閑話1 レグルス
父がどうして母を側妃にしたのか、幼い頃からずっと不思議だった。
庶民の娘を妃にすれば、母が不幸になるなんて、簡単に分かるはずだ。
それでも母を愛しているという父が、レグルスには理解できなかった。
王家に生まれた者は、母親の立場が全て物を言う。
母の実家に財力と権力があれば、王子の立場は安泰だ。
だが、逆だったら?
レグルスと妹のミシェーラの母は、庶民だ。旅をする一座にいた美しい踊り子。いやしい女の血を継いだと、王宮では表でも裏でも、冷たい視線にさらされてきた。
幸い、父王は母ヴァネッサを寵愛しており、ことあるごとに届く贈り物のおかげで衣食住には困らずに済んだ。母は踊り子こそしていて学は無かったが、賢くて強い人だ。
頼りは父の愛だけだという、綱渡りのような立場でも、堂々と胸を張って生きている。
もし、ヴァネッサがその境遇を嘆き悲しむだけの弱い女だったら、早々に見限られていたに違いない。
誇り高い母はエネルギッシュで、子どもから見ても輝いている。父の目にもそう映っているはずだ。
王の血を受け継いでいるが、王宮の人々はレグルスとミシェーラには冷たい。
幼い頃、レグルスは第一王子ルーファスがうらやましくてしかたなかった。
正妃の子であるルーファスは、王宮の人々から一心に期待を集めている。見目麗しく、文武両道。欠点を探すほうが難しいほどの、完璧な王子だ。
ルーファスを前にすると、レグルスは自分が影になった気がする。部屋の隅に置き去りにされた雑巾のほうが、まだ関心を引くだけマシだった。
いるのにいないものと扱われ、いると主張すれば、汚いものを見るような目を向けられた。
幼い頃はその理由が分からなかった。
ルーファスは成功しようが失敗しようが、褒められていた。
レグルスは、成功すれば王の血を継ぐから当然と流され、失敗すればいやしい母の血のせいだと笑われた。
血筋のせいだと分かってからは、とにかく母を笑い者にしないために、自分を磨くことにした。
どうあがいたって、血のせいで認められないと分かっている。
それでも努力するのは、自分を見ている、自分の目のためだ。例え誰も見ていなくても、自分は分かっている。
手を抜けば後悔し、恥じ入るのは自分だ。
そして母が笑われれば、ひどい罪悪感が待っている。
王宮にも少ないが優しい人はいて、成長するにつれて少しずつ過ごしやすくなったが、レグルスには居心地が悪かった。ここには居場所がないといつも感じていた。
転機は、父王が発表した王位争いだった。
ガーエン領のルーエンス城は、王宮に比べればずっと住みやすい場所だ。
妹の病が悪化していたため、静養にも良いと思い、レグルスはひっそりと喜んだ。
元城主で、今は家令となったロドルフは親切だったが、レグルスには興味を感じられない。
この血が流れている限り、どこに行ったって同じだ。
王になどなれるわけがないのだ。隅で静かに暮らし、投げられる石から家族の身を守れればそれでいい。
恐らくやけになっていた。
妹を救うため、奇跡の泉を求めて迷いの森に踏み込んだのは。
そしてそこでレグルスは、運命と出会った。
狼に脇腹へ食いつかれ、なんとか狼を殺して逃げたものの、結局、大木の下で力尽きた。
レグルスは座り込み、傷を手で押さえたまま、命が流れ出していくのをただ見ていた。
生き延びてなんになるのだろう。
せめて妹の命くらいは助けたかったが、これでは無理だ。
意識がもうろうとし始めた時、ガサリと茂みが鳴った。
最初、血のにおいを追いかけて、狼がやって来たのだと思った。だが、それは若い女性だった。
「助けてください! 遭難したの。食べ物を分けて……」
涙混じりの、せっぱつまった声だった。
目がかすんで、よく見えない。
最後に一人を助けられたなら、まだ生きてきたかいがある。人生の評価は死んでから決まるとは、誰が言った言葉だっただろう。少なくとも、この女性の記憶では、レグルスは価値のある存在で終わるはずだ。
「……そこ、に」
震える指先を持ち上げて、自分の鞄を示す。
「大丈夫? どうしたらいい?」
女性はおろおろしているようだ。レグルスを助けたいが、どうしていいか分からないらしい。
怪我人や死人から物を盗むような者もいるのに、心配してくれる優しい人と最後に会えて良かった。
気にしなくていいと、女性に笑いかける。
「……がとう。それ……君に……あげる。僕は……助から……ない」
女性が息を飲んだ。
それから女性はレグルスの前に膝をついたようだった。
「ねえ、ごめんなさい。それ……飲ませて」
水筒のことを言っているのだろうか。よく分からないまま浅い呼吸をしていたレグルスは、腹を覆っていた熱さと痛みが急に消えたのに気付いた。
「ああ、おいしい! おいしい、おいしいわ」
ぼんやり見ていると、女性は空中のものをつかんで食べる仕草をしたり、レグルスの怪我に顔を寄せたりしている。
そうするうちに痛みが完全になくなり、頭のふらつきが消えた。体に力が戻り、呼吸もしやすい。かすんでいた視界がはっきりと戻り、色鮮やかな森の様子まで見えた。
まるで生まれ変わったかのようだ。
こんなに世界は輝いていたのか。
「君は……何をしたんだ?」
思わず訊いてしまったレグルスは、何も悪くないだろう。だが、女性は我に返り、目に見えて青ざめた。
女性は今までレグルスが見たこともない容姿をしていた。
漆黒の髪と目、鮮やかな赤い服には、色とりどりの刺繍がほどこされ、黒いスカートみたいなものを履いている。
赤いリボンがついた髪型が崩れているのを見て、遭難したと言っていたのを思い出した。汚れている様子はないが、いったいいつからさまよっているのだろう。
そして、その唇についた血の赤が、やけに目を惹く。
「あの、ごめんなさい! なんか私、訳が分からなくなって。お腹が空いてて、喉も乾いてて。この世界に呼ばれて、神子なんて言われて、崖から落とされたのになんでか生きてて。でも何も食べられなくて、飲めなくて。あなたの血がおいしそうで、それに黒いもやもおいしくて! 私、いったいどうしたの。化け物になったの? お父さんお母さん、助けて、怖いよぅぅっ」
パニックになった彼女が痛ましくて、思わずレグルスは抱き締めていた。
彼女の震えが止まったので、レグルスは声をかける。
「驚かせてすみません。よく分かりませんが、あなたが僕を助けてくれたことは分かりました」
「へ……?」
恐々とこちらを見た女性は、ぱちくりと瞬きをする。
「私のこと、気味が悪くないの?」
「助けていただいたのに、どうしてそう思いますか」
「だって、血をなめたのよ?」
「驚きましたが、そのお陰で傷が治りました」
そう答えると、女性は驚いていた。
彼女の境遇を知り、見知らぬルチリア王国の神官に怒りを覚える。
空腹でさまよいながらも、傷付いた者を見つければ助けようとする、普通の善良な女性だ。
神の祝福で変わってしまった肉体に怯えているのを見ると、手を差し伸べて守りたくなる。
行く当てがないという彼女を、連れて帰ることにしたのは至極当然のことだった。
女性――有紗は、不思議そうに問う。
「どうして、そこまで……?」
そう言われてみると、どうしてここまでむきになっているのか。
興味もなく色あせていた世界が、鮮やかに輝いている。これは、きっと……
「そうですね、あなたに惚れました」
「惚れた?」
「好きな人を助けたい。それではいけませんか?」
真面目に答えたつもりだったが、有紗は笑い出した。冗談だと思ったようだ。
それでいいと言った有紗は、張りつめていた神経がほぐれたのか、急に眠気を覚えた様子で、その場に寝転がって眠り始める。
疲れ果てているのは分かるが、初対面の男の前で無防備すぎやしないだろうか。
だが、今はこれでいい。
彼女の拠り所になってしまえば、きっとずっと傍にいてくれる。
――幼い頃から、父が母を妃にした理由がよく分からなかった。
幸せにしたいと思うのが愛だと思っていた。
だが、今は父の気持ちがなんとなく分かる。
レグルスが自分の立場で有紗を妃に迎えても、有紗は不幸にしかならない。
それでも、彼女が欲しい。
「アリサ、愛していますよ」
思わず呟いて、レグルスは自嘲めいた笑みを浮かべる。
相手が不幸になるのだとしても、傍にいて欲しいなどと。
このいびつさも、愛なのだろうか。




