四章 どんな王様になりたいか
その夜、有紗は自室の窓を開けて、空を眺めていた。
薄らと雲がかかる空に、少し欠けた大きな白い月と小さな赤い月と青い月が浮かんでいる。
あの月を見るたびに、有紗はここが違う世界だと思い知らされる。水底にぶくぶくと沈んでいくみたいに、気持ちも落ち込んでいく。
(……寒い)
体ではなく、心が。
元の世界への戻り方も、元の肉体にどう戻るのかも、有紗には分からない。
分からないなら、不可能と同じことだ。
森で一人さまよった一週間、これが悪い夢で、起きたら温かい我が家にいないかと期待した。そして目覚めるたび、現実に打ち砕かれたのだ。
望まずに連れてこられた世界で、ここから出たいと、帰りたいとばかり願うなら、ここは有紗にとって、世界という名のだだっぴろい牢獄だ。
「はあ……」
深いため息がこぼれ落ちる。
もし肉体が作り変わっていなかったら、有紗はただ帰ることを望んで、その方法を探せば良かった。この状況で帰るのは怖い。
「約束はしたけど、会いたいなあ。お父さん、お母さん……」
どうして有紗が神子に選ばれたのだろう。不思議でしかたがない。
それでも、あの闇の中で会った美しい人が、有紗と会えたことを喜んでいたのを思い出すと、胸の奥が温かくなる。これも神子になった影響なのだろうか。
「こういう時、お母さんならどう言うかな?」
有紗自身ではこの沼から抜け出せない。それなら、記憶にある誰かに相談すればいい。
確か小学校高学年の時だった。友達と喧嘩をして、あの子のこういうところが嫌いだと愚痴っていた時、母は有紗の話をおざなりに聞いてから、あっけらかんとこう言っていた。
「変えられないもので、いつまでも悩まないの。どうせなら変えられるものについて悩みなさい」
口に出して呟いてみる。
どうしてこれを思い出したのか分からない。
だが、有紗は落ち込むと、いつもこの言葉を思い出す。
「帰り方は分からないし、肉体の変化なんて私にはどうしようもない。これは変えられないことだよね。今、変えられるものは……気分の向きかな。今は後ろ向きだから、前向きになれそうなことを探してみるってのはどうかな」
そう思って、部屋を見回す。
清潔な個室をもらって、綺麗な服に身を包んでいる。助けてくれる人達は優しい。
指折り数えてあげていくと、頭の奥で、ありし日の母の声がよみがえる。
「上手。その調子よ、有紗」
有紗は声に出して呟く。郷愁がこみあげて、涙が浮かんだ。ネグリジェの袖で、ごしっとこする。
「そうよね、今はこれだけで充分」
怖くて寒い気持ちに蓋をして、有紗は木製の鎧戸を閉めると、掛け布に潜りこんだ。
寝床に入ったものの、あんまり眠れないまま、部屋が明るくなってきた。そっと鎧戸を開けると、朝日はまだ顔を出していない。地平線に光が滲み、空気はひんやりとして青みを帯びている。
こんなに早い時間だというのに、隣で扉が開く音がしたので、有紗も扉を開けて、部屋の前を通りがかったレグルスに声をかける。
「おはよう」
「おはようございます、アリサ。ずいぶん早いお目覚めですね。まだ寝ていていいんですよ?」
レグルスは小声であいさつを返す。ネグリジェにショールを羽織っているだけの有紗と違い、彼の身支度はすでに済んでいた。今日のレグルスは腰の高さくらいの赤い胴着を身に着け、黒いタイツ状の靴下を履いている。
「眠れなかったんですか?」
「分かる?」
「隈が」
レグルスが親指でそっと有紗の目元を撫でた。
なんだか心地良くて、有紗がついその手に頬をすり寄せると、レグルスは息を飲んだ。何故かこちらをじっと見下ろすので、有紗もなんとなく見つめ返す。
「おおっと、失礼」
ちょうど階段を上がってきたところだったロドルフが回れ右をして立ち去る。
「……何?」
「いえ」
有紗がそちらに気を取られると、何が「いえ」なんだかよく分からないまま、レグルスがそっと手をどけた。
「アリサ、僕は朝の稽古があるんです。後で迎えに来ますから、朝食は一緒にとりましょう」
「食べられないのに?」
「それでも雑談はできますし、妃候補として座っていれば、使用人にも僕がアリサを大事にしていると伝わるので、アリサの立場が安定します」
有紗は少し考える。
「ええと、つまり、食事に同席しないってことは、そこまで仲良くないですよって言ってる感じなの?」
「そういうことですね。もちろん、気乗りしないならお部屋にいて構いませんよ。ただ、僕が……」
「何?」
「アリサと食べたら、食事がいっそうおいしくなりそうだと思って」
にこりと微笑んでの言葉に、有紗は気を良くした。
「そんなふうに言われたら、同席しないわけにはいかないわね」
「では、また後で」
レグルスはお辞儀をすると、機嫌が良さそうな足取りで立ち去った。
ひとりぼっちだと心が寒いが、レグルスといる時は温かい気がする。つい、カルガモの雛が親鳥を追うみたいに、レグルスを無意識に追いかけてしまいそうになるのを我慢して、有紗は着替えを済ませることにした。
稽古の後に風呂に入ってから、レグルスは再び着替えて、有紗を迎えに来た。
居館の一階には、謁見の間と食堂を兼ねた広間がある。客があればここで催しものもするが、普段は家臣とそろってここで食事するそうだ。
長い木のテーブルの一番端、いわゆるお誕生日席にレグルスが座る。有紗は左斜め前の席にした。
「ねえ、他の人は?」
「軽い朝食や夜食をとることはありますが、皆でそろっての食事は、正餐と午餐だけですよ」
「せいさん? ごさん?」
聞き慣れない言葉だ。だが、話の流れから朝食と夜食のことでないなら、想像がつく。
「昼食と夕食のこと?」
「そうです。正餐が昼食で、午餐が夕食のことですね。正餐は時間をかけて、たっぷり食べますが、夕食は軽めと決まっていますよ。僕は早朝に稽古をするので、朝は少し食べておきたいんです」
そう言うレグルスの前には、テーブルクロスの上に平たいパンが直接置かれ、豆のスープと、イチジクが盛られた皿が置いてあるだけだ。
「パンをお皿に置かないの?」
「置きませんよ」
「汚くない?」
「クロスは毎日洗っています」
「ふーん……」
有紗はとりあえず頷いた。文化が違うのだろう。それに、現代の日本と違い、昔のほうが清潔にうるさくなくて、おおらかだろうとなんとなく思ったのだ。
だが、有紗が普通に食事できていたら、皿が無いと無理だと騒いでいたかもしれない。結構なカルチャーショックである。
「他に人がいないのに、私が一緒にいるほうが良いの?」
レグルスの話では、有紗の立場向上のためだったから、有紗はレグルスがパンをちぎってスープに浸して食べるのを眺めながら問う。
「アリサがいるだけでおいしさが倍になりますよ」
「まあ、こんなだだっぴろい場所で、一人で食べるのは味気ないわよね」
「部屋で食べることもありますが、僕は従者がいないので、召使いを呼ぶのが面倒なんですよ」
そういえばレグルスは王子なのに、一人で出歩いている。護衛をぞろぞろ引きつれているイメージと、今のレグルスは合わない。
「それもレグルスの人気の無さが原因……とか?」
「よく分かりましたね」
「いやあ、さすがに分かってきたよ。ロドルフさんみたいに、レグルス自身を見てくれる人って、そんなにいないの? お父さんは何か言わないの?」
「あからさまな人には言いますが、陰で言う分には。やめるように言ったところで、心がともなわなければ意味がありません。良いんですよ、あれはあれで敵か味方か分かりやすいので。隠れた敵のほうが厄介です」
冷めた見方に、レグルスの苦労がうかがえる。
「例えば?」
レグルスの味方として傍にいるなら、有紗も揚げ足をとられるかもしれない。どんな人がいるか分かっていたら注意できるので、ずばり訊いてみる。
「そうですね。今までで一番厄介だと感じたのは、親しい顔をして雑談をしかけてくる人ですね」
「ふんふん」
「父上のことは気を付けていますが、他の王子のことで、あの王子のああいうところが苦手で……など話しかけてきて、ただの合槌で頷いたとします。すると、肯定したとみなされて、翌日には僕が兄弟の陰口を叩いたと噂が広まってるわけです。頷いたのは事実なので、否定しようがなく……正妃様に呼び出されて説教をされました」
有紗はぐぐっと眉をひそめる。
「は? 子どものいじめみたいなことをするのね」
「そういうことを、大真面目に大人が子どもに仕掛けてくるので、たちが悪かったですよ」
「最低じゃない」
有紗は低い声で毒づいた。陰湿すぎるし、大人げない。
「世の中の人はそんなものだと思っていたので、あまり他人に興味もなくて。別だと思える人に会えて良かったです」
レグルスはじっと有紗を見た。有紗はきょとんと見つめ返し、にこりと笑う。
「良かったね!」
きっとロドルフ辺りのことだろう。
「……ええ」
レグルスはほんのり苦笑した。その意味がよく分からなかったが、有紗は雑談を続ける。
「ここではどんな感じ?」
「居心地は良いですよ。大掃除をしましたしね」
「そうね。でも、もっと改善しようよ。暮らしにくい感じがあるのよね、このお城」
有紗が呟くと、レグルスは困った顔になる。
「アリサ、この城は城砦なんですよ」
「じょうさい?」
「砦のことです。防衛拠点なので、暮らしにくいのはしかたがありません。暮らしやすいということは、つまり?」
「防御力が落ちる?」
「その通り。主人の部屋が奥まった場所にあるのも、使用人の出入りを制限しているのも、防衛のためです」
レグルスに、有紗は質問をぶつける。
「でも、お風呂場を一階に作るくらいはできるんじゃない? 二階までお湯を運ぶなんて、召使いの人達が重労働すぎると思う」
「なるほど、そこでかわいそうに思ったわけですね。アリサは優しいですね」
レグルスが褒めるので、有紗は身を縮めた。
「ねえ、なにかと褒め言葉を混ぜるの、やめにしない?」
「何故。もっと言葉を尽くしたいくらいです」
「……分かりました。このままでいいです」
これ以上は照れて逃げたくなってしまうので、有紗は早々に諦めた。
「でも、工夫して重労働が減るんなら、そのほうが良いと思うよ。あいた時間で、他のことができるし、余裕ができれば精神的にも穏やかになるんじゃないかな。そしたらレグルスが良い主だって思われて、血筋は関係なく、好かれるんじゃないかと思う」
言いづらいながら、思っていることを口にすると、レグルスは真剣な目をした。
「え? 怒った?」
「まさか。アリサ、あなたの助言は、宝石にも劣りませんね」
……やっぱり逃げようかな。
また褒められた有紗は、そわっと身じろぎした。




