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侍従の案内で、客間に向かう。
出入り口では、槍を持った神官が二人、警備についていた。
「第二王子殿下と、闇の神子様ですね。陛下よりお伺いしております、こちらへどうぞ」
心底気に入らないと言いたげに、二人はじろりとねめつけてきた。だが、王の命令があるせいだろうか、横にずれて中に入れてくれた。
客間は広々としていて、大きな窓が開放的だ。日差しの届かない影に書見台が置いてあり、分厚い革表紙の本があった。傍に座っていた中年の男がこちらにお辞儀をして、布の手袋を差し出す。
「そちらをお使いください。こちらは光神教の聖典でございます。指紋一つつけてはなりません」
「分かったわ」
「大事に扱うと誓います」
有紗とレグルスは手袋をはめ、さっそく書見台の前に立つ。
「神子様は召喚の儀についてお知りになりたいとか。私が該当のページを開いても構いませんか」
「お願いするわ」
最初から読み進めるには、聖典は分厚すぎる。貴重な本にあまり触れないで欲しいのが本音なのだろうが、監視の神官の申し出はありがたい。
神官は目次を確認してから、聖典の後半を開く。
「こちらが召喚の儀でございます」
「アリサ、三日三晩かけて行う儀式の手順が書いてありますよ」
そのページを読んだレグルスが説明してくれたが、有紗は帰る方法以外、どうでもいい。試しにページを見てみたが、アルファベットのようなくさび型文字のような、不可思議な文字の羅列があるだけだった。
「帰る方法は?」
有紗はレグルスに訊いたのだが、監視の神官が反応を示した。
「闇の神子様は、帰還方法をお知りになりたいのですか。残念ながら、そんな方法は知りません。聖典にも記述はありませんし、今まで神子が帰ったという記録もありませんよ」
帰還方法を知らないと聞いて、有紗はすぐに反発した。
「嘘をつかないで。来ることができたんだから、帰ることだってできるはずでしょ!」
「そうおっしゃられても……。私は大神殿図書室の司書として、全ての本に目を通していますが、神子様は全てこの世界で天寿をまっとうされています」
有紗が疑いを見せるので、司書はページをめくって教える。
「ここまでが召喚の儀で、これ以降は神子様の記録です。お亡くなりになった年の記述があるでしょう?」
そう言って、この国だけでなく近隣の国にもあらわれた神子の死亡年について記したページを、一人分ずつ開いていく。だいたいが召喚されてから五十年ほどで死んでいる。十代から二十代の人間だったとして、長く生きても八十歳くらいまでだ。
全身の血が凍りついたような気分だ。
「もし帰せるのでしたら、長達は神の怒りに触れるよりも、あなたをお返しになったはずです。神子様は神の祝福で肉体が作り変えられるため、召喚された時から歳をとることはありません。そのまま、寿命が尽きるまでこの地で過ごされるのです。闇の神とて、例外ではありませんよ」
「それじゃあ、私にずっとこのままで、この世界で死ぬまで過ごせっていうの? 本当にないの?」
信じられないし、信じたくなかった。有紗は聖典に飛びついて、前から順番にめくっていく。
「アリサ、その辺りは光神の教えで……、そちらは祭典や儀式の順序、そこはもちいるべき道具の一覧です」
レグルスが横から教えてくれるが、彼の顔は最後まで苦いままだった。本を閉じると、有紗はレグルスにしがみつく。
「ねえ、レグルス。嘘をついてるんじゃないよね? あなたが私のことが好きだから、嘘をついて帰れないようになんて……」
「大恩あるアリサに、そんな真似はしません」
レグルスの表情が強張り、その目に傷ついた色が浮かぶ。
それだけで、有紗はまざまざと理解した。
(帰る方法が、ない)
有紗の膝から力が抜け、床にへたりこむ。
「アリサ」
レグルスも膝をついて、有紗を支える。
もう家族に会えない。友達にも、教師になろうと学んだ大学生活も無意味となった。平和な日本での日々が遠くに感じられ、急速に色あせていく。
喪失感の次にやって来たのは、強い怒りだ。
「なんで……好きで来たんじゃないのに。あいつらは私に謝りもしないで、なんで私だけこんなつらい思いをしなくちゃいけないの! もう嫌! ――こんな国、滅んでしまえばいい!」
やけになって、癇癪を起こす。
八つ当たりで怒りをぶつけた時だった。ドッと突き上げるような地震が起きた。
すさまじい揺れのせいで立っていられず、監視の神官が床にへたりこみ、呆然と有紗を見ている。書見台が倒れ、聖典がやわらかな絨毯の上へと落ちた。
有紗の心はぐちゃぐちゃで、怒りと悲しみと喪失感でごっちゃになっている。怒りが強すぎて涙がにじみ、どうして泣かねばならないのだとまた怒りがこみ上げる。
「嫌い! 嫌い! みんな、大っ嫌い!」
子どもみたいに叫び、有紗は神官をにらむ。
「これも全部、あんた達の仲間のせいよ。私に不幸を押し付けておいて、あんた達はのうのうとしてるつもりなの?」
「ひっ」
神官は息を飲み、後ろにじりじりと下がる。
「わ、私のせいでは……」
「だからなんなのよ。連帯責任に決まってるでしょ。あんた達が私を召喚したの。神子が理不尽な目にあっていいのに、あんた達がそんな目にあったら駄目なの?」
「……っ」
彼はまずいものを飲み込んだような顔をする。有紗の受けた仕打ちがどんなものか、この神官はやっと理解したのだ。その目から闇の神子への嫌悪が消え、代わりに畏怖と憐憫が浮かぶ。
「もう嫌! あんた達はまったく分かってないんだわ。それならみんな、私と一緒に死ねばいいのよ!」
全てに嫌気がさし、有紗は自暴自棄になっていた。目につくものを全て壊したくてしかたがない。その心につられるように、ぐらぐらと地震が起きる。
「アリサ」
「やめて、レグルス。止めないで」
レグルスに声をかけられると、良い人に戻りたくなる。そんなふうにこの怒りを押し込めたくない。
有紗はレグルスの手を払おうとしたが、レグルスは有紗の手を強くつかんだ。逃げられないと分かると、有紗は逆に挑むようにレグルスを見上げる。
「ねえ、私のこと、嫌いになったでしょう? 私は最低な人間なのよ。私だけが不幸なんて許せない。皆も道連れにしたくなる」
だから、手を離して。止めようとしないで。
有紗を否定して、うんざりした顔なんて、もっと見たくない。
怒りをばらまきながらも、有紗はレグルスの顔を見る勇気がなかった。しかしレグルスは有紗と目を合わせる。驚くくらいまっすぐで、静かな眼差しだった。
「いいえ、そうは思いません。アリサは普通のかただ。理不尽に怒って、何が悪いんです。気が済むようにすればいい。ただ、僕は傍にいたい。あなたを一人にしたくない!」
こんな醜い感情をあらわにしても、レグルスのしんしな目は変わらない。有紗の目から、次々に涙が零れ落ちる。安堵からくるものだった。
有紗はグスッと鼻をすする。
「レグルスって馬鹿なんだわ」
「ええ、知ってますよ」
少しだけ気持ちが凪いだ。だが、有紗の気は収まらない。
神官が這いつくばって頭を下げる。
「申し訳ございません、神子様。どうかお静まりを。あの三人には、必ず謝らせてみせます」
有紗はそれを鼻で笑う。
今更気付いたってもう遅い。
「いいのよ、あいつらも、あんた達も、チャンスを逃したの。あんた達のせいだから、謝ることないわ。――さようなら」
「神子様!」
悲鳴のような声が上がるが、有紗は無視して立ち上がる。震え続ける世界を歩き出す。よろけながら、レグルスもついてくる。有紗の左手をしっかりとつかむ彼の手から、離すものかという固い意思が伝わってきた。
有紗が客間の外に出ると、警備兵が座り込んで壁にしがみついていた。地揺れを気にせず、まるで幽霊のように軽やかに歩く有紗のほうへ、信じられないものを見る目を向けた。
有紗が廊下を歩くと、花瓶が落ちて割れ、シャンデリアからろうそくがはね落ちる。
あちらこちらで悲鳴が上がり、人々は有紗を畏怖の目で見つめるが、身動き一つとれずに壁や床にすがりついている。
謁見の間に入った瞬間、ガラスが粉々に砕け散った。
地震のせいで床から動けない人々を眺め、有紗は玉座にいるレジナルドのほうへ向かう。レジナルドはなんとか玉座にしがみつくようにして座っている様子だ。
有紗は玉座の少し手前で止まり、レジナルドに話しかける。
「陛下、私は帰れないそうです」
「……そうか」
「止めないんですか」
「滅亡が少し遅れただけのこと。あなたが崖から落とされた時に、すでにこの国の命運は決まっていたのでしょう」
覚悟を決めた顔をして、レジナルドは静かにひたりと有紗を見据えた。
有紗をののしるとか、無様に命乞いをしてくれたら、きっとなんの遠慮もなく怒りをぶつけた。
しかし、彼の態度は違った。
有紗は少しだけ冷静さを取り戻す。
そうだ。あくまであの神官達が悪いのであって、彼らは何も悪くない。
このまま怒りをぶつけて、国とともに心中したとして、それは有紗が神官に受けた仕打ちを他の人にすることと同じになる。
つまり、あのクズと有紗は同列になるということだ。
(あいつらと、私が?)
怒りがわいたが、それは自分自身へのものだった。へどが出る。そんなことになったら、全身の血を抜いて入れ替えたくなる。
気持ちを静めようと努力すると、地震がゆっくりと治まった。
謁見の間は、しんと静まり返った。
「あの人達は私から全てを奪ったの。故郷も、家族も友達も、便利さも、安全も……何もかもよ。召喚について、王が知らなかったで済むと思う? どうすればいいかしら」
「聖典を燃やします。二度と我が国で召喚されないように」
「当然よね。それから?」
慎重に返すレジナルドは、なるほど確かに賢王だ。そして思い切りが良い。
「国中を探して、類似の書物を全て焼きます。秘密を知っている神官は幽閉し、二度と外に出さない」
「そうね。殺すのは間違っていると思う。自由を奪うのもつらいことだけど、私のこうむった損害に比べればましよね」
有紗だけが不自由だなんて許せない。この国の人にも犠牲になってもらわなければ。
「次は?」
「あの神官達を謝らせ、崖から落として処刑しましょう。あなたがあったのと同じように。下賤なる重罪犯として、後世に名を刻みましょう」
「死んで終わりなんて許さない。崖から落とすのは、死んだ後にして。それまでずっと禁固刑よ。外が見える所がいいわ。あいつらはこれからずっと、すぐ外にある自由を見ながら、自分のしたことを後悔しながら生きていくの」
精神的により残酷なほうを、あの神官達に罰として与える。
「かしこまりました。そのようにいたしましょう」
レジナルドは静かに頷いた。
「神子様、あなたが望むなら、私の首も差し上げます」
「いらないわ。今、陛下が死んだら、王位争いが泥沼になる。私はこの国と心中しようかと思ったけど、それだとあのクソ野郎達と変わらないから我慢することにした。関係ない人達を混沌に落とすのはどうかと思うわ。――でも、約束して。私は、自分のことは自分で選ぶ。怪我や病気を治させるために私を脅したり、レグルスを人質にする真似は絶対にしない、誰にもさせないって」
「お約束します。神子様の自由を尊重します。王として、臣下にもそんな真似はさせません。そんなことをすれば、誰であろうと死罪になります。……神子様、あなたに賠償として、土地と地位をさしあげましょうか?」
レジナルドの問いかけに、有紗は首を振る。
「必要ないわ。そんな、私を縛るようなもの。私はレグルスの傍にいると決めた。彼、地獄までついてきてくれるんですって」
有紗はレグルスを見上げ、泣き笑いのような顔をする。
「私……レグルスの気持ちにこたえられないこと、ずっと気にしてた。帰れないのはつらいけど、私までレグルスを傷つけずに済むなら、それだけは良いことに思える。だからレグルス、私と生きて。この世界で」
「アリサ」
夢からさめたような顔をして、レグルスの目元が歪む。有紗をぎゅっと抱きしめた。
「……すみません」
嗚咽をこぼしながら、レグルスの体は震えている。
「どうして謝るの?」
脅したような形になったから、嫌になったのか。不安が少し顔をもたげる。
「あなたがこんなにつらいのに、アリサが僕と生きると言ってくれて、僕はうれしいと思ってしまった」
恥ずべきことだと思っているらしい。愚直で優しい人だ。
有紗もレグルスの背に手を回す。
「本当にしょうがない人ね。どれだけ私が好きなのよ。もう、負けたわ」
「何を言ってるんですか。僕は最初からアリサに負けっぱなしですよ。いつだってあなたの勝ちです、アリサ」
そんなふうに言われると、余計に負けた気分になるのだが、気持ちはうれしいのでもらっておく。
有紗はレグルスからそっと離れると、レジナルドを振り返る。
「王位争いは、これまで通り、公正に行って欲しいわ。私はレグルスを手伝うけれど、レグルスには堂々と王になってもらいたいから」
「……レグルスが負けた場合はどうするんです?」
レジナルドは困り顔で問う。
「私達は一緒にいる。引き離そうとしなければ、好きにすればいい。約束を忘れないで。約束違反をしたら、誰であろうと死罪よ」
次の王だろうが、王子だろうが、関係ない。有紗はきっぱりと返す。
「かしこまりました。王子にはそのように、誓約書にサインさせましょう」
「それなら問題ないわ」
話がまとまると、有紗の気持ちはだいぶ落ち着いた。
怒りを発散し、レグルスという拠り所を確かに手に入れた。あとのことはなるようになるだろう。
そんな謁見の間に、廊下から怒号が近づいてきた。
レグルスがさっと有紗を背後にかばい、地揺れが治まったことで立てるようになった騎士が、レジナルドと有紗、レグルスを守って壁を作る。
扉を押し開けて入ってきたのは、神官達だった。諸悪の根源である神官三人を乱暴に連れてきて、床へと突き飛ばす。
「謝れ!」
「神子様に謝れ!」
「お前達のせいで、国が滅びかけた。邪悪なのはどちらだ!」
仲間達の謝れと叫ぶ声に、神官三人はせき込みながら震えている。有紗が植えつけた疫病で、だいぶ体力を消耗しているようだ。
有紗には強気に出ていたが、神官仲間からの責めには耐えきれなかったみたいだ。
彼らは床に這いつくばって頭を下げる。
「闇の神子様、申し訳ございませんでした」
「召喚したにもかかわらず、放逐し、弁解のしようもございません」
「すみませんでした」
口々に謝る彼らの前に、有紗はレグルスと進み出る。
「そうね、謝罪は受け取ったわ」
期待を込めてこちらを見上げる彼らを、有紗は心底醜いと感じた。きっとこんな冷酷な笑い方をするのは、生きてきて初めてだ。
「でも、私には許さない権利がある。私は一生、あんた達を許さない。死ぬまで牢に幽閉して、死んだ後はあの崖から落とすの。そして、罪人として記録に残す。――それがあんた達への罰よ」
彼らはひっと息を飲む。自分達の末路を思ったのか、熱を帯びた顔から血の気が引いていった。
「あの時に謝っておけば良かったのに、残念ね。――そうよ、私はあんた達の言う通り、『邪神の神子』でもあるの。絶対に許さないわ」
謝れば許されると信じているのが、本当に憎たらしい。怒りがわき上がると、再びぐらぐらと弱い地震が起きた。神官達がひれ伏して、謝罪を叫ぶ。滑稽すぎてあくびが出そうだ。
そんな有紗の暗い気持ちに引き寄せられたのか、驚くほどの黒いもやが廊下の奥から飛んできた。
どす黒い雲のことが見えるようで、人々が悲鳴を上げて逃げる。
「レグルス、離れて」
「しかし」
「駄目よ、私と生きるんでしょ」
有紗の説得に、不本意だと言いたげに口を引き結び、レグルスがしぶしぶ後ろに下がる。
「なんですか、この黒いものは」
「これが私が食べているもやよ」
「神官の言っていた、邪気ですか?」
「こうなると、そう見えるわね。でも、なんでこんなに。――あ」
有紗はふと気づいた。
邪気を封じこめていたのは、ガラスの小瓶だ。さっきの地震で割れて、邪気が飛び出したのだろう。それが有紗の怒りにつられて集まったみたいだ。
「小瓶の邪気よ。疫病とかいろいろ……しかたないわね」
有紗は神官三人から疫病の邪気を取り除き、大きな黒いもやの塊に追加させる。彼らに早々に死なれては復讐にならない。それから黒いもやの雲を掴み、引っ張って移動する。
そのまま謁見の間を横切って、ガラス窓がなくなった扉から庭へと出る。
「アリサ……? どこに行くんですか」
「レグルス、近づかないで。それに触っちゃ駄目よ。大神殿ってどっち?」
「あちらですけど」
「道案内だけして。――陛下、私はもう行きます。レグルスの配下がルーエンス城に戻るのを嫌がったら、引き取って仕事の世話をしてあげてくださいね」
有紗の頼みが意外だったみたいで、レジナルドは目を丸くする。
「え? あ、ああ……」
あっけにとられているレジナルドや騎士を横目に、有紗は黒いもやを引きずって外へ運び出す。
それから大神殿のほうへ歩き、いつかの崖までやって来た。レグルスは距離をとり、けげんそうにこちらをうかがっている。
「アリサ、どうしてここに?」
「レグルス、私はたぶん、寿命が来るまで死なないと思うの」
「はあ、それがどうしたんでしょうか」
「あの日もね、ここから落ちても無傷だった。この黒いもやを置いておくわけにいかないから、先に迷いの森に行くわね。――だから後で迎えに来て。約束よ?」
「えっ。アリ……!」
ぎょっと手を伸ばすレグルスの手を避け、有紗は黒いもやをヴェールのようにまとい、崖からダイブした。




