10 シド殿下帰国
「ミレーヌ」
「なんでしょう、シド」
私達は、二人きりの時にはそのように、まるで市井の者のように互いの名を呼び称しておりました。
無論、他の方の前でそんな迂闊な真似をしたりはしませんが。
今日はシドに呼ばれて王宮の賓客ゾーンにある彼の部屋に来ています。
人払いをされて、今は二人きりです。
もちろん、未婚の王族である私達がそのような状態に長く在るわけにはいきませんが。
彼も何か深刻な表情をしています。
少なくとも甘やかな要件で呼ばれたのではない事だけはわかります。
「すまない、メリーヌ。
国から使者が来た。
私は一旦、国に帰らねばならない」
「えっ、そうなのですか」
「ああ、だが安心しておくれ。
別にこれで留学を打ち切ってしまうというわけではないんだ。
ただ、国の方で若干ごたごたしておってな。
宰相より私に対して帰国の要請が入った。
これは次期国王となる事が決定している王太子として聞かぬわけにはいかぬ」
私の心細そうな表情があまりにか細く見えたのでしょうか。
彼は笑って私の頬を撫でてくださり、私は思わず二筋の涙を零してしまいました。
ああ、いけない。
シドは御国の都合で帰らねばならないというのに。
「許しておくれ、メリーヌ。
約束しよう。
一日でも早く、この国へ戻れるように努力する。
再び戻る時のために荷物も全てここへ置いていく」
「はい、ごめんなさい。
泣いてしまうつもりなどなかったのですが。
恋は私を弱くしてしまったのでしょうか」
シドは、私を優しく抱き締めて耳元で囁いてくれました。
「そうではないよ。
恋をする者がそうあるのは当然に思う。
人は人を愛することにより強くなる。
私はそう信じているよ。
そう、あのアルバトロス王国初代国王のように。
彼は全ての国民を愛し、そしてすべての国民から愛された。
だから、この国は今日も大国としてここに在る」
それを聞いて、私はまたポロポロと涙を流してしまいました。
「さあ、ミレーヌ。
私達は王族、義務ある者だ。
心細く思っているところ済まないのだが、あまり長く二人だけでこうしているわけにもいかぬ」
「わかっています」
婚姻を結んでもいない王族の男女が、このような密室にて密会をしている事など本来は許されないのですから。
そして彼は優しく私の髪を撫でながら、そっと口づけをしてくれました。
「御出発はいつ?」
「明日の早朝には出なくてはならぬ。
今からも帰国前に関係各所の人と会わねばならないのだ」
だからその前にと、彼はこの時間を作ってくださったの。
私はもう一度だけそっと彼の胸に寄り添うと、涙をぬぐって立ち上がりました。
「そ、それでは明日、御見送りを」
シドは頷き、ハンカチで私の顔を拭い、優しく手を引いてくれたのです。
その夜、私は夕食も喉を通らずにベッドを涙で濡らし続け、気が付けば空は白み始めていました。
「いけない! 殿下の御見送りの仕度をしなくては」
「はいはい、姫様。
そして、今日は少し御化粧をしていきましょうか。
酷い御顔になっていますよ。
顔色も悪いし、目の下に少し隈が出来てしまっています」
何時の間にか傍にやってきていたアレーデがそう言って、御湯で濡らしたタオルを目に当てて、それから顔を優しく拭ってくれました。
この私よりも少し年上の人は、幼い頃より、いつもこうやって私をよく見てくれています。
取り乱していた私は、少し恥ずかしくなってしまい、小さな声で頷きました。
「うん、そうするわ。ありがとう」
そしてアレーデは念入りに化粧や身支度を整えてくれ、私達はシド殿下が御滞在している王宮の賓客ゾーンへと向かいました。
そこには、もう旅支度を整え、御付きの者に囲まれながら見送りの関係者と談笑している彼の姿がありました。
そして彼は私の姿を認めると、優しく陰りの無い笑顔を見せてくれたのです。
彼はそのように振る舞ってくれているというのに、この私ときたら。
なんだか急に気恥ずかしくなってしまい、私は俯いてしまいました。
ですが彼は言ってくれたのです。
「その美しい顔を上げておくれ、ミレーヌ王女。
その御尊顔をしばらく拝む事も出来ないのだからね」
私は泣きたい気持ちを抑えて彼に微笑みかけ、そっとその胸に手を当てながら言いました。
「シド殿下、心から御慕い申し上げております。
そして、お早い御帰りを御待ちしております」
そして彼もそっと私の頬を撫で、笑顔で旅立ったのです。
私は服の胸の部分をギュっと左手で握り締め、気丈に見送りました。
ただ立っているだけで精一杯という風情で。




