148-2 珍しく
珍しく離宮の執務室で書類仕事〔サインのみ〕をしていると、ミハエルから電話があった。
「今出られるか?
ちょっと私の部屋まで来い」
「ああ、もうちょっと待ってくれ。
何しろ、この手の仕事が俺は一番苦手なんだ。
パスポートやクレジットカードにサインするのも凄く時間がかかるんだぜ。
今やっているのは王宮の文官さんが重箱突きするような書類だからなあ。
字も綺麗じゃないからサインする事そのものに時間を食うんだよ」
「馬鹿者、そんな仕事はパッパと片付けろ。
それが私や兄上の場合なら、お前みたいな事を言っていたら国の機能があちこち麻痺してしまうのだからな。
ベスマギルだのアルバ・コンクリートだのエリクサーだの、有り得ないほど厄介な物は毎回さらっと作るくせに。
どうせそれらは皆、ロドスがチェックしてくれてあるのだろう。
後はサインするだけというなら、ジョニーにでも頼んでおいて今すぐ来い。
そもそも王国の文官どもがケチをつけたいのは書類などではなく、お前そのものになのだからな」
「うわー、なんという言い草か。
頭にきたぞ。
もうっ、本当にジョニーに任せちゃうからな~」
そして振り向いたら、すでに俺に化けてペンを手にしたジョニーが、にやにや笑いを浮かべて立っていた。
おまけに試し書きで書かれたサインは、なんと漢字で書かれた俺の金釘流の字を綺麗に真似ている。
犬のくせに本当に小器用な奴だ。
くそう、もう既にこいつに心を読まれていたか。
そのにやにや笑いはよせよな、ジョニー。
なんというか、それさえも『本物そっくり』の笑い方じゃないか。
時々うっかりと人に見られていて、慌てて表情を引き締めていたりする、俺御得意の表情だった。
そいつは昔からの悪い癖なのだ。
そこまで、しっかりと観察されていたか。
さすがはプリティドッグだ。
実に侮れないぜ。
「だがジョニー、お前もまだまだだな」
「え、何がだい?」
ちょっと心外そうな声で不平を表した彼。
だってなあ。
「まだまだサインの字が上手すぎるぜ。
なんていうのかな。
俺の字は、もっともっと滑らかでないというかカクカクというか。
お前のサインは、そこはかとなく滑らかなのさ。
なんというか、下手に書いた中にも達筆さが垣間見えるのだ」
「げ、そう言われればそうだよな。
アルスなんかに比べたら、確かにお前のサインは真似るのが各段に難しいのだ。
思いっきり下手くそなくせに、なんというのかな。
ぎこちなさの中にも、毎回法則性がないような不安定さがあるというか。
とにかく真似るのが難しいほど、滅茶苦茶に下手で安定感の欠片もないゴミのような字だ。
しかし、それを本人に指摘されるというのもなんなのだが」
く~。
俺の字の特徴をよく言い表しているじゃないか。
まるでワンタイムパスワードのように『毎回、自分の名前の字が違う』んだよな、俺。
もちろん、字そのものが違うわけではないのだが。
それはカードのサインなんかで問題があったような場合、筆跡鑑定しても本人だと認めてもらえないのではないかと心配になるくらいのレベルなのだ。
むしろ俺のサインを真似る犯罪者の方が安定した字を書くだろうから、いかにも本人らしいなどと言われてしまいそうな按配なのだがねえ。
とほほ。
それを我が家の、よりによって犬に指摘されてしまう日がこようとは。
「ま、まあいい。
とにかく任せたぞ。
たまたま急ぎの書類が多くてな。
俺にしては珍しく、書類仕事から手が離せないところなのだ」
「あいよー。
我はアドロスの魔王、グランバースト公爵(偽)であるぞ」
ジョニーの奴め。
相変わらず楽しそうだな。
こいつが化けた俺に騙されるような奴が、はたしてこの離宮にいるかな。
でも子供達にはすぐバレそうだが、案外と大人なんかは騙されちまうかもしれないな。
特にあの、にやにや笑いを見られたりした時なんかには。
という訳で、領主としての大切な仕事は他犬任せにして、俺は義兄のところへと跳んだ。
「よお、えらく急ぎの呼び出しだなあ、ミハエル。
何か重大事項でもあったのか?」
この前の闇鬼事件は、当然こいつにも詳細を報告してある。
当然、このミハエルも話を聞いて頬をピクピクさせていたが、どうしようもないので諦めたようだった。
あれよりも難しい問題でもあったとでもいうのだろうか。
そんな大事なんて俺にはちょっと思いつかないぜ。
「ああ。少なくとも、お前にとってはな」
「なんだと!」
こいつとは、前にもこのようなやり取りがあったような。
なんだったか。
ああ、思い出した。
レミの話だ。
しかも国同士の話で面倒な事になっていた件だ。
「もしかして国同士の問題で、しかもケモミミハイムあたりか?
多分レミが絡む話か何かで」
「その通りだ。
お前、本当に気が付いていなかったのか?
あのレミの本当の母親が帰ってきたのだぞ。
四歳の子供の本当の母親が」
「え」
一瞬俺は呆けてしまったが、その意味に気が付いて、さーっと顔から血の気が引いた。
あのレミの親権は、今誰の下にあるのか?
この国、この世界では、そのあたりの規則がどうなっているのか。
もしこれが地球ならば、親権は通常本当の母親のものになるのではなかろうか。
俺は些か青ざめた感のある質問を放った。
「おい、ミハエル。
レミはもう正式に俺の子供という事でいいんだよな。
あの、なんていうのか。
この国の、あるいはこの世界の国家間の法律的な意味とかでさ」
「心配するな。
それは間違いない。
だが、あの子の本当の母親が帰ってきたのだ。
彼女は大国ケモミミハイムの王女で、それはとりもなおさず国同士でも問題となるかもしれない要素を含んでいる。
あそこの王族はそうは言わんかもしれんが、外野が煩い場合もあるのだ。
何かあれば物言いが付きやすいお前の事だしな。
その、また、おまけになんというかな。
生き別れていた本当の母親が帰ってきたのだから、レミにとっても、あの幼い人生の中でもかつてないほど重要な問題なのだ。
お前にも、それはわかるよな。
そんな話は王侯貴族でなくても何も変わらん」
まさにその通りだった。
確かに、こいつは大事だった。
裏の世界の神鬼が攻めてくる事などよりも遥かにな。




