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ふ……と意識が浮上した。
チュンチュンと小鳥のさえずりが響き、顔にかかった日射しが眩しい。
針葉樹の枝葉の向こうに、青空が見える。
「私、なんでこんな所に」
ぼんやりしている頭がはっきりすると、気を失う前のことを思い出した。
「ひっ」
途端に体が震え出し、有紗は自分の体をかき抱くようにして身を縮める。
(夢なら良かったのに)
だが、有紗は森にいる。
あの悪夢と同じく、着物と袴、ブーツ姿で、手首に鎖のついた鉄の枷をはめている。あの神殿で手荷物を取り上げられたせいで、他には何も持っていない。長い黒髪を後ろでとめている大きな和風リボンと、お団子に盛っている髪型を固定しているヘアピンくらいだ。
「あれ……?」
視界に入り込んだ手が無傷なことに気付いて、有紗は驚いた。
あんな崖から落とされたのに、どこも痛くない。怪我一つしていなかった。
実はそんなに高くなかったのだろうか。周りを見回すと、ほとんど壁のような断崖がそびえている。上のほうは遠すぎてよく見えない。青空に目を細め、有紗は眉をひそめる。
「私、あそこから落ちたのよね?」
幸運にも、木の枝が緩衝材になったのだろうか。しかしそれならもっと着物が汚れているはずだし、かすり傷が一つも無いのはおかしい。
「よく分からないけど、ひとまずここから逃げなきゃっ」
あの狂った連中が死体を探しにやってきたら、今度こそ有紗は終わりだ。
他に物を落としていないことを確認して、森の奥へと走り出す。するとだんだん後ろから誰かに追われているような気がしてきて、怖さに突き動かされるように、前へと駆けた。
どれくらい離れただろうか、崖が少し遠のいたところで、有紗はようやく歩く速度をゆるめた。
「これくらい逃げれば大丈夫かな」
それでも足を止める気はしなくて、歩き続ける。幸い、この森は木が鬱蒼としており、地面まで光が届かないせいか、地面に生えている草はそれほど伸びておらず歩きやすい。
――くう。
お腹が鳴り、有紗は空腹に気付いた。太陽の傾きやひんやりとした空気といい、恐らく午前中だろう。昨夜から飲まず食わずだ。こんな森なので、食べられるものがあるか分からないが、せめて水だけでも飲みたい。
しばらく道なき道を歩いていくと、幸運にも小川に出た。
水辺に膝をついて、川を覗き込む。水は澄んでいて綺麗だが、川の水は沸かしてから飲まないと、お腹を下すと聞いたことがある。少し迷ったが、喉の渇きをいやすためには、背に腹はかえられない。
有紗は袖をまくると、水へとそっと手を差し入れた。そして、清水を口へと運ぶ。その瞬間、有紗は水を吐きだした。
「うっ、げほっごほっ」
まるで泥水のようだ。
信じられなくて、小川に目をこらす。どう見ても、水は澄んでいておいしそうだ。もう一度試してみるが、腐ったような味に耐えられずに吐いた。
「はあはあ。まずすぎる」
――実は毒の水なのでは?
有紗は一つの仮説を立てる。
月が三つもある異世界にいるのだ、地球と同じだと思うのが間違いなのかもしれない。
「人がいる所に……」
小川を下へと向かえば、集落に出るかもしれない。山好きな知人が、谷底を歩くのは危険だから、上から道を探したほうが良いと言っていたのを思い出した。だが、そのアドバイスは生かせそうにない。この森は多少の起伏はあるものの、ほとんど平坦だ。
あの崖に近付く気はないから、構わずに歩き始める。
途中、木の実や木苺を見つけ、恐る恐る食べてみたが、どれもまずかった。まるで粘土を口に含んだかのような、ひどい味だった。
有紗は急に嫌気がさして涙ぐんだ。
どうしてこんな世界にいるのか。あの世界に残してきた両親や友達はどうなったのだろう。行方不明になった有紗のせいで、人生を壊されてはいないだろうか。家族が事件に巻き込まれたことで崩壊する家庭の話は、ニュース番組やネットの噂で耳にしている。
「お父さん、お母さん。広子。助けてよ、怖い……」
親と高校時代からの親友を呼んだところで、返る言葉はない。
ただでさえ打ちのめされているのに、喉の渇きと空腹さが追い討ちをかけていく。
しゃくりあげながら、しばらく有紗はその場に座り込んでいた。
やがて、ガサリと茂みが揺れる音がして、ビクッと肩を跳ねさせる。
息を殺し、気配を薄くしながら、恐る恐る振り返ると、遠くに鹿のような動物が見えた。それは小川の水を飲み始める。そして、有紗が食べるのを諦めた木の実を食べてから、またどこかへといなくなった。
有紗は急いでそちらに向かった。
動物が食べられるなら、有紗も食べられるはずだ。もう一度、試してみる。
「うえっ、まずっ」
なんともいえない臭みが口に広がり、有紗は吐きだした。この調子では、水も同じだろう。
「なんで? 意味が分かんない」
涙を零しながら、悪態をつく。目の前の木の実が憎たらしくて、八つ当たりのように摘むと、地面に叩きつけて踏んだ。
激情の波が通り過ぎると、今度は嫌悪感に襲われた。
食べ物を粗末にするなんて、罰当たりだ。かんしゃくを起こしてみっともない。ここに親がいたら注意される。もっとしっかりしろ。
色んな言葉が浮かんできて、たまらなくなって耳をふさぐ。
「だってしかたないじゃん! 怖いんだもん!」
誰かに言い訳して、また泣き出す。
しばらくするとパニックが過ぎ去った。
すると、今度は肝が据わった。
「こうしていても仕方ない。助かるためには、人を探さなきゃ」
そして食べられるものを分けてもらい、頼み込んで家に泊めてもらうのだ。
それから一週間が経ったが、信じられないことに、いまだに有紗は森をさまよっていた。
喉の渇きや空腹は耐え難いほどなのに、どうしてか動き回れるから不思議だ。更に謎なことに、まったく排泄もしていない。
異世界に来たことで、まるで体が作り変えられてしまったかのようだ。恐ろしさに胸がつぶされるような感覚が時折やってくるが、理由が分からないので対処しようもない。
この森はいったいどこまで続いているのだろうか。小川に沿って歩いていたが、くねくねと曲がりくねって大きな川にも出くわさない。
川沿いを幽霊のようにふらふらと歩いていると、ふいに、とてつもなく良いにおいがした。川を離れ、引き寄せられるようにそちらに向かう。
その先には大木があり、男が一人、幹にもたれかかっていた。
「人だ!」
有紗は疲れているのも忘れて走り出した。
「助けてください! 遭難したの。食べ物を分けて……」
恥も外聞もかなぐり捨てて、涙目で懇願しかけた声を、有紗は途中で止めた。
座って休憩しているように見えた男は、脇腹から血を流して、浅い呼吸をしている。顔色は土気色で、顔には死の影がかかっていた。
鮮やかな夕焼けの空に似た髪色を持つ男は、二十代前半ほどに見える。その閉じていた目蓋が動き、緩やかに持ち上がる。こはく色の目が有紗をとらえた。
「……そこ、に」
男は震える指先で、自分の鞄を示す。有紗は鞄を見た。リュックのように背負うタイプの布袋で、口は巾着みたいに結ばれている。
「大丈夫? どうしたらいい?」
手当てをしてあげたほうがいいのは分かるが、有紗に応急処置なんて経験は無い。どうしていいか分からなくておろおろしていると、男はふっと笑みを浮かべた。
「……がとう。それ……君に……あげる。僕は……助から……ない」
有紗は息を飲んだ。
衝撃的だった。
自分が死にそうだというのに、この男は他人を気にかけている。
どうにかしてあげたいと思いながら、有紗の頭はくらくらしている。男を黒いもやのようなものが取り巻いていて、傷口に滲む赤がおいしそうだ。
ごくりと喉を鳴らし、有紗は困惑する。
――おいしそう?
お腹がぐうと鳴った。頭がかすみがかかったようになり、無意識にその場に膝をついた。
「ねえ、ごめんなさい。それ……飲ませて」
有紗は男の脇腹へと顔を近付ける。傷口から溢れ出る血をペロリとなめた。
その瞬間、スッと渇きが消えていく。
そして、次は黒いもやを掴んだ。綿菓子みたいに両手で掴んで、口へ放り込む。
「ああ、おいしい! おいしい、おいしいわ」
有紗の好物の味がした。一口食べるごとに色んな味に変わり、有紗は無我夢中で黒いもやを食べ、服ににじむ血もなめる。
それから少しして、急に、目が覚めた。
ハッと我に返り、青ざめる。今の有紗は、まるで獣のようだった。
男から離れて、身を強張らせる。男は驚きに目をみはっていた。その口が動く。
――化け物!
そう言われると思ったのに、男は違うことを言った。
「君は……何をしたんだ?」
その問いかけに、有紗は必死になって謝る。
「あの、ごめんなさい! なんか私、訳が分からなくなって」
駄目だ。怖い。きっとののしられる。
男はあっけにとられているが、ぎゅっと目を閉じている有紗には見えない。
「お腹が空いてて、喉も乾いてて。この世界に呼ばれて、神子なんて言われて、崖から落とされたのになんでか生きてて。でも何も食べられなくて、飲めなくて。あなたの血がおいしそうで、それに黒いもやもおいしくて! 私、いったいどうしたの。化け物になったの? お父さんお母さん、助けて、怖いよぅぅっ」
恐慌に陥って、身を縮めて泣き叫ぶ有紗を、あろうことか男は抱き締めた。
その温もりにびっくりして、有紗の動きが止まる。
「驚かせてすみません。よく分かりませんが、あなたが僕を助けてくれたことは分かりました」
「へ……?」
有紗はぱちくりと瞬きを繰り返す。
先ほどまで瀕死だった男の手が力強い。恐る恐る顔を上げると、土気色だった顔にも赤みが差していた。
さっきは地味に思えたが、よく見ると綺麗な顔立ちだ。睫毛は長く、すっと通った鼻をしていて、薄い唇は微笑んでいるように見えた。穏やかで優しそうな顔立ちには、知性がにじんでいる。
男は有紗の背を緩やかに叩き、こはくの目で有紗を心配そうに見つめる。
ほろ……と涙が零れ落ちた。今度は安心の涙だった。
「私のこと、気味が悪くないの?」
「助けていただいたのに、どうしてそう思いますか」
「だって、血をなめたのよ?」
「驚きましたが、そのお陰で傷が治りました」
男の言うことの意味が分からず、有紗は首を傾げる。
「え? 治った?」
「はい。僕は狼に襲われて、腹に食いつかれたんです。なんとか殺して逃げおおせましたが、傷が深く……。死を覚悟していました。ここは神が住むといわれている迷いの森です。あなたはこの森の主で、女神でしょうか?」
有紗はきょとんと男を見つめ返す。彼はどう見ても真剣そのものだ。どうやら真面目に訊いているようだ。
「違う。私、普通の人間なの。こことは違う世界で暮らしていて」
「はい」
男が疑う様子を見せないのに勇気づけられ、ここに来てからのことを詳細に話す。
「……というわけなの。コウシン? の神子を呼びたかったのに、ジャシンの神子が現われたから、崖から落とされたのよ」
話を聞き終えると、男は有紗を労わった。
「大変な目にあいましたね。怖かったでしょう。もう大丈夫ですよ」
そして幼子をなだめるように、再び有紗をやんわりと抱擁した。
「う……」
涙がぼろりと落ちたのを皮切りに、有紗は男にしがみついて泣きだした。
怖かった。つらかった。苦しかった。
大丈夫だよ、と。誰かに言って欲しかった。安心したかったのだ。
例えこの時間が仮初のものでも構わない。有紗は鬱屈した思いを吐き出すように、子どものように声を上げて泣いた。




