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 枝葉の間から朝日が差し込み、小鳥がピルルルと高い声で鳴いている。

 たゆたうような眠りから、有紗はゆっくりと目覚めた。昨日までのどんよりした気持ちは晴れ、この森にいて初めて清々しいと感じられた。

 有紗が起き上がると、毛布が地面に落ちた。レグルスがかけてくれていたらしい。

「おはようございます、アリサ」

 焚火の傍にいるレグルスが振り返り、かすかに笑む。光を弾く朝露みたいに、目を惹かれるささやかな笑みだ。彼の静かな雰囲気によく合う。

「……おはよう」

 有紗は少し気まずさを覚える。落ち着いてみると、子どもみたいに泣いたのが恥ずかしい。少し離れた位置にいるとなんとなく心細く、レグルスの隣にちょこんと座った。焚火に薪をくべ、レグルスはちらとこちらを見た。

「良かったら、その御髪を整えましょうか」

「え?」

 有紗は目を丸くすると、慌ててレグルスから離れた。そういえば一週間も風呂に入っていない。傍にいるとくさいかもしれない。その大きな動作に、レグルスが驚きに目をみはる。

「どうしました」

「だって……におうでしょ?」

「いいえ、特に何も。ただ、髪型が崩れているので、元に戻して差し上げあげようかと」

 そう言われても、気になる。

 有紗は自分のにおいをかいでみた。一週間も森をさまよったにしては、確かに何もにおわない。服もよれて汚れているが、においは無かった。裾が草の汁で汚れている程度だ。

 体が作り変えられたせいか、有紗の味覚は変わっている。だから自分の嗅覚も変わったのだと思えば自信がないが、レグルスは社交辞令を言っている様子は無い。本当に何もにおわないのだろう。

「それならいいんだけど……。元に戻さなくていいから、ヘアピンが絡まってるのをほどくのを手伝って」

 気付いてみると、頭皮がつっぱるような違和感がある。今までとにかくそれどころではなかった必死さに、自分でも驚いた。

「承知しました」

 レグルスは嬉しそうに微笑んで、傍らに背を向けて座る有紗の頭に触れる。少しして、頭が軽くなった。

「ヘアピンと髪飾りです。使わないなら、僕の鞄に入れておきましょうか」

「お願いします」

 有紗は頭に触れてみる。この一週間で、髪型を固めていた整髪料はほとんどとれたようだが、少しベタついている。途中で雨に降られた日があったから、あの時に落ちたのかもしれない。

 有紗が手櫛で整えていると、レグルスが木製の櫛を取り出して、有紗の髪を梳き始めた。腰まで届く長い髪を、丹念に梳いていく。

「綺麗な黒髪ですね。我が国だけでなく、この近辺の国でも見かけません。闇の神に選ばれるだけはありますよ」

「どういうこと?」

「あの神は黒を好むそうなので」

「ああ、そういう意味……。ところで、なんだか手慣れてない?」

「妹がいるので、よく支度を手伝っていたんです。侍女が意地悪をして、妹の髪を痛く結ぶと泣いていたので」

 レグルスの声に、少しだけ悲しみが混じった。

 悪いことを聞いたのだろうかと気にしたが、ついでに家族について問う。

 レグルスは第二王子だが、母親は庶民の出だと言っていた。

「レグルスのお母さんは踊り子だったんでしょう? どうやって王様と出会ったの?」

「城に興業に来た時に見初められたんですよ」

 母は美人で明るいが、立場が低い。だからレグルスは他の王子よりも不遇の身らしい。

「あなたのお父さんには奥さんが何人いるんだったっけ」

「正妃が一人、側妃が三人です」

「四人もいるの?」

「英雄、色を好むといいます。父は多少節操なしな面もありますが、政治的な結婚もありますよ」

 一応、そう断ったが、レグルスもあんまり良く思っていないようだ。

「いやしい血を継いでいるからと、王族ですが、使用人の態度が良くないこともありましてね。姫の立場が特に弱く、妹のほうが苦労しています」

 聞いてみると、レグルスは二十二歳で、妹は十七歳だという。

「レグルス、私と同い年なのね!」

「そうなんですか? アリサは妹と同じくらいかと思いました」

「日本人は幼く見られがちなのよね。あ、私の国は日本っていうの」

「小柄だからでしょうか? ――はい、できました。下ろしているのも綺麗ですね」

「ありがとう」

 なんてあっさりと社交辞令が出てくるのだ。有紗は感心したが、悪い気はしない。髪を大事に手入れしてきたので、褒められるのはうれしい。

「すみません、アリサ。帰る前に、もう少し森を歩いても? 奇跡の泉を探したくて」

「それなんだけど。もしかしたら、私が治せるかもよ」

「え?」

「死にかけたあなたの怪我をなめて、黒いもやを食べたら、あなたは息を吹き返したじゃない?」

「確かに……その通りですね」

 意外そうにぱちくりと瞬きを繰り返すレグルスに、有紗は気まずさとともに口を開く。

「それに、私のごはんが黒いもやなら、食べられるんならありがたいし……」

「構わないのですか?」

 その意外なほどの真剣な響きに、有紗は身じろぎする。

「え?」

「ルチリア王国の神官が勝手な理由で呼び出し、あなたを処刑しようとした。まるでアリサの不幸に便乗して、僕がアリサを利用しているみたいだ。それはアリサには不快なことでは?」

 有紗が思いもしないことを、レグルスは心配そうに問う。なんて律義な男だろうか。有紗はむしろ感嘆した。

「あなたね、それ、馬鹿正直って言うのよ」

「大恩あるアリサに、嘘は申せません」

「うん、分かった。分かったから……」

 こちらが照れるくらいまっすぐな言いように、有紗のほうが顔を赤くする。日本での有紗の周辺では、ついぞ見かけなかったタイプだ。

「じゃあ、こうしましょう。私はレグルスを利用する。レグルスも私を利用する。正直、邪神の神子なんて立場、よく分からないし受け入れづらいけど、この力を使えばレグルスの助けになれると思うの」

「しかし……」

「その代わり、レグルスは王子の権限をフル活用して、私の食べ物と水の確保を手伝って。でないと私、近いうちに飢え死にしちゃうと思う。それから、身の安全も守って欲しい」

 レグルスはしばし黙り込んだが、有紗にとっては一大事だ。重ねて両手を合わせると、しかたがなさそうに頷いた。

「分かりました。では、お互いに利用するということで。――でも、血を飲みたいなら、僕があげます。他の人に頼まないでください」

「あ、そうよね。きっと怖がられちゃうもんね」

「そうではなくて。好きな人の唇が、誰かにくっつくと思うと許しがたいだけです」

 レグルスがそう言って、有紗の唇を親指でふにっと押した。有紗は顔を真っ赤にする。

「は、恥ずかしいことを臆面もなくっ。王子教育ってどうなってるの、怖いっ」

「すみません」

 レグルスはパッと手を離す。有紗が怖いと言ったので勘違いしたようだ。

「その設定、まだ続くのね。やだなぁ、照れる……」

「そういえば、お伺いしていませんでしたね。元の世界に決まった相手がいらっしゃる?」

「いないわ。大学を卒業する前に告白して、振られたところよ」

 だから自分にはそんなに魅力がないのは分かっているのだ。有紗は少し落ち込んだ。

「良かった。では、僕は遠慮しませんから」

「……お手柔らかに」

 微笑みを浮かべるレグルスから、有紗は照れでそっと目をそらした。


「では、帰りましょうか。僕から離れずについてきてください」

 話がまとまると、レグルスはすぐに焚火の始末をして、荷物をまとめた。立ち上がってみて、有紗は驚く。

「背が高いのね」

 レグルスのほうが、有紗の頭一個分は高い。外見や体格といい、西洋人と雰囲気が似ている。鞄を背負うと、レグルスはにこりとした。

「アリサは小柄で可愛らしいですね」

「もうっ、お返しに褒めなくていいよ」

 褒めたら褒め返すなんて、女子力の高い会話は望んでいない。単に思ったことを言っただけだ。

「事実です」

 そう言いながら、レグルスは糸のようなものを引っ張る。

「何、その糸」

「ここは迷いの森です。こうして糸を辿らないと、外に出られないんですよ」

「だから私、小川沿いに歩いていたのに、一週間も森を出られなかったの?」

「……恐らく。神の住む森と聞いていますが、神子にも影響するとは意外ですね。違う神だと駄目なんでしょうか」

「そもそも、それって危ないから入るなっていう迷信じゃない?」

「分かりません。噂はあるものの、誰も神にお会いしたことがないので」

 腰に下げていた糸巻きを手に取り、レグルスはゆっくりと歩いていく。木綿みたいなしっかりした糸だ。

「狼に襲われた時に切れなくて良かったです。あと少しで糸が無くなるところだったので、助かりました」

 腰の左に提げた長剣が、歩くたびにカチャカチャと音を立てる。

「それじゃあ、狼に襲われた場所も通るってこと?」

「あ……」

 レグルスは立ち止まった。

「失念していました」

「たいまつって持ってないの? 動物は火を怖がるって聞いたことがある」

「ランプだけです」

「じゃあ、虫よけは?」

「持っています。ああ、あの独特なにおいで狼を遠ざけるわけですね、賢いんですね。これをランプの油に入れて……ええ、準備できました」

 鞄を下ろし、荷物からランプと油の入った瓶を取り出して、レグルスは明かり用の油に、虫よけの油を混ぜた。

「山が好きな友達がいてね、キャンプする時に、虫よけの油をランプ用に使ってるって言ってたの」

「合理的ですが、この虫よけは、本来は肌に直接塗るものなんですよ。アリサも使いますか?」

「ううん。そういえば虫に刺されてないわ」

 一週間も森をさまよっていて、虫刺されも、草に負けるといったこともない。これが異常なことは分かる。

 有紗が落ち込んだのが分かったのか、レグルスは何も言わずに有紗の肩をやんわりと叩く。励ましてくれる人がいるから、有紗の気持ちは落ち着いていた。

 それから森を歩き始め、虫よけの香りが効いたのか、たまたま幸運だっただけなのか、一時間ほどで無事に森の外に出た。


 森の外には野原があり、少し進むと村に着いた。

 馬を預けているという村長宅を訪ねると、痩せた男が飛び出してきた。

「レグルス様! よくぞご無事で」

 灰色のひげをたくわえた男は、言葉のわりにどこか残念そうだ。

「そちらの女性は?」

「森で遭難していたところを助けた。村長、馬の世話をしてくれて感謝する。さ、行こう、アリサ」

 レグルスは丁重に礼を言い、駄賃を渡して黒毛の馬を引き取る。有紗と話している時と違い、どこかそっけない態度だ。

 そして、まずは有紗を鞍に乗せ、その後ろにレグルスが飛び乗る。馬を歩かせると、後ろで村長が悪態をついた。

「父親とそっくりだな。女をたぶらかして……嫌だ嫌だ」

 有紗はムッときた。言い返そうと振り返ったところ、レグルスに止められた。

「気にしないでください。構う時間がもったいない」

 レグルスの冷淡な言葉に、それもそうかと有紗は気持ちを静める。

 馬はあっという間に村を抜け、街道に出る。広々とした草原には柵がもうけられ、羊や馬が草をはんでいた。

「ねえ、なんであのおじさん、残念そうにしてたの?」

「僕が戻らなかったら、馬を自分のものにするつもりだったんでしょう。僕が治めている領地は、王国内では貧しいほうなので、彼にしてみれば財産を得る機会をふいにしたわけです」

「何それ、自分勝手な理屈ね」

「生きるのに貪欲なんですよ」

 良い意味に言いかえて、レグルスはフッと小さく笑った。

「アリサ、少し急いでもいいですか?」

「いいけど、私、馬なんて乗ったことなくて……」

「では飛ばしすぎないようにします。城館はあの丘の上ですから、すぐに着きますよ」

 そう言うわりに、城の影はここからは遠い気がする。

 妹を助けるために気がはやるのだろう、気持ちは分かるので、有紗が頑張ることにした。

 鞍の取っ手につかまるように言われたので、しっかりと固定する。馬は緩やかに駆け始めた。


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