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あの絵の具は、色のついた石を接着剤で張り付けている形みたいだ。
石黄の粉を水に浸けて、溶け込んだ水をろ過すれば、透明な毒薬にもなりえるかもしれない。
有紗が考え事をしながら絵の具屋を出ると、ルーファスが口を開いた。
「それで、どうだったかな、お姫様」
「その呼び方、むずむずするわ。小さな子に使うべきじゃない?」
「こんな往来で神子様とは呼べないから、こう呼んでいるだけなんですがね。では、レディ?」
「アリサでいいってば」
有紗はうっとうしさを声ににじませて言い返した。馴れ馴れしくされるのは好きではないが、ルーファスのにっこり笑顔を見ると、脱力する。憎みきれない人だ。
有紗のそっけない返事を聞いて、ルーファスは思わずという調子で言う。
「あなたは変わってますね。私よりレグルスがいいとは!」
「自信家すぎて、引くわぁ」
「はははは」
有紗の反応が、いちいち面白いらしい。ルーファスは声を上げて笑う。なかなか笑いやまないので、有紗がイライラし始めたタイミングで、ルーファスは質問しなおした。
「それで、真面目な話、どうでした?」
「何が?」
「あの看板には黒いもやは見えたのでしょうか」
「そういえば、見えなかったわね」
「石黄のかたまりは?」
「見えなかった」
この事実に、有紗は目を丸くした。
よく考えてみると、使いようによっては毒になるものは身近にたくさんある。有紗の視界は黒いもやで覆い尽くされてもおかしくないが、そんなことはない。
「なるほど、なるほど。神官が『邪気』と表現するのは、それなりに意味がありそうだ」
「よく分からないわ」
「自然物に、悪意なんてないでしょう。絵にも、そんなものはない。疲れや病気、怪我といった分かりやすい害以外では、悪意が影響するのでは? と、仮説を立てました」
「悪意。だから、食器についた毒は黒いもやが見えるってこと?」
「私の予想では」
ルーファスが観察眼に優れていて、頭が回ることについては、認めるしかなかなさそうだ。
「さて、今日のところはいったん王宮に戻りましょうか。私のほうも、貿易商を探るつもりです」
「それが良いと思うわ」
絵の具屋の件はしかたないとして、全ての情報を共有しあう必要はない。何が不利になるか分からないのだ。
「ああ、そうだ。ついでに市場に寄って、殺鼠剤のヒ素も見ていきますか?」
「市場で売ってるものなの?」
市場があいている時間だというので、興味本位でついていくと、目的の店にたどり着く前に、いろいろと目移りしてしまった。テント状の露天商があちこちに出ていて、各地から集まった人々でにぎわっている。
「市はもうかるんですよねえ。出店する商人から少額ずつ場所代をもらうので」
ルーファスが話すのを聞きながら、食べ物や布地商、アクセサリー屋、革細工、武器屋などを眺める。
おいしそうな飲食物を口にできないのが残念だが、いろんな人が集まるだけあって、黒いもやがついている人も多く見かける。ちょっとずつつまみ食いをした。
「アリサ様、安い品ですが、なかなか良い細工ですよ」
「へえ、可愛いお花ね」
露店でルーファスが木彫りのブローチを買い、有紗に渡す。
「えっ、いらな……しかたないわね」
断ろうとしたら、露天商の女主人がものすごく残念そうに顔をゆがめたので、有紗は受け取るしかなかった。安物ならまあいいかと言い訳をして、気づいたら王宮に戻ってきていた。
「あれ!? 殺鼠剤は!?」
「ははは。あれの材料は、最初の鍛冶屋でしか売ってないんですよ。危険物なので。市場のデート、楽しかったですよ。それでは」
ルーファスはあいさつをすると、すぐにその場を離れていった。
「はー!? 嘘でしょ、だまされた!」
有紗が怒りだした頃には、すでにルーファスはいない。
「あ、アリサ様……気づいてなかったのですね」
「ルーファス殿下、策士ですなあ」
モーナやロズワルド、騎士達は肩を震わせて目をそらす。笑う彼らをにらんだところで、もう終わった後だった。
「ただいま戻りました。アリサ、何をそんなにふてくされてるんですか?」
夕方すぎに、レグルスが帰ってきた。外套を脱いで使用人に渡しながら、有紗が長椅子で膝を抱えて座り、不機嫌丸出しにしているのに気付いて、不思議そうに問う。
「聞いてよ、レグルス。もう、あの人、本当にうさんくさ……」
有紗が愚痴を言おうとしたタイミングで、有紗の顔の前に、白い花束が現れた。花束の向こうで、レグルスがいたずらが成功したみたいに笑っている。有紗は一気に笑顔になった。
「約束、覚えていてくれたのね!」
一抱えもあるすごい花束だ。花粉部分を取り除いた白百合と、白い花弁のマーガレットに似ている。甘い香りにうっとりした。
レグルスは有紗の隣に腰を下ろし、こちらを覗き込む。
「喜んでくださってうれしいです。それで、兄上がどうかしました?」
「もう忘れたわ! やったわ、ありがとう!」
花はもちろんだが、覚えていてくれたことが特にうれしい。花束を抱え、有紗はさっそくモーナに見せに行く。
「見て見て。レグルスがくれたのよ!」
「良かったですね、アリサ様。すぐに花瓶をお持ちしますね」
モーナは微笑ましげにして、妃の間を出ていく。有紗はまた長椅子に戻った。他の女官がレグルスにお茶を運んで、すぐに出ていく。
「貿易商はどうだった?」
「いろいろと教えてくださいましたよ。王族との伝手が欲しかったようで、口が軽い人でした」
「ラッキーだったわね。伝手になってあげるの?」
「王宮は僕の管轄ではないので、無理ですよ。かわりに、出入りの商人への紹介状を書いてあげました」
情報代を支払ったのだと告げて、レグルスは表情に苦味を混ぜた。
「アークライト国はひどいことになっているようです。王宮に限らず貴族の領地でも、例の化粧水は出回っているそうですよ。材料が高値で売れるんだとか。あちらのファッションリーダーが、しわとりに良いと広めてしまったみたいです」
「そのリーダーさんは、お元気なの?」
「さあ、そこまでは知らないそうです。無責任な話ですよね」
毒だと分かっているのに、他国に材料を持ち込んで売りさばき、結果は興味がないのだというのだから、レグルスが不愉快をあらわにするのもよく分かる。
「この国でも売れないかと、まず豪商の奥方から当たっているみたいですよ。買った者がいるみたいなので、父上に注意の知らせを出してもらわないと。貴族との伝手がないと分かっただけ、良かったですよ」
王宮につながる収穫はなかったようだ。
「私のほうはね、石黄を買っていった侍女がいたそうよ。王宮に売ったんですって」
有紗は他にも、黒いもやが見える時と見えない時についても話した。
「兄上はよく気が付きますね。僕の考えもお見通しとは。相変わらず、怖い人だな」
「あちらでも貿易商を調べるって」
「兄上は外交を手伝っていますから、伝手が広い分、何か分かるかもしれません。あとはジールの調査結果ですね」
「この侍女が誰か分かればいいんだけど」
「身なりが良くて、亜麻色の髪をした銀の指輪をはめた女性なんて、ごろごろしていますよ。しかし、王宮のお使いなら、女官長が把握しているはずです」
次は女官長に話を聞くことに決まった。
王宮の大広間で午餐を終えると、片付けが済んだ頃を見計らい、女官長を呼び出した。
「ここ最近、亜麻色の髪の女官で、銀の指輪をはめた者が外出しなかったか、ですか? 買い出しは、下働きの仕事です。絵の具の材料なら、個人的な買い物では?」
外出の記録も見てもらったが、特に思い当たらない様子だ。
「それぞれの宮にいる侍女なら、個人的に外出もできるんですよ。主のわがままを叶えるために、必要なこともありますから」
「なるほど。では、絵の具を使うような方は?」
「王宮画家の先生達か、エドガー王子の宮ではないでしょうか。ですが、実はこの間の地震で……」
女官長は気まずそうに有紗を見た。それで、有紗はピンときた。
「私が怒った時のこと?」
「ええ、そうです、神子様。あの時、いくらか修繕が必要な場所ができたのです。絵の具を大量に購入したんですよ。壁の塗装がはがれてしまって。人の出入りも多かったので、もし絵の具を気にしてらっしゃるなら、あの時にどさくさまぎれに誰かが盗んだとしても、私どもには分かりません」
女官長は話し終えると、仕事に戻った。
有紗達はひとけがなくなった大広間で話し合う。
「つまり、犯人は他にも毒を手に入れる機会があったというわけね」
うんざりとつぶやき、有紗は足元を見つめた。
「……ごめんなさい。あの時のことが、こんなふうに影響するなんて思わなかったわ」
「アリサには怒る権利があります、謝らないでください。毒を使う者が悪いに決まってるでしょう?」
「それは、ちゃんと分かってるの。でも、ヴァネッサさんは私にとっても特別な人だから。この世界でのお母さんだと思ってる。怖い思いをして欲しくないわ」
「そう言ってくださるのはうれしいですが、どうか気にやまないでください。アリサが落ち込んでしまうと、母上も悲しみますよ」
レグルスが優しくなだめるので、有紗は頷いた。
「そうね。とにかく、真相を確かめて無実を晴らさなきゃね」
「その意気です」
とは言ったものの、この状況では手詰まりだ。有紗もレグルスも、それはよく分かっている。
別宮に戻りながら、今後について悩む。
「どうしたもんかしらねえ」
「侍女が分かったとして、毒をしかけた犯人とは限りませんしね。とりあえず分かったことを報告書にまとめて、明日になってから考えましょう。整理する時間が欲しいです」
「それがいいと思うわ」
別宮に着くと、女官が有紗に声をかけた。
「お妃様、こちら、居間のテーブルにありましたが、誰もどなたの持ち物かご存知なくて。もしやお妃様のものでしょうか?」
木彫りのブローチには見覚えがあった。そういえば花瓶に花をいけるのに夢中になったせいで、テーブルに置きっぱなしにしていた。
「うん、私のよ。ありがとう」
「アリサ、こんなブローチ、お持ちでしたっけ?」
「あの後、帰りにルーファス王子が買ってくれたのよ。断ろうと思ったんだけど、露店のおばさんがかわいそうだったのよね」
「どうして露店に?」
「殺鼠剤があるっていう嘘にだまされて?」
「……兄上」
レグルスの態度は静かだが、うっすらとこめかみに青筋が浮かんでいる。
「お、怒った!?」
「兄上に、ですよ。僕が先に市場を案内する予定でしたのに! そりゃあ、あんな商人の傍にアリサを連れていくほうが嫌で別行動にしましたけど、ずるいです!」
「落ち着いて! また一緒に行けばいいでしょ」
子どもじみたことでも、本音を言ってくれるのはうれしいが、あんまり怒っているレグルスを見たくない。有紗はとっさに、レグルスのこめかみを両手で押さえた。
「……? なんですか?」
「青筋が立ってるから、押さえてるの」
「僕が怒らないように?」
「そうよ。ちょっとは静まった?」
ついでに軽くマッサージをしてみると、レグルスが噴き出した。
「まったく、あなたにはかないませんね」
「市場に行ったおかげで、今日の食事を済ませられたのよ。レグルスがお花をくれたから、私も何かしたいなあ。ここの女の人は、恋人に何を贈るの?」
「刺繍をしたハンカチや、ベルトに下げる香り袋などでしょうか。手袋や靴下、マント留めなど、いろいろですよ」
「香り袋! いいわね。じゃ、今度は材料を買いに行きましょ。好きな色を選んでもらうわ」
「それは楽しみです」
有紗のなだめが成功し、レグルスは機嫌をなおした。額と頬に触れるだけのキスを落とすので、有紗もうれしくなってレグルスに抱きついた。




