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 奥の牢に、ユリシラはいた。

 牢番が扉を開けたが、彼女はこちらに気づかず、壁に向かってぶつぶつと何かつぶやいている。

「うふふふ。なんて素敵なカビちゃん。これは暗くて湿気たところにしか生えない種類ね! 採取して持ち帰りたいわ」

(うっわ、確かに、気持ちわるっ!)

 恐怖でおかしくなったのかと心配しかけたが、まさかカビに話しかけているとは。ヴァルトがさんざんなことを言うのも頷けた。

「カビをちゃん付けで呼ぶ人、初めて見たわ……」

「私もです」

 有紗がレグルスとこそこそと言い合っていると、ようやくユリシラがこちらに気づいた。

「まあ! レグルス殿下、神子様、ごきげんよう。こんな所にいらっしゃるなんて、どうかなさったの?」

「いや、それを訊いちゃう?」

 なんてマイペースな人だろうか。有紗がヴァルトのことなどを説明すると、ユリシラは祈るポーズをして、目をうるうるさせる。

「殿下がかばってくださったの? わたくしの安全地帯をおびやかすお方ですけど、優しいですわねえ」

「安全地帯?」

「ええ。部屋が汚いと言って、掃除するんですの! わたくしなりのルールで並べてますのに、ひどいでしょう?」

「う、うーん、部屋を見てないからなんとも言えないけど」

 しかし、あの王子が汚いと言い出して掃除するくらいだから、よっぽどひどいのではないだろうか。

「それより! 例の化粧水のことよ。どんなふうに現れたの?」

「はい、朝、研究室に行ったら、机の上に置いてありましたの。部屋には鍵をかけていたのに、誰か置き忘れたのかと思って持ち主を探そうとしたら、なぜか女官が現れて大騒ぎをし始めたんですわ」

 ユリシラはそこで初めて表情をくもらせた。

「話も聞いてもらえなくて……。そのまま地下牢に放り込まれたんですの。でも、良かった。お兄様の見る目に狂いはなかったようです。ヴァルト殿下を選んで正解だったのですわ! これでホーエント家は安泰ですわね」

「どういうこと?」

 あんなふうにかばったから、見直したという話だろうか。有紗の問いに、ユリシラはにっこりと返す。

「ホーエント家を守ってくださるリーダーが必要なんです。わたくし達、風向きを読むのと逃げるのは得意ですけど、戦はさっぱりで。小国だった頃も、周りの顔色をうかがって、こびへつらって生き延びてきたのですわ!」

「えーと、それって誇らしげに言うことなの?」

 なんだか変わったご令嬢である。有紗はレグルス達のほうを見たが、彼らもなんとも言えない顔をしていた。ユリシラは気にせずに続ける。

「ヴァルト殿下はたしかに頭はそこまでよろしくないですけれど、何かあったら逃げずに前に出るタイプです。馬鹿にされたら、殴りかかりにいきますわ。お兄様はあの姿を見て、感激したんです。ヴァルト殿下のことはわたくし達が養いますから、ぜひとも盾になっていただきたいわ」

「……ねえ、レグルス。これって良いことを言ってるの?」

「持ちつ持たれつというものでは……?」

 苦しいことを言って、レグルスは目をそらす。ヴァルトを防波堤扱いしているようにしか聞こえないが、王位争いで負けてもヴァルトの居場所はありそうだから、良いことなのだと思うことにした。

 しかし、ヴァルトが世話を焼いて怒っているところしか思い浮かばない。案外、彼は苦労性かもしれない。

「ところで、その女官は誰だったの?」

「さあ。亜麻色の髪をしていたことしか覚えていません。近衛騎士団が来た後、姿を消しました。おそらく、彼女の罠ですわ。でも、わたくしは王宮にはさほど詳しくないので、誰付きの使用人かまでは分かりません」

「何か特徴ってなかった?」

 ユリシラは急に、しゅんとなった。

「わたくし、人間にはあまり興味がないので、顔を覚えるのが苦手で」

「ヴァルトの言う通りみたいですね、アリサ」

「はは……」

 有紗は呆れて笑うしかない。

「あ、でも」

「何か思い出したの?」

「ええ。にかわのにおいがしましたわ」

 有紗は眉間にしわを寄せる。

 やはりこの件、絵の具に結びつくようだ。



 地下牢を後にして、有紗達はレグルスの別宮に戻ってきた。

 有紗はすれ違いざまに、王宮で働く人々から邪気を拾い食いしているが、レグルス達は正餐の時間だ。

 王家では、家族そろっての食事はたまにしかないようで、普段はそれぞれの別宮で家臣達と食べている。有紗はレグルスの傍にいることもあれば、今日みたいに部屋でのんびりしていることも。

 正餐を終えたレグルスが居間に戻ってくると、有紗はさっそくレグルスと話し合うことにした。

「にかわ、絵の具。こう来たら、やっぱり気になるのはルーファス王子のことよね」

「……兄上?」

 一瞬にして、レグルスの表情が曇った。

「あの人、エドガー王子のことを気にしてたじゃない?」

「ああ、そっちですか。状況的にはあやしいですが、ことを荒立たせても、エドガーに良いことはちっともありませんよ」

「どうして?」

 隣に座っているレグルスの横顔を覗き込んだ時、モーナがお茶を運んできた。

「ふふ。今日も仲良しですわね。微笑ましいです」

「何が?」

「だって、アリサ様。椅子が二つあるのに、お二人で使ってらっしゃるでしょう?」

 ローテーブルを挟んで向かい側にも、長椅子がある。客観的にこの状況を見ると、確かにいちゃついているように見えるかもしれない。

 仲良しだと言われるのはやぶさかではないが、認めるのは恥ずかしいので、有紗は言い訳をする。

「隣のほうが、話しやすいんだもの」

「向かいでアリサのお顔を眺めているのも、心楽しいものですが」

「もうっ、やめてよ、レグルスってば。照れるでしょ!」

 二人のやりとりを聞いて、モーナはいっそう笑みを深くして退室した。有紗はわざとせきをして、気を取り直す。

「それより、エドガー王子についてよ」

「彼の母親は、敵国の王女ですよ? ただでさえ、この国にいるのは針のむしろでしょうに、余計に立場を悪くしてどうします? 兄上の誘導かもしれない」

「それらしいことを言って、エドガー王子を疑わせるってこと? さすがにそこまでは……しないとも言い切れないから、怖いわね」

 ほんの数日だが、ルーファスの狸ぶりを見た。有紗にもうさんくさく見える。

 ひとまず、樹皮紙を用意して書きだす。

「仮説一、犯人はエドガー王子。動機は?」

「誓約の儀を邪魔することと、王妃様を排除することでは、だいぶ目的が変わりますよね」

「王妃様を排除したとして、エドガー王子に良いことってあるの?」

 レグルスはあごに手を当て、ううんとうなる。

「せいぜいマール側妃様の居心地が、少し良くなる程度ではないでしょうか。王妃様は同盟国の王女、マール側妃様は元敵国の王女。身分は同じくらいなので、仲が悪いのです。しかし、元敵国とはいえ、同盟を組んだ相手。軽んじては戦になるため、表だっての争いはありません」

「ああ、後宮の陰湿な争いみたいな?」

「陛下のお渡りの際に――妃の寝所に行くことをそう呼ぶのですが、その時に、王妃様が邪魔をすることがたびたびあったみたいですね」

 レグルスが苦笑して言葉をにごすので、有紗は好奇心を刺激された。

「何をしたのよ」

「通路に汚物をぶちまける……とか」

「ええっ、そういうのって万国共通なの? 源氏物語で読んだことがあるわ。物語の話だけど」

「陛下への不敬にもなるので、陛下が怒ってやめさせました」

「奥さんがたくさんいると大変ね」

「父上は女好きですが、政略婚であれでは多少同情はしますよ」

 戦で都を離れている時などに、羽目を外すこともあるようなのだと、レグルスは溜息をついた。

「あれさえなければ、王としても父としても、立派な方なのですが」

「まあ、どこかしらに欠点はあるものよね……」

 そういえばルーファスも、父のように妻は何人もいらないとわざわざ言っていた。悪い見本扱いしているのは、レグルスだけではないようだ。

「逆に、陛下みたいな女好きの王子はいないの? えーと、ジール王子とか」

「ジールは商い好きなので、妻が何人もいては金をくうから嫌だと言ってましたね」

「……なるほど」

 とても分かりやすい理由だ。

「ヴァルト王子やエドガー王子は?」

「ヴァルトはあの通りですし、エドガーは分かりませんよ。いつも子犬みたいでしたから」

「ロドルフさんはどんな面を見て、エドガー王子を警戒してたんだろ」

「さあ……」

 可愛い弟だと思っているレグルスにとっては、複雑な気分にさせられるようだ。

「それじゃあ、誓約の儀を邪魔した場合、何が得になるの?」

「王侯貴族、誰にとっても、アリサを利用したい者には邪魔したい内容だと思いますよ。エドガーに限定すると、謎ですがね。この国で『良い王子』と見られたいなら、積極的に応援すべきです」

「ちょっとエドガー王子に探りを入れるのはどう? 一緒にお茶でもしましょうよ」

「そうですね。ジールも誘ってみましょうか」

 レグルスは頷いたが、あんまり気乗りしなさそうだ。

「嫌なの?」

「ええ。アリサに男を近づけたくないので」

「弟でしょ」

「兄上のような例もあります。そもそもアリサはもっと自分の魅力を分かるべきで」

「あああ、藪蛇だったわ。仮説その二!」

 レグルスが有紗にとっては恥ずかしいことを語り始めそうだったので、有紗は急いで話を変える。

「犯人がルーファス王子だった場合」

「しかたありませんね。兄上が王妃様を排除して得することはありませんよ。母親の身分は、王子にとっては後ろ盾そのものなので。小用で呼び出されてうっとうしいかもしれませんが、殺すほどの理由はないでしょう」

「ヴァルト王子が言っていた感じだと、かなり面倒くさそうだったわね」

 ルーファスのことだ、顔には出さずに、心の中で舌を出していそうだ。それでも、打算的に王妃に尽くしている可能性が高い。

「それから、誓約の儀は……兄上にはお得ですよね。アリサに惚れたわけですし」

「いや、あれはパーティー当日よ? 毒を準備する時間はなかったと思うわ。私のことは抜きにして、何が得になるの?」

「病や怪我を癒す力と、邪気を植え付ける力。もろ刃の剣でも、為政者にとっては使いこなせるなら素晴らしい武器ですよ。誰でも欲しがるかと。ただ……兄上なら、飾っておくだけで周りを牽制できると考えるかもしれませんが」

「ああ、うちの国では大事に守っている闇の神子がいるから、怒らせたら神子が黙ってないぞっていう感じのやつね」 

 ルーファスなら、どうとでも上手く活用しそうだ。

「僕はそんな宝剣は鞘に入れて、大事に保管したいですね」

 有紗の髪を一房すくいあげ、レグルスは溜息をつく。

「傍で見ていても、はらはらしっぱなしですよ」

「う……っ」

 有紗は顔を赤らめる。

「レグルスってば、ずるいわよ。そもそも今は仮説について話しているんだから……って、あ!」

 有紗は急に思い立って、声を上げる。

「ユリシラさんを罠にかけたのは、どういうことだと思う?」

「ああ、そうですね。彼女の件について考えていませんでした。犯人だという疑いをそらすため……ってところでは?」

「ユリシラさんが真犯人っていう仮説も……いや、あれはないわね」

 ユリシラとヴァルトの様子を思い浮かべ、仮説三と書いてから、斜線を引っ張った。

「レグルス、それだと、誰が誰を疑っていて、他に犯人を用意する必要があったの?」

「近衛騎士の調査が雑だったのも気になりますね。彼らが素直に言うことを聞くとしたら、陛下と兄上くらいだ」

「ええっ、仮説四、黒幕は王様説!?」

 有紗はのけぞりがちに言ったが、すぐに首を振った。

「いや……王様はないわ。私の件で、あの人が立派なのは分かってるし」

「ええ。そもそも誓約の儀について言い出したのは父上ですからね」

 この仮説はあっさりと放り捨てることになった。


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