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女官長が有紗に会いたいと言うので、レグルスやモーナとともに妃の間で会ったところ、女官長は青ざめた顔でその場にひれ伏した。
「申し訳ございませんっ」
「え?」
ぽかーんと口を開けて、有紗は女官長を見下ろす。二十代後半くらいだろうか、ほっそりしている彼女は、藍色のワンピースに白いエプロンを付けている。そして、白い麻の頭巾で頭を覆い隠していた。
地味な色のワンピースとエプロン、頭は麻の頭巾で覆い隠すのが、城で働く女性の使用人の服装らしい。
しかし、格好を見ていたところで、今、何が起きているのか訳が分からないのは変わらない。
「ええと……どういうこと? どうして土下座してるの?」
こんな真似をされたことがないので、有紗は焦った。誰かを土下座させて楽しむような趣味などないので、混乱しまくりだ。困った時はレグルスに頼るに限るので、有紗はレグルスの後ろにすすっと隠れる。
「ドゲザ?」
「あの姿勢よ。私の国では、最大限の謝罪表現だけど、正直、見ていて良い気分はしないわ」
「これは平伏といって、下位から上位の者へする最上級の謝罪方法です。他には、あいさつですることも……。イライザ、アリサは異国のかたなんだ、お前の姿勢に大変驚かれている。顔を上げて、立ちなさい」
レグルスは有紗に説明してから、女官長のイライザに立つように言った。
「アリサ、この女性はイライザといいます。今回の大掃除で新しく女官長になったんですよ。女性の使用人をまとめる立場ですし、衣装部屋の管理責任者でもあります。衣類のことで困ったら、イライザに相談してください」
「衣装部屋?」
「書斎の隣にあるんですよ。宝物庫でもあるので、今は私の物や宝飾品が中心です。どちらにせよ、アリサの分はこちらの箪笥に置きます。ただ、衣装部屋の管理をできるということは、裁縫のスキルが高いという意味なので」
「つまり、女官長は裁縫ができないとなれない?」
「侍女もそうですよ」
ということは、モーナの言う家事には裁縫も入っているのだろう。
「それで、いったいどうして謝っているんだ?」
「お食事を全く召し上がらなかったので、私の配慮が悪かったのかと。私、ここ以外に行き場がないのです。どうか解雇だけはおやめくださいませ!」
イライザがまたもや膝を付きそうなので、有紗は思わず手を伸ばして、イライザの袖を掴んだ。
「あのね、違うのよ。あなたは悪くないよ。私がね、とっても少食なだけなの」
有紗はレグルスのほうを振り返る。秘密を教えるのは、最小限にするつもりだ。レグルスも話を合わせる。
「そうだ、イライザ。アリサは部屋で軽食をとっていたから、気にしなくていい。たまに同席するが、それ以外は妃の間に食事を用意してやってくれ」
「まあ、そうなのですか?」
「僕が伝え忘れていただけだ。お前に非はない」
レグルスのとりなしに、イライザはあからさまに安堵の表情を浮かべる。
「お好みのお食事があればご用意しますので、なんなりとお申し付けください。このイライザ、誠心誠意お仕えいたします。元々、前の城主であらせられるロドルフ様にも感謝しておりました。夫を亡くして困っていたところ、義父ともども雇っていただけて……」
「あれ? もしかして、お父さんがいないって言ってた男の子って……」
どこかで聞いた話だと思い、有紗はイライザに問う。イライザはこくりと頷いた。
「ええ、私の息子かと思いますよ。今のところ、使用人では未亡人は私だけですから」
「前の女官長にビクビクしてた?」
「……お恥ずかしながら、あの方は癇癪持ちで恐ろしかったのです。難癖をつけられて解雇させられたら、私ども一家は路頭に迷いますもの」
弱いところに付けこむような人だったのか。ロドルフが嬉々として解雇するはずだ。レグルスは嘆きをこめたため息をついた。
「あの使用人は、病気療養中のミシェーラにも意地悪をしていたんですよ。母上やミシェーラは、この城では地位の高い女性です。そういった客人の世話は、身分の高い女使用人がする決まりですが、母上が警戒してつきっきりになる始末。私からも侍女の仕事はしなくていいと命じたんですが、今度はミシェーラの病気を嫌がって陰口を叩いていたようです」
「性格が悪すぎよ。やめてもらって正解だわ。病人にも冷たいなんて最低じゃない」
「うつる病気ではないとはいえ、不穏な気持ちになるのは分からなくはありません。王女だから静養できますが、庶民でしたら神殿の施設に隔離ですからね」
これでこの城は平和だなと、有紗は頷く。
「これからよろしくお願いしますね、イライザさん」
「『さん』は不要です。イライザとお呼びください、お妃様」
イライザはうるうると目を潤ませる。
「このような者にもお声掛けくださるとは、なんて優しいかた。私、がんばります!」
「ちょ、ちょっと!」
今度はあいさつで平伏したくなったようで、イライザが床にへばりつくのを、有紗は止められなかった。まごついている有紗を見て、レグルスとモーナが微笑んでいた。
女官長、侍女、騎士を一人ずつ味方に付けた。
たった数日でこの成果なら、良いほうだろう。
あれから三日過ぎたものの、まだリストアップしているところだ。
何か書くものをくれと言ったら、樹皮紙をもらった。その名の通り、木の皮をハンマーで薄く叩いたものである。作る時に破けやすいのが難点らしいが、羊皮紙や紙よりはずっと手軽に手に入るらしい。メモ程度ならこちらを使って欲しいとのことだ。
羽ペンの先をあぶって、インクを付けて書くと、ちょっとだけ紙にインクがにじむ。だがメモする物が無いよりは良い。
羊皮紙は長持ちするので、保管する書類は羊皮紙に書く。それ以外は樹皮紙に書くそうだ。樹皮紙は使い終わった後、再利用もできるらしい。
「やっぱり住む場所の改善が先だよね。雨漏りと隙間風は駄目だよ。清潔さは大事だから、ゆくゆくはお風呂を作るとして……。水をたくさん汲み上げるのに楽なのは、ここだと水車かなあ。山なら、湧水を樋で運んでくればいいから解決なんだけどなあ」
「どうして住み心地の話で、清潔の話が出てくるんです?」
ウィリアムの問いに、有紗はきょとりと首を傾げる。
「え? だって、不潔だと病気になるでしょ」
「えっ」
「こっちが『えっ』なんだけど」
有紗とウィリアムのやりとりを聞いて、レグルスが有紗のほうを見る。読み途中の書類を机に置いた。
「お風呂の話は、それが理由ですか?」
「私の国は水が豊富で、ほとんど毎日のようにお風呂に入ってたわ。そこまでは求めないけど、手洗いとうがいくらいはしたほうがいいわよ」
「うがい?」
「お水を口に含んで、上を向いて、ガラガラガラってさせて吐くのよ。喉を洗う感じかな?」
「それをするとどうなるんです?」
レグルスは気になることは深く問うところがある。真剣に聞いてくれるのがうれしくて、有紗も真面目に説明する。
「目には見えないんだけどね、空気の中に、病気の原因になるウィルスっていうものがあるの。それは鼻や口から体内に入るのよ。鼻は鼻毛があるから防いでもらえるけど、口から入りやすいのね。乾燥すると体内に入って、病気のもとになったりするから、うがいをして、口や喉についたものを外に出すと、病気の予防になるってわけ」
「手を洗うのはどうしてです?」
「あちこちに触ると、そういうウィルスが手にくっつくのね。レグルス達はパンや食事を手づかみでしてるでしょ? 手から食べ物にくっついて、それを食べると、体内に入っちゃうのよ」
「なるほど。そちらは大丈夫ですね、食べる前に、手を洗ってますから」
そういえばテーブルにフィンガーボウルがあったなあと、有紗は思い出した。
「できれば外から帰ってきて、すぐに手を洗ってうがいしたほうがいいわよ。建物内のあちこちに触ることで、あちこちに広めちゃうから。これは予防の話ね」
「理にかなっておりますね」
レグルスは頷いて、考え込むような仕草をする。
「へえ、病気になるもとっていうのがあるんですか。どうしてそんなものがあるとご存知なんです? 目に見えないのに」
ウィリアムが素朴な疑問を口にする。
「私の住んでいた場所は、ここよりもずっと技術が進んでいるのよ。そういう、小さすぎて目に見えないものを、見えるようにする道具があったの。でも、私は道具があるのは知ってるけど、それの仕組みは知らないから、作って見せることはできないわ」
有紗はやんわりと苦笑する。
「普通、こんな話をしたら、信じられないわよね」
「どんなものか分かりませんが、それだけで病気を予防できるなら、広める価値はありますよ。私は民には心穏やかに生きて欲しいので」
レグルスは口元にかすかに笑みを浮かべて、優しい目をして言った。
「レグルス……!」
なんて良い人! 有紗はじーんと感動した。一方、ロドルフはぶつぶつと呟く。
「闇の神子だと公言できれば、一発で広められるんですがねえ。神からのお言葉だと言えば、詳しい説明はしなくて済みますし」
「これは聖堂で試してもらえばいいんじゃない? なんか体に良いっぽいよってニュアンスで、誰かが真似すれば広まる気がするわよ。それこそ『ありがたい神官様の教え』で充分じゃない?」
「アリサ様、なかなか策士ですなぁ」
「ロドルフさんと似たことを言ってるだけでしょ、策士って何!?」
言葉の裏に「腹黒」と聞こえる気がして、ロドルフに褒められると少し警戒する有紗である。
そこへ、扉をノックする音が響いた。
「殿下、ロドルフ様、ご報告がございます」
レグルスが許すと、扉が開き、騎士が顔を出す。
◆
「どうした、何か問題か?」
ロドルフの問いに、騎士は首を振る。
「いえ、門番のガイウス・ケインズが、騎士達に勝負をしかけておりまして……。なんでも全員に勝ったら、団長になるとかなんとか。ロズワルド殿の後任が決まっていないとはいえ、皆、気が立っていまして」
「つまり喧嘩になっているのか?」
レグルスは慎重に問う。
「は。正式に試合として許可いただかなければ、収まりがつかないかと愚考いたします」
困り顔の騎士に、ロドルフは面白そうににやにやしている。
「殿下、いいではありませんか。これで全員に勝って実力を見せつければ、誰も文句は言えませんぞ」
「ガイウスは本気で言っていたのか……。よし、試合を許す。私も見に行こう。正式に立ち会えば、結果でもめることもないだろう」
「殿下、審判はわしにお任せを!」
ロドルフは喜び勇んで、騎士とともに書斎を出て行く。
「まったくもう、ロドルフ様は……。あの方、喧嘩好きなんですよ。たまの楽しみが闘鶏なんです」
子どもを見るみたいな生温かい目をして、ウィリアムも椅子を立つ。彼もどこかそわそわして、ロドルフのことを言えない態度だ。
「私も見学してよろしいですよね?」
「ああ」
「では、お先に失礼します。ええと、騎士の名簿」
ウィリアムは書類を持ち出して、素早く出て行く。
「なんだか楽しそうね」
レグルスが椅子を立ったので、有紗もぴょんと床へ下りた。
「喧嘩は娯楽ですからね」
「レグルスも、そういうのが楽しいの?」
「喧嘩は特には。ですが、騎士達の試合は好きですよ。ルールにのっとっていますから。同じ試合でも、決闘は無益なので好みませんね」
「試合と決闘って違うの?」
有紗の問いに、レグルスは大きく頷いた。
「試合は日ごろの鍛錬の成果を示すだけですが、決闘は誇りを守るため、命を賭けてするものです。負けたほうは死にます」
「絶対?」
「ええ、必ず。しかし、それで兵力を減らすのは馬鹿らしいので、平時では禁止されていますよ」
「ん? それ以外の時があるの?」
「戦時です。団体戦では不利でも、個人戦で勝つことで、戦の流れを勝利に持ち込めることがあります。そういった賭けに出ることはありますね。決闘を申し込まれて断るのは、恥ずかしいこととされているので……」
「なるほどねえ」
戦国時代っぽい考え方だなと、有紗はしみじみと頷いた。
「アリサはどうしますか?」
「行くよ。ガイウスさんをスカウトしたのは私達だから」
「では、外套を……。さ、フードをしっかり被ってください」
椅子の背にかけていた薄手のマントを取り上げて、レグルスが有紗に着せかける。
「自分で着られるのに」
「お世話をしたいんです」
「変わった王子様ね。でも私、子どもじゃないから、恥ずかしいんだけど……。何?」
自分でフードを被せながら、レグルスが残念そうにしているので、有紗は意味を問う。
「アリサの顔が見えなくなるのは寂しいです」
「だ、だって、しかたないでしょ。黒目を隠せって言うから。隣にいるから寂しくないでしょ?」
ちょっと動揺した有紗だが、なんとか気を取り直してレグルスに言い返す。レグルスは嬉しそうに微笑んだ。
「試合が終わったら、聖堂に行きましょうか」
「そうね。でも忙しいのに、いつも付きあわせちゃってなんだか悪いわ……」
レグルスが来てくれるとありがたいが、ここが小規模な領地でも、領主は結構忙しい。いつも書類を見ているか、伝令からの報告を聞いている。冬の間は落ち着くらしいが、それまではまだ長い。
「座ってばかりいると、体が強張りますからね。気分転換になって、むしろ仕事がはかどっていますよ。ありがとうございます」
「そこでお礼を言われると、余計に困るわ」
有紗はレグルスの態度を見ていると、ちょっと落ち込む。
「甘やかされてる気がする」
「はい、そうしています」
「や、やっぱり! ええとね、それでレグルスがいつか負担に感じて、私が嫌われて邪魔になったら悲しいから……ほどほどがいいな」
「アリサ、心配無用です。この程度、まだまだです。本気を出したら、こんなものではありません」
「まだまだなの!?」
まったく想像がつかなくて、目を丸くして驚く有紗の手を引いて、レグルスは書斎を出る。
「そんなことより、試合を見に行きましょう。立会人がいないと、始まりませんからね。皆が待っていますよ」
「え? そんなこと? そんなことなのかなあ。うーん」
不思議がる有紗だが、レグルスは全く気にしていない。
当のレグルスが問題無いと言っているのだから、良いのだろうか。謎だ。




