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 ぐすりと鼻をすすりながら、有紗はやっとレグルスから離れる。

「本当にごめんね。また取り乱しちゃって」

「構いませんよ。こんな時はお茶を……と言えないのが残念ですね」

「私もよ。お茶、好きだったのに」

 大学生の間は、一人暮らしをして自炊していた。お菓子や料理を工夫するのが楽しみだったから、それができなくなったのは悲しい。

「……レグルスといると落ち着く」

 ひな鳥へのすりこみみたいなものかもしれない。

 あんな獣じみた有紗を見て、全く恐れる様子もなく受け入れる辺り、レグルスの度量は広いと思う。

 それにすがっている自分は、レグルスという存在に依存し始めている。身を引くべきだと思う一方で、一緒にいたい気持ちが強い。外に出て、またあの白服みたいに怖い人に会うのは嫌だ。

「うれしいです、アリサ。寄る辺をなくして不安なあなたを支えられたら、僕はそれだけで心が報われます」

 淡い笑みとともに、レグルスは優しく話しかける。有紗は目を細めた。

「レグルスが良い人すぎてまぶしい」

「冗談ではなく、本気で言ってるんですよ」

「……うん。それが分かるから、余計にまぶしいの。ありがとう」

 お礼を言って、ほぅと息をつく。眠気を覚えて、小さくあくびした。

「アリサ、この数日大変だったんです。ゆっくり休んでください。お腹は空いてないですか?」

「大丈夫……」

「では、明日、聖堂に一緒に行きましょうね。それか城の中を散策しながら、つまみ食いするのも良いかもしれません」

「あははっ、そうね、あの黒いもやのつまみ食いね。面白いこと言うわね」

「そうなると、“辻切り”ならぬ“辻癒し”って感じですね」

 無差別に癒していくという表現に、有紗はつい笑ってしまう。誰にもあの黒いもやが見えていないなら、有紗が気を付けさえすれば変人には見えないだろう。なかなか良いアイデアだ。

「それじゃあ、あの、ごちそうさま。ありがとう、レグルス」

「ええ、おやすみなさい」

 そう返すレグルスは、窓からの淡い光に照らされて、まるで宗教画の聖人みたいに見えた。



 それから昼寝を始めた有紗は、誰かの言い争う声で目が覚めた。

 ぼんやりする頭で瞬きをすると、部屋の中は真っ暗になっている。開けたままの窓の外には、星空が広がっていた。

「どうしたの?」

 レグルスに借りっぱなしのマントを探して羽織り、しっかりとフードをかぶる。それから記憶にある通りに部屋を歩き抜け、首からさげたままの鍵を使って廊下側の扉を開けた。廊下には明かりが灯っていて、薄暗いものの様子が見える。

 有紗の部屋の前で、いかめしい顔をした騎士の男と、ロドルフが口論していた。

「不審者?」

「誰が不審者だ、それはお前のほうだろうっ。王子に取り入ろうとは、いったいどういう魂胆だ?」

 すぐに怒鳴りつけてくる様子は、吠えたてる犬みたいだ。

 その怒声に身をすくめた有紗だが、寝起きなので、何を言っているかまで理解が回らない。とりあえず、城館についてすぐに、レグルスに迷惑そうにしていた男だとは思い出した。

「アリサ様、中へお戻りください。鍵をかけて。こんな無礼者の言うことなど、耳を貸さなくてよろしいですからな」

「どういうつもりだ、ガーエン卿! どうしてあんなボンクラ王子のもとで大人しくしているのだ、貴公は!」

「それはこちらの台詞ですぞ、ロズワルド殿。許可も無く二階に立ち入るとは、分をわきまえられよっ」

 ロドルフが雷もかくやの声で、ロズワルドと呼んだ男を怒鳴りつけた。

「私は由緒正しき伯爵家の息子だぞ。それがどうして第二王子につけられるのだ。納得がいかぬっ」

「三男に生まれたおのれを悔やむのですな。せっかく陛下が采配してくださったのに、受け入れられぬとは、愚かしいことです」

「このっ、言わせておけば!」

 ロズワルドが腰の剣の柄に手を添えた時、レグルスが止めに入った。

「ロズワルド、そこで何をしている」

 聞いている有紗が背筋を正してしまうくらい、硬質で冷たい声だった。

「私の食事中をみはからって、妃を見に来たのか? お前のやりようは浅ましいな」

「殿下! なにゆえあのような娘を妃の間に置くのですっ。ただでさえ立場が低いのです、成り上がるつもりならば、名家の子女を妃にすべきでしょう!」

 謝る様子もなく、ロズワルドは言い返した。その声には、レグルスを馬鹿にする色合いが含まれている。有紗は気分が悪くなった。

(この人、ムカつく)

 初対面から好きになれそうになかったが、嫌いだと思った。

 レグルスは不愉快そうに返す。

「私の婚姻に、たかが騎士の分際で口を出す気か?」

「何をっ。そもそも、持参金もなしに妃を据え置くほどの余裕はこの城にはございませんぞ!」

「そうか。では、お前が辞めればいい」

「は……?」

 レグルスの答えに、ロズワルドは間の抜けた顔をした。

 まさか来たばかりの娘ではなく、自分がクビを切られるとは思いもしなかった。そんな顔だ。

「お前達が父上に命じられて、私に嫌々仕えているのは知っている。今までお前達を放っておいたのは、父上のお心遣いを無にしたくなかったからだ。だが、これ以上は放置しかねる。――ロズワルド、お前をこの時点で解雇する。今日までの給金は、ロドルフから受け取るがいい」

「な、何をっ。そんなことをするなら、部下も全て連れて出て行きますぞ!」

 やりすぎたことに気付いたのか、ロズワルドは目に見えて焦り始める。

「そうしてくれて構わない。選別する手間がはぶける。ロドルフ、後のことは任せる。ついでに、他の使用人で不平不満を言って仕事をなまけている者も、まとめて解雇してしまえ」

「はっ、畏まりました」

 ロドルフはお辞儀をする。そして下げた顔が、満面の笑みを浮かべているのに有紗は気付いた。だが、顔を上げると、何くわぬ顔で平然としている。

(すごい……この人は狸だ)

 ほくそ笑む。そんな単語にふさわしい笑みを、生きてきて初めて見た。

 ロズワルドは肩を怒らせ、ドスドスと足音も荒く去っていった。

「もっと早く、解雇すべきでしたな。殿下がお怒りになるのを待っておりました。いやはや、及第点といったところですな」

 ロドルフの言葉に、レグルスはけげんそうにロドルフに問う。

「ロドルフ? 及第点とはいったい……。僕達を案じてくれているのは分かっているが、実は僕を邪魔だと思っているのではないかと心配していたのだが」

「邪魔に思う? 王位争いの試練の地を選ぶ際、皆が殿下に協力するのを嫌がっている中、率先して名乗り出たのですぞ。陛下から聞いておられないのですか?」

「……ああ」

「まったく、困った方ですなぁ、陛下は。それで殿下の気質が変わるのを待っておられたのでしょうが。もう二ヶ月が過ぎましたぞ、殿下。遅いスタートですな」

 しかも勝手に出かけて死にかけているし、まったく……と、ロドルフはぼやく。

 有紗はそっと口を挟む。

「王位争いで、試練の地ってなんの話?」

 そこで有紗の存在を思い出したようで、ロドルフが怖い顔を作った。

「その話は後でしますとして、アリサ様」

「は、はい、なんでしょう」

「ああいった時は、出てきてはいけません。鍵を閉めて、クローゼットにでも隠れるべきです。次からはそうなさってください」

「……はい」

 反論する余地もなく、有紗は素直に頷いた。


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