「よかった、生きている人が他にもいたんですね」
その刹那過ぎる言葉に思わず胸が詰まったが、俺は銃をアイテムボックスに収納すると、立ちあがってドアに向かって歩いていった。
ロックを外して開けたその向こうには、中学生っぽい感じの女の子が青ざめた顔で立っていた。
いや、まだ小学生なのか?
充分にあどけなさを残した少女が弟と思しき男の子を連れていた。
その子の顔にも子供らしい素直な笑みではなく、その顔には恐怖の名残が張り付いていた。
無理も無い。
おっさんの俺だって真面に耐えられるような状況じゃない。
ドアを開けるなり、少女は俺の腕にギュッとしがみついてきて震えた。
もう一人の男の子は姉にしがみついている。
「あちこち、あちこち死体だらけなの。
御父さんも御母さんも死んじゃった。
マンション中、あちこち無残な死体だらけよ。
窓側から襲われたからドアの方から逃げようとした人達が皆、反対側にもいたあいつらに襲われて。
ここはドアが開いていないから、もしかしたら生きている人がいるかもと思って」
うはあっ、なんてこった!
なむさん!
この子達が体験した地獄の光景と二人の心情を想って、思わず目を閉じた。
それを聞いた俺のギュッと絶望を刻み込んだ表情を見て男の子がまた怯えた。
おっと、いかんいかん。
俺は男の子に向けて無理やりにぎこちなく笑いかけ、彼の方もなんとかそうしてくれた。
まあ今は互いにこれが精一杯さ。
女の子が一番しっかりしているよ。
「賢い奴らだったみたいだね。
ここは、この辺じゃ目立つ高さのある建物だから、飛行するあいつらにとっては魅力的に見えたのかもしれないな。
多分巣というか、拠点にでもしようと思ったんだろう。
サッシのガラスを割れば、奴らの図体でも中に潜り込めるから」
すると、少女は唇を噛み締めて泣きそうな声で訊いてきた。
まだ怯えている幼い弟が一緒にいるので、彼女自身は泣きたくても泣けないのだ。
「また……来るかしら」
「わからない。
だが昨日は避難所も襲われて、たくさんの人間が死んだ。
多分自衛隊員も」
「わかるの?」
「ああ、不思議と俺にはその生死の数までわかる。
なんだかよくわからないけれどもな」
「これからどうしたらいいの?」
「一度、一緒に避難所へ行こう。
あいつらは昨日襲撃の後に撤収して、それ以降はやってきていないようだ。
自衛隊も黙って見てはいないだろう。
親のいない子供達なら、ヘリを使って優先で連れ出してくれるかもしれないし」
しかし、そう言われた子供達は抱き合って怯えた。
「でも空から避難する途中でまたあいつらが出たら」
「だが、君達はもうこの街にいてはいけないよ。
ここは既に地獄の一丁目だ。
どうやら政府は何か知っていて隠しているようだ。
俺達大人は駄目かもしれないが、お前ら子供達だけでもこの街から出るんだ。
頑張って避難所まで行こう。
俺の車で送ってあげるから。
あの程度の連中なら追っ払える武器くらいはある。
だからこうして俺は生きているんだから」
そして次の瞬間に彼女は可愛く御腹を鳴らして顔を赤らめた。
「あいつらが滅茶苦茶にしたから、家に食べ物が何もなくって」
「じゃあ、御飯を用意してあげよう」
俺は御弁当を出すと、コードリールを伸ばして電子レンジのコンセントをベランダに設置したガスボンベ式の800W発電機と繋いだ。
そして発電機を動かし、電子レンジを使用した。
うちのは500Wの電子レンジだから、この程度の発電機でもなんとか使える。
この異常事態にあまり似つかわしくないチーンという日常的な音が響き、俺は次の御弁当を温め始めた。
そして弟と御揃いの唐揚げ弁当を食べながら少女は訊いてきた。
「おじさんは、あいつらって何だと思う?」
「まあ、なんていうのか、その。魔物かな?」
「魔物?」
少女は御弁当を片手に眉を顰めた。
まあ、そうなるわな。
五十歳も当に過ぎた、いい歳をしたおっさんの口からそんな言葉が聞こえればなあ。
「あいつは、ギリシャ神話なんかに出てくるとされる半人半鳥の怪物ハーピーのような奴だった。
まあ魔物でなけりゃあ、ファンタジー映画にでも登場する怪物だな」
「そうだね、そうだよね。
でも、なんであんな怪物がいきなり出てきちゃうのかな」
少女は半分涙ぐみながら項垂れた。
「わからん。
だけど御飯はちゃんと食べなさい。
避難した先で、すぐ御飯にありつけるとは限らないから」
「うん……」
男の子も、そんな御姉ちゃんの顔色を伺っていたが、続きを一生懸命に食べ始めた。
それから彼らにバケツで水を流す方式でトイレを使わせて、ショッピングモールで何故か仕入れておいた子供用の服を与えて着替えさせた。
何故子供服なんかを用意していたのかわからないが、こういう不思議な事は俺にはありがちな事だ。
やがてヘリの爆音がいくつも聞こえてきた。
小中学校を利用した、例の赤い円の中に数十か所はあるはずの、すべての避難所でヘリが飛び回っているはずだ。
ここの自衛隊の生き残りが八十人だとすると、最初は最低でも二百人くらいの自衛隊員がいたのではないだろうか。
つまり、この街に戦闘をこなせる部隊が一万人以上は来ていたというのか?
小学校が五十校に中学校がその半分くらいなら、この市街中心部ならばそんなものかな。
あるいは高校も避難所になっていたかもしれない。
おいおい、大丈夫なのかよ。
もう戦力が半分以下っていう感じにみえるのだが……。
これ、普通は軍隊なら『全滅』って表現される状態だよな。
まるで戦争並みの死者数だから、政府の世間への言い訳が大変そうだ。
一万人いた自衛官が、たったの一晩で半分以上は殺されたのだろうからな。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
俺は階段を下って一階まで降り、駐車場に置いておいた自分の車に子供達を乗せた。
「そういや、まだ名前を聞いていなかったな」
「澪、山田澪です。
この子は玲」
「俺は井上隆裕だよ」
俺はそんな会話をしつつ、用心しながら車を進めていた。
あちこちで怪物に破壊されたとみられる大破した様子の車を見かけた。
夜中に怪物の襲撃から逃げようとしたのだろうか。
この周辺には奴らが巣に使いたがるような、それなりに高さのあるマンションがそこそこの数ある。
山頂の避難所に至近の、ポツンと立っているマンションがここだ。
御蔭で豪い目に遭った。
それらの大破した車体には、はっきりと深く抉られた爪痕が付いていてドキっとした。
自動車の外板が見事なまでにめくれあがっている。
あれで攻撃されたら人間なんか一溜まりもないだろうから、それはもうぐちゃぐちゃの状態だろう。
俺は昨夜の、あの凶悪なでかい爪を思い出していた。
それらの車の中は見ないようにして通り過ぎた。
この子達の両親はどんな死に様であった事だろうか。
二人は両親の最期を見てしまったのだろうか。
思わず顔を顰めてしまった。
なんとか迂回しつつ車を進められたので、邪魔な車を収容するためのアイテムボックスの出番は無かった。
破壊されたスクラップの車なんか要らない。
そして避難所となっている小学校の入り口で、自衛隊が門を利用して作ったバリケードを築いていた。
といっても、自衛隊車両を二台ほど門の内側へ置いて軽く塞いでいるだけの簡易な物だ。
「避難民の方ですか?」
緊張した面持ちの若い隊員が銃を胸元に構えたまま訊いてくる。
構えるというよりも、殆ど御守りのように抱き締めるという感じだろうか。
若い彼の表情にも色濃く焦燥が見られる。
無理もない。
日頃は碌に射撃訓練もせず、ただ体を動かす訓練をしているだけなのに、昨日はいきなりで、とんでもない戦闘を経験したのだから。
自衛隊は、たとえ化学兵器を平気でバラまくような国家を脅かすほどのテロ団体が相手であろうと戦闘出動した経験は一切ない。
武装しているのではないかと疑われる集団が相手でも非武装でしか出動した事が無い。
外国の紛争地帯へ行く際には「他国の軍隊に自衛隊を護ってもらえるよう」御願いするのだ。
現在の日本は地球上で唯一であろう異常な国家なのだ。
彼らはあくまで国家公務員たる自衛隊員なのであって、戦闘を主任務とするような軍人ではない。
戦闘訓練は常に行っているが、実際に出動する場合は災害時の救援などの業務が多いのだ。
そんな為体で、夕べは皆殺しにもならずに、よくぞまあ生き残ったものだ。
似たような目に遭った一国民としては、それはもう褒めるしかあるまい。
本来彼らは軍人ではないのだから、敵前逃亡したって脱走罪で死罪に問われる事はない。
軍法会議にかけられる事など決してない、一介の公務員に過ぎないのだからな。
日本には軍隊はないので、当然ながら軍法など存在していない。
つまり戦争など出来る国ではないのだ。
どうやら武器弾薬などの補充は既に出来ているらしい。
朝っぱらからヘリの爆音がしていた。
おそらく兵員の補充も。
その結果、棺桶の数が著しく増えるのでなければよいのだが。
「ああ。
市役所から、ここが俺の家の避難所に指定されている。
ほら、あそこに見えるマンションの住人さ。
なあ、豪く警戒が厳重だな」
「夕べは、それはもう酷い有様でしたから。
さあ、中へどうぞ」
疲れたような顔をした自衛隊員が車をどかし、中に入れるように二人がかりで門を開けてくれた。
「車は校庭に止めてください」
「ありがとう。
ところで、ヘリで脱出する事は可能ですか?」
「やっていますが、なかなか進んでいません。
ここへ避難される方も多いものですから。
自衛隊にも殉職者が多数出ていまして、なかなか」
やはりか。
殆ど何の事前準備もなしに、真面にあの怪物の群れとやりあったんだからな。
いや、あいつらだけではないだろう。
一応、聞いてみた。
「ここは安全かい?」
「わかりません。
ですが、ここには武装した自衛隊がいますので。
自分は聞いていませんが、他の避難所も似たりよったりの状態ではないでしょうか」
「だよなあ。
いや御苦労様」
他に彼らに向かってかけるべき言葉も見当たらない。
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