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 自分が言い出したことで、レグルスを長椅子で寝かせるのがしのびなく、有紗はベッドの真ん中にクッションを並べて壁を作り、同じベッドで寝ることにした。

 モーナの監視のもと、お風呂にも入れてすっきりした。

 その日はぐっすり眠ったが、朝、有紗が起きると、すでにレグルスはいなくなっていた。

 有紗の身支度に来たモーナは不憫そうに言う。

「殿下、紳士でいらっしゃいますのねえ」

「レグルスは優しいわよ」

「……そうですね」

 どうしてモーナは同情を込めて、溜息をつくのだろうか。

 有紗は髪を編み込んで、しっかりと髪を覆い隠し、ヴェールで目元を隠した。

 それから鉄製の鎧戸を開けると、庭で稽古をしているレグルスとガイウスが見えた。

「おはよう!」

 有紗が声をかけると、二人は木剣の打ち合いをやめてこちらを見上げる。レグルスは右手を挙げてあいさつし、ガイウスはお辞儀をした。

「アリサ様、お妃様ともあろう方が、みっともない」

 ロズワルドが眉間にしわを刻んで注意するので、有紗は窓から部屋に戻ってぼやく。

「口うるさい姑みたい」

「お妃様、聞こえてますよ!」

 窓の外から、ロズワルドが怒る声がした。

「ごめんなさーい!」

 有紗が謝ると、レグルスとガイウス、モーナが笑う。

 そこに、マリアがやって来た。疲れて暗い顔をしている。この様子だと、あの後から仕事に取り掛かり、寝るのがだいぶ遅くなったのだろう。

「お妃様、お部屋のお支度を整えなおしました。こちらで朝食になさいますか?」

「ええ、そうするわ」

 真面目にやったかどうかを見に行こうじゃないか。

 有紗は口元をにっこりさせて、モーナとともに妃の間に行く。

 掃除しなおしたからか、昨日よりも部屋が明るく見えた。部屋を見回し、特に黒いもやがないと分かると、有紗は頷く。

「素晴らしい仕事に感謝するわ」

 テーブルにつくと、マリアはすぐに料理を運んできた。パンと果物を並べ、最後にスープを置く。

(……って、おーい!)

 有紗は心の中で、思い切りツッコミを入れた。

 スープには小さな蜘蛛が浮かんでいる。少しは隠せばいいのにと、頭痛を覚える。

「ちょっと、あなた!」

 モーナが眉を吊り上げ、マリアは澄まし顔で答える。

「どうかなさいました?」

「虫が入っているじゃないの。お妃様に失礼です! すぐにかえなさい!」

「虫ですか? 見えませんけれど。気のせいでは?」

「なんですって!」

 昨日の罰のしかえしなのかもしれない。妙に幼稚だが、マリアは十五歳くらいなので、子どもっぽい真似もしかたなく思える。

「そうよ、モーナ、虫なんて見えないわ」

「え?」

 有紗がモーナを見上げて止めると、モーナは首を傾げる。

「しかし、お妃様……」

「マリアが見えないと言ってるんだもの。確かにね、見えないわ。とってもおいしそう。私が食べるのはもったいないから、あなたにあげるわ、マリア」

 ヴェールの下で、きっと有紗はものすごく悪い顔をしていただろう。銀製のスプーンでスープごと蜘蛛をすくい、マリアのほうに差し出す。

「えっ」

「はい、あーん」

「い、いや、駄目です。こちらはお妃様のお食事で! そ、それに……」

 マリアは青ざめて、ぶんぶんと首を振る。やり返されるとは思っていなかったようだ。

「どうして食べないの? ねえ、モーナ、何も見えないのにね」

「そうですわね、何も見えませんわ」

 モーナはようやく合点がいき、有紗に話を合わせる。

「ほら、早く食べなさい。冷めてしまうでしょ」

「だって、蜘蛛がいるんです!」

「見えないって、あなたが言ったんじゃないの。――食、べ、な、さ、い」

 有紗がすごむと、マリアはわっと泣き出した。その場にひれ伏して、わんわんと泣く。

「ごめんなさい! 私が悪ぅございました!」

「……まったくもう。泣くくらいなら、なんでこんな真似をするのよ」

 スプーンを皿に戻し、有紗はマリアを見下ろす。ひっくとしゃくりあげながら、マリアは言い訳する。

「だって、私は何も悪くないのに、掃除と洗濯をやり直しさせられて……すごく腹が立ったんです。しかもどこの馬の骨だか分からない、第二王子の妃にですよ! 私、伯爵家の娘なのに!」

 貴族の子女だったのか。冷遇されている王子の妃にこき使われたから、嫌がらせをしたらしい。

「あなたの言いたいことも分かるけど、レグルスも王子なのよ? こんなことして、殺されたって知らないわよ」

「うっ、ぐすっ。申し訳ありません……」

「そう、その様子だと、あの死骸を置いたのは、本当にあなたじゃないのね」

 マリアはちらりとこちらを見た。

「そんな分かりやすいこと、すると思います? 第一、昨日のように、部屋に問題があれば私の責任になるのに」

「それじゃあ、誰が怪しいと思う? ベラ?」

「ベラ様は大のねずみ嫌いなので、ねずみの死骸は選ばないと思います。実際、昨日だってすごい悲鳴を上げていたじゃないですか」

「演技じゃなくて、本気だったわけ?」

「私は分かりません! 一週間前に、急にこちらのメイドにばってきされたので。王妃様にお仕えしたかったのに……」

 ぶすくれているマリアは、どう見てもいたずらを叱られて不機嫌な子どもだった。有紗は肩をすくめると、椅子を立って、チェストのほうに行く。財布から銀貨を取り出した。

 妃ならばチップなどで何かとお金がいるからと、ロドルフからいくらかもらっている。

「そう。私が悪かったみたいね。おわびに、お小遣いをあげるわ」

 むぅと唇を引き結びながらも、マリアの頬は赤らんだ。目がキラリと光る。

「でも、また何かあったら連帯責任にするから、嫌だったらちゃんと見張るのね」

「かしこまりました。申し訳ありませんでした。スープはお取替えいたします」

「もういいわ。食欲が失せたから。下がってちょうだい」

 マリアはもう一度頭を下げ、銀貨をポケットに入れて部屋を出た。

「お妃様、あんな真似をされたのに、どうしてお金をあげるんです?」

 静観していたモーナは、訳が分からないと不満げだ。

「ふふっ。これも作戦よ」

「……どういうことです?」

「あの三人の誰かが悪いのは間違いないわ。あの子がお金をもらって戻ってきたら、買収されて私の味方になったと勘違いするかも。そうでなくても、あの子だけずるいってやっかむかもしれない。仲たがいさせて、ボロを出させようと思って」

「アリサ様、策士ですわね……」

 モーナは目を真ん丸にし、感嘆のつぶやきをもらす。

「あとは時間が解決するから、放っておきましょ。モーナ、鍵をかけて」

 モーナが鍵をかけると、有紗は朝食を示す。

「とりあえずこれ、食べられそうなら食べちゃって」

 モーナはジャムはごちそうだと目を輝かせ、ジャムをつけてパンをたいらげた。果物は布にくるんで、後で食べることにしたようだ。



 その日、到着日に約束していた通り、燻製チーズと木の実を作って、レジナルドに献上した。

 ガーエン領のチーズは名産品でおいしい。燻製がさらに味わい深くしたおかげで、レジナルドはとても気に入ったようだ。おいしいものを食べさせてくれた礼にと、織物の反物を一つくれた。

「これでアリサに服を作ってやれと、陛下が」

 翌朝、レグルスとの朝食の席でそう言われた。同席しているだけで、パンや果物を籠につめながら、有紗は問い返す。スープはレグルスが食べてくれている。モーナに頼んで、後でガイウスに渡してもらうつもりだ。

「なんで私に?」

「燻製の知識は、アリサがもたらしたものですから」

「うーん、でもね。この間、ヴァネッサさんが服をそろえてくれたから、レグルスが使えばいいわよ」

「気にしなくていいですよ。服は多くても困りませんから」

 有紗の固辞を、レグルスはやんわりとしりぞけた。こういうところは頑固だ。

 褒美は予想外だが、王が気に入ってくれたのは良いことだ。有紗はにんまりする。

「燻製チーズの売り込みが成功したわね。これで良い売り文句が使えるわ」

「どういうことです?」

 スープを飲む手を止め、レグルスはわずかに首を傾げる。

 朝日のやわらかい光に照らされて、レグルスの顔には優しさが浮き彫りになっている。有紗はこの時間を一緒に過ごすのは好きだ。静かな時間、小鳥のさえずりを聞きながら、二人で食事をする。有紗は同席しているだけだが、特別な時間に思える。

「『異国の料理』より、『王様が喜んだ料理』のほうが、食いつきが良いと思わない?」

「なるほど」

「商人が来たら、そう話すの。でも、それだけだと弱いから、試食させたいわよね」

 実際に食べておいしいと思えば、彼らも未知の料理を怖がらず、仕入れてくれるだろう。

「それなら、収穫祭の時に出しましょうか。収穫祭では、領主が領民に料理と酒をふるまうんですよ。商人の出入りもあります。燻製を誰かに真似されたとしても、ガーエン領のチーズはおいしいので損にはなりません。遠方からも買い付けにくるでしょうしね」

「あ、そっか。やり方さえ分かれば簡単だから、周りに広まる恐れがあるのか……」

 うまいこといったと浮かれていて、その考えがなかった。

「保存食は冬を越すために必要なので、むしろ広めたほうがいいでしょうね。そして、評判になれば、僕達の勝ちです」

「そうだったわ、レグルスが王様にふさわしいって思わせるのも大事なんだったわね。味方を作らなきゃ」

「アリサのおかげで、土台を少しずつ築いていますよ。ありがとうございます」

「ううん。聖典を読むためだもん、もっとがんばるわ」

 この調子では、いったいいつになるのか分からない。有紗は物思いに沈んだせいで、レグルスがさびしげな目をしていることには気付かなかった。

「ええ、がんばりましょう、アリサ。あなたの大恩にむくいるためにも。我が国の罪をつぐなうためにも」

「ありがとう、レグルス。私、レグルスがいるから希望を失わずにすんでる。……日本に帰りたいの」

 そして、いつかここで過ごしたことが、夢だったと思えたらいいのに。

 そんな空想をしては、まだここにいることに失望する。有紗にとって、覚めない悪夢と変わらない。



 その日の午後、ヴァネッサが顔を出した。

「アリサ、すっかり忘れていたのだけど、あなた用の短剣ができていたのよ」

 美しい紋様を刻んだ革の鞘に、先がとがった短剣がおさまっている。細身で持ちやすいものだ。

「あの枷がこんなふうになるなんて、不思議」

「護身用でもあるけれど、貴族の女が持つ場合、敵の手に落ちる前に死ぬようにっていう覚悟をあらわしたものなんですって。こちらに嫁いだ時、王妃様にプレゼントされて顔が引きつったのを思い出したわ。あなたはそんなことにならないように、レグルスが守るでしょうけど、いざとなったら、敵の足を狙うのよ?」

「足、ですか?」

 ヴァネッサが物騒なことを言うので、有紗は面食らう。

「動けなければ、足止めできるでしょう? その間に逃げるのよ。とにかく、逃げることが大事」

「分かりました」

 そんな状況になって実際に使えるかは別として、有紗は頷いた。腰のベルトに下げると、ちょっとした安心感がある。

「陛下がね、あなたはどこの国の人なのかって気にしてらしたわよ。うまいこと誤魔化せるように、レグルスと相談しておくといいわ」

「お会いしたんですか?」

「ええ、久しぶりの再会だったから、盛り上がってしまったわ。あの綺麗な下着の試作品を着てみたおかげよ。ありがとう」

 うふふと少女みたいに、ヴァネッサは軽やかに微笑む。

「盛り上が……あ、そういう意味ですか」

 ヴァネッサは王の妃なのだから、下着を見せる状況といえば、そういうことである。

 寝床事情を暴露され、有紗は反応に困った。頬を赤らめて横を見ると、ヴァネッサが抱き着いてきた。

「可愛らしいわね! そうだわ、何か困ったことはない?」

 体を離し、ヴァネッサは本当の母親みたいに有紗を心配する。

「大丈夫です」

 自分でやり返しているので、問題ない。

「すごく頭にきても、王妃様のことを立てるのよ。ここで平穏に暮らすなら、そうするしかないの」

「分かりました、気を付けます」

「それではね。ふわあ、私は昼寝するわ」

 あくびをしながらヴァネッサは部屋を出て行った。その入れ替わりにミシェーラが遊びにきた。

「アリサお姉様、最終チェックに来ましたわ」

「ミシェーラ、体は大丈夫なの?」

「ええ。ゆっくり休んで、疲れがとれました。それより、パーティーは明日なんですもの、慌てないように、しっかり準備しておきましょう」

 それから、ドレスやアクセサリーについて確認して、マナーの復習をする。女が三人も集まれば、自然とおしゃべりが増えるもので、気付けば夕方になっていた。

「あら、もうこんな時間。わたくし、部屋に戻りますわ」

「明日はがんばろうね」

 有紗が声をかけると、ミシェーラは栗鼠みたいな可愛らしい顔に笑みを浮かべ、品よくお辞儀をして退室した。

 パーティー当日は朝から準備に忙しい。髪と体を洗って、王族の前に行くにふさわしいみだしなみを整える。モーナが不要な品を片付けるのを横目に、有紗はレグルスの部屋に向かう。お腹が空いたので、散策がてら聖堂に行きたい。

「レグルス……?」

 ノックをして返事があったので中に入ると、レグルスがいつか見た木箱を持っていた。小さな紙片は、有紗が書いた単語が記されている。

「それ……」

 まさか王宮にまで持ってくるほど大事にしていると思わず、有紗は妙に動揺した。

 レグルスはいつものように静かに微笑んで、紙片を木箱に入れ、木箱の蓋を閉める。

「それ、なんて書いてあるの?」

 なんとなく、聞いてはいけないような気がしたが、有紗は好奇心に負けた。

「……いつか、アリサから聞きたい言葉です」

 彼があんまり優しい顔をしているので、有紗はどんな単語か感づいた。

 ――いや、本当は、気付かないふりをしていた。

 レグルスが有紗に好意を向けていることは分かっていた。それでも、それに気付くわけにいかなかった。

 命の恩人だから好かれているのだと思うことで、それ以上を考えないようにしていた。

 だって有紗は、元の世界に帰りたいのだから。

「ご……ごめ……」

 後じさって、扉に背中が当たる。

 情けなくて、涙が出てきた。

 結局、有紗も王宮の人達と変わらない。利用しあうと言いながら、レグルスを踏みにじっている。

 ここでの保護者だとレグルスに依存しながら、有紗はその愛にはこたえない。

「私……私……帰りたいの」

 なんとかそう言うのが精いっぱい。ぎゅうと両手を握りしめる有紗の傍にやって来て、レグルスは有紗の頭を撫でた。

「分かっているので、大丈夫ですよ」

 わしゃわしゃと、犬にでもするみたいな乱雑な撫で方で、何とも言えない空気が霧散する。有紗はやっと呼吸を思い出して溜息をつく。

「女性は男性を恐れるものです。僕はあなたを傷つけたくない。怖がらせたくない。あなたを故郷から切り離し、自分勝手に殺そうとした神官達と同じことはしない。アリサが自然と好きになってくれたらうれしいけれど、保護の見返りに強要もしない」

「……うん」

「アリサが僕を必要としてくれるだけで、うれしい。でも、一つだけ許せないことはある」

「何?」

 少しだけ身構えて、有紗はレグルスを見上げる。レグルスは少しだけ険しい顔をして、きっぱりと言った。

「他の男は、駄目です」

「男?」

「例えば第一王子とか」

「お兄さん?」

 なんて可愛らしい嫉妬だろう。有紗は噴き出した。

「ありえないわ。会ったこともないのに」

「ガイウスやロズワルドとか」

「ロズワルドさんだけは絶対にないから、やめてよね」

 思わず真顔で否定してしまった。想像しただけで身震いする。彼は有紗の天敵だ。

「どっちにしろ、聖典を読むまでは他のことは考えられないわ」

 そのために必死になっていたら、この世界のことも、変わってしまった肉体も、元の世界のことも考えなくて済む。

 有紗が一番怖いのは、気持ちが闇に墜落して、立ち止まることだ。いやおうなく、現実を叩きつけられることなのだ。

「それなら、僕は大丈夫です。聖典のために共にがんばりましょう」

 レグルスはそう言うと、「すみません、ぼさぼさになってしまいましたね」と苦笑を浮かべた。


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