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エドガーが親孝行な優しい少年だと思っていただけに、この裏切りに、有紗は衝撃を受けた。
まず頭に浮かんだのは、ロドルフとルーファスの顔だった。
結局、彼らの警戒のほうが正しかったのかと、がっかりとした気持ちが胸にこみあげる。あれだけ痛い目にあったのに、有紗は心のどこかで、この王宮にも善人がいると信じたかったのかもしれない。
しかし、有紗はエドガーに確認しておきたいことがあった。
「エドガー王子が、この事件の犯人ということ?」
「そうですよ」
エドガーはあっさりと肯定し、優しい笑みを浮かべる。幼子に言い聞かせようとする態度を思わせ、有紗は身構えた。
「でも、あなたは毒で死にかけたじゃないの」
「もちろん、わざとです。正確に量をはかって、死なない程度を見極めました。陛下ならば必ずあなたに助けを求めるでしょうし、悪ぶっていても心根はお優しい神子様は、僕に手を差し伸べるでしょう」
まるで皮肉を込めたようだが、どうもエドガーにとっては心からの言葉のようだった。毒がまったくないのだ。
彼に悪意が見えたなら、有紗は怒れば済んだ話だ。
しかし、彼の目はまっすぐだった。それが逆に歪に思えて、有紗の背筋にぞわぞわと悪寒がはいのぼる。無意識に、ミシェーラをぎゅっと抱きしめた。
「ヴァネッサさんや王妃様のことも?」
「神子様、そこにいるのにいないものって、なんだと思います?」
エドガーは有紗の問いに答えるかわりに、謎かけをした。
「そこにいるのにいないもの……?」
有紗にはなんのことだか分からない。考えをめぐらすが、思い浮かばなかった。戸惑いを込めてエドガーを見つめると、彼はふっとやわらかく微笑む。
「簡単なことです。使用人ですよ。王宮では、彼らはいるのが当たり前で、同時にいない存在なんです。そして、光神教では男女の役割は決まっていて、それぞれにふさわしい服装をすること、と教義で決まっている」
彼が何を言いたいのかよく分からず、有紗は黙ったまま頷く。
「王子が使用人の――それも女性の格好をするなんて、この国の人間は誰も思いつかないんですよ。国教でそう決まっているから。そうするのが当たり前だから」
「亜麻色の髪の侍女は、あなただっていうの?」
「そうですよ。あの格好をしていれば、王妃の間だろうが食堂だろうが、どこにでも近づけます。王妃の間では『陛下から頼まれた』と近づけばよく、食堂では『高貴な身分の侍女だ』というだけで誰も問いたださない」
ようやく有紗の腑に落ちた。
ここは身分社会だ。
別部署の貴人まで、下級使用人は把握していない。
王の名前を出されたら、王妃の使用人も疑わない。疑うこと自体が、不敬になるということか。
「そうやって嘘をついて、出歩いていたわけ? でも、あの侍女が王宮の門を出入りした記録はなかったわ。絵の具を買っていたのは誰なの?」
「外出する時は王子のままで、外で着替えればいいだけですよ。王子の出入りは記録されませんからね」
王宮をよく知るエドガーだから、その仕組みを上手く利用したのだと、有紗にはようやく理解できた。
「ルーファス兄上に疑いの目を向けられた時は、さすがに焦りました。ちょうどいい生贄がいたので、目くらましに使わせてもらいましたよ」
「それってヴァルト王子のこと?」
有紗が確認すると、エドガーはあっさりと頷く。
「ええ。お兄様はトラブルメーカーなので、周りも『あの王子ならしかねない』と思ってくれるから楽でした。僕、ヴァルトお兄様のこと、大嫌いなんですよね。僕が必死に綱渡りをして生きているのに、あの人は王妃の息子というだけで守られているんですから」
さえざえと冷たい目をして、エドガーは皮肉っぽい笑みを口端に浮かべる。
彼の母親の様子を見ていれば、どれだけ苦労しているか、有紗にも理解できる。
(可愛い弟として振る舞って、役立たずを装わないと命の危険にさらされるのか。そんな状況で、グレないほうが珍しいのかも)
どれだけの重荷が、この細い肩に乗っているのだろうか。
悪い人だと断じられたら簡単だけれど、あいにくと有紗は彼に同情を抱いた。彼のキャパシティーがオーバーして、自暴自棄になったのだとすれば、ありえない話ではない。
(せめてカウンセリングでも受けられたら良かっただろうけど、ここにはそんな医者はいない)
ところで、エドガーは有紗をどうしようというのだろうか。
「それで、あなたは私に何をして欲しいの?」
「意外ですね。正論を並べたてて、説得するかと思いました」
「不思議なのよ。わざわざ誓約の儀の直前に、こんな真似をしたのが。マール側妃様を癒して欲しいだけなら、ここまでする必要はないわ。あなたが言ったんじゃないの。『お優しい神子様は、手を差し伸べる』って」
有紗は誰でも彼でも優しくするわけではない。だが、マールの現状を見せられれば、少しくらい助けてあげようかとは思う。今の有紗にとって、病気を癒すのは、食事をとるのと同じくらい簡単だから。
「あなたが王宮にいなければいけなかった。誓約の儀の前に片づけねば、僕は死ぬはめになる。このタイミングしかなかっただけですよ。僕はアークライト王国に行きたいのです」
「マール側妃様の故郷ね?」
「ええ。お母様が、毎日のように帰りたいと言うんです。願いを叶えてあげたい。たとえ、神子様を誘拐するなんていう重罪を犯しても」
エドガーの顔に、必死さが浮かんだ。
「お願いです、神子様。一緒に来てください。僕はアークライト王国に行ったところで、この国の立場と変わりません。ですが、お母様は違う。僕があちらに信用されるには、手土産が必要なんです」
「それが、私?」
「アークライト王国は、昔、召喚の書物を焼いたのです。そして、今、毒の化粧水が流行して、国の内部はボロボロだ。そこにあなたが行けば、大歓迎してくれるでしょう」
エドガーに悪意がない理由が分かった。母親の為で、私利私欲ではないから、こんなにまっすぐな目をしているのだ。
(よりによって、断りにくい理由だわ)
有紗はじっと考え込む。
彼がしたことは、良くないことだ。
だが、理由を聞けば、情状酌量の余地はある。
マールの願いを叶えるのが望みなら、他に良い方法があるのではないだろうか。
「エドガー王子、あなたの考えには問題点があるわ。私が一緒に行ったとして、あちらの王様にこう言ったらどうするの? 『その二人を処刑してくれたら、助けてあげる』って」
エドガーの顔色が青ざめた。その予想はしていなかったようだ。
「そもそも、あちらがあなた達を保護するかしら? 最初だけ甘い顔をして、油断した所を殺して、『ルチリア王国の裏切り者を成敗しました』なんて言って、死体を送り返すかも。だって、マール側妃様は同盟での人質として嫁いでこられたんでしょう? あの国は弱っている。あなたがそんな真似をすれば、ルチリア王国がアークライト国に戦を仕掛ける理由をあげることになるわ。負ける可能性が高いから、きっと迷惑なはずよ」
「そんな……。神子様さえ一緒に行けば、全部解決すると思ったのに」
度胸は認めるが、策士としては足りない。子どもの浅知恵だ。
「そうね。あなたはレグルスの腹違いの弟だもの。マール側妃様には同情するから、助けてあげてもいいわ。ただし、ちゃんと条件があるわよ」
「条件……?」
身構えるエドガーに、有紗は頷く。
「王位争いを辞退して、レグルスの味方になること。王様に事情を話して、謝ること。以上」
「は……?」
エドガーはぱちくりと瞬きを繰り返す。
「あの、神子様? 僕が何をしたか、ご存知ですよね? とても許されることでは……」
「あら。陛下は私の意思を尊重してくれるのに、あなたを助けて欲しいと頼んだわ。エドガー王子、あなたは陛下に息子としてちゃんと愛されてる」
「……許してくれると?」
「私が口添えするわよ。それより、レグルスの味方になることのほうが大事よ!」
「あなたではなく、お兄様なんですか?」
困惑のあまり、エドガーは途方に暮れた顔をしている。
「交渉しているのはあなたですよ?」
「“可愛い弟が、よく助けてくれました”」
「は?」
「歴史書に、そう書かれたほうがいいでしょ。ねえ、このままだと一生、日陰者よ? ただ、敵国の王女の血を継いだっていうだけで。兄を支える心優しい弟っていう立場、おいしいと思わない?」
エドガーは呆然とし、有紗を凝視している。短剣を突きつけられているモーナが噴き出す声がした。
「あなた達親子をまとめて助けて、ついでに日の光の下に引っ張り出してあげるって言ってるんだから、破格でしょ? どうなのよ。のむの? のまないの?」
「そんなに良い話がありますか。というか、人質をとってるのは僕なのに、どうしてすごむんですかね。無茶苦茶だ」
「邪神の神子だから、当然でしょ」
有紗が胸を張ると、モーナだけでなく、彼女を押さえている侍女まで笑いで震え始めた。
「いったいどんな策があるのか、お聞かせ願いたい」
「簡単よ。ここの王様って、後世にどう記録されるかを気にするんでしょ。だったら、その心理を突けばいいのよ」
だてに歴史教師を目指したわけではないのだ。
有紗は不敵に微笑んだ。




